oejbooksのブログ

キリスト以来の危険な男。スピリチュアルテロリストOshoの言葉をはじめとして、Oshoに関連するさまざまな話題や情報を提供


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内と外のエコロジー

Inner and Outer Ecology

 

ここにセドナの友人にもらったアメリカのネイティブインディアンの絵があります。

 

 

どういうわけか、このアメブロに貼り付けると、画像が横になってしまうのですが(ブログの編集画面が変わって、まだ使い方がわからないところがあります)、

 

ここにはこのように書かれてあります。

 

大地が人間に属するのではない

 人間が大地に属しているのだ

 

 すべてのものごとは繋がっている

 ちょうど血が私たちすべてをひとつにしているように

 

 人間が生の蜘蛛の巣を編んだのではなく

 その蜘蛛の巣の中に立っているにすぎない

 

 人間が蜘蛛の巣にすることは

 自分自身に対してやっているのだ

 

 地球上のものごとは、すべて相互に依存していて、すべてがつながり、関連し合っています。

 

  地球上には500万~3000万種とも言われる多くの生物が存在し、それらはひとつの生態系のなかで深くかかわり合い、つながりあって生きています。


 しかし現在、人間がもたらす環境破壊によって、多くの植物、昆虫、動物が絶滅していっています。
 
 現在では、その多くが人間の活動によって生存を脅かされており、かつて無いスピードで多くの生きものが絶滅しつつあります。


 世界の野生生物の絶滅のおそれの現状を把握するため、IUCN(国際自然保護連合)ではレッドリストを作成しています。


 平成24年2月に公表されたIUCNのレッドリストでは、既知の約175万種のうち、65518種について評価されており、そのうちの約3割が絶滅危惧種として選定されています。

 

 そして過去と比較して絶滅のスピードがますます早くなってきていると報告されています。

 

 ひとつの植物がなくなれば、それを食べている昆虫や動物に影響を与えます。

 

 人間が待つ殺虫剤で昆虫が死に、田んぼには雑草も生えず、蛙もいなくなり、鳥もいなくなってしまいます。

 

 突然ミツバチが大量死をするという事件がありましたが、そうすると花の受粉を媒体することができなくなり、果実もならなくなってしまいます。

 

 それらは結局は食物連鎖の頂点に立つ人間に還ってきます。

 

 生まれてくる赤ん坊がアレルギーになり、水銀濃度が高くなっているのも、人間が撒いたた農薬などの毒物や養殖などで与える抗生物質、水銀などが 食物連鎖の中で蓄積され、まわりまわって人間に凝縮されてきているからです。

 

 人間が地球に対してすることは、結局はすべて自分自身にやっていることであり、自分自身に還ってくることなのです。

 

 このまま人間が地球を破壊していけば、次の絶滅種は人間ということになります。

 

この地球は全存在の中で、唯一生きている惑星だ

 

私たちは この脈動するジューシーな地球を傷つけている

生は離れ小島としては存在しない

 

この地球にだけ花は咲く

この美しい星

 

究極のチャレンジ

生を選ぶこと

母なる地球

 

生のために反逆し 生を敬う

生は深い相互依存だ

 

人類 自然 環境 生態系に対する犯罪

 

                           Osho

 

 

 

 

 

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私はあなたに夢を託す

I leave you my dream

 

このビデオは1990年1月19日、Oshoが肉体を離れたその日と、その次の日のOsho の主治医だったアムリトがOshoがボディを離れる時の様子をアナウンスした時の記録です。

 

Oshoの遺志によって、Oshoの肉体はその夜、Oshoがいつも講話をしていたオーディトリアムに運び込まれ、そのあとすぐに火葬場に運ばれて、火葬にふされました。

 

このビデオは、その一連の様子を記録したものです。

 

Oshoが肉体を離れたあと、ベッドに横たわっている姿も映し出されています。

 

弟子の生において

 師が肉体を離れるときというのは

 常に偉大な瞬間だった

 

 そしてそれは可能だ

 なぜなら 師には

 いつ自分が肉体を離れるかがわかるからだ

 

 彼は自分とともに

 同じ道を探求し 旅してきた

 旅の道連れのひとたちを集めることができる

 

 今や彼は立ち去ろうとしている

 彼は最後の贈り物を贈りたい

 

 彼がもう一つの世界へと

 翼を広げるとき

 あなたは その風を感じる

 それはたとえることはできない

 

 生において 

 それと比べることができるものは

 何もない

 

 それは純然たる喜びだ

 あまりに純粋で

 それをほんのわずか味わうだけでも

 あなたの全生涯を変容するには十分だ

 

ブッダとともにいること

 ブッダとともに生きること

 彼の愛を注がれることは

 祝福だ

 

 しかし最大の祝福は

 ブッダが亡くなる瞬間に それとともにいることだ

 あなたはそのエネルギーに乗ることができる

 あなたはそのエネルギーとともに 量子的飛躍を遂げる

 

 なぜなら ブッダが消え去ろうとしている

 そして あなたの愛が大きければ

 その繋がりが深ければ

 それは起こることになる

 

 全面的な信頼が起こるに任せれば

 そのときは 私の死のときにも

 あなたは私と一緒に行ける

 

 そのとき 師の死は

 この地上でかつて起きた出来事の中で

 最大の自由をもたらす体験だ

 

ビデオの中で、火葬の翌日、みんなに囲まれながら、Oshoの遺灰の入った壺を肩に担いで行列の中を踊りながら歩いている、髭のおじさんはOsho の弟さんです。

 

私が初めてOshoの流儀のお葬式を体験したのは、まだサニヤシンになる前に、アメリカのオレゴンに滞在していたときのことです。

 

そこで弟子のひとりが亡くなったとのことでした。

 

そのセレブレーション(お葬式とは言わず、お祝いと言っています)に参加したのですが、当時の私は、人の死は悲しむべきものというアイデアしかなかったので、人の死をこのように美しく、喜びをもって送り出すことができるというのは大きなカルチャーショックを受けました。

 

自分が死んだときには、悲しいお葬式ではなく、このようにみんなにお祝いされるのがいいなと思いました。

 

そして、自分の死も、自分でお祝いして死んでいけるようになりたいものだと強く思ったものです。

 

お葬式というと、悲しく、涙の別れを想像してしまいますが、Oshoのヴィジョンの中では、死はお祝いすべきものなのです。

 

死についてのOshoのヴィジョンこのOshoの本の中で詳しく語られています。

 

 

この生をトータルに生きたことへのお祝い。

次の未知なる旅路へと旅立つことへのお祝い。

 

本当にトータルにこの生を生きた人には、お祝いこそがふさわしいのです。

死をお祝いできる人生を送りたいものです。

 

そして、Osho自身が、実際に自分の死をどのように過ごしたのかということを知ることは、自分の死に際しても、どのように対応できるのかということの大いなる学びにもなりました。

 

覚えておきなさない

 私がいなくなっても

 あなたは 何ひとつ失うものはないだろう

 

 おそらくあなたは 自分では全く気づかないものを

 何か得るだろう

 

 私がいなくなったとしても

 どこに行くことができるだろう?

 私はここにいるだろう

 

 風の中に 海の中に 

 そしてもし あなたが私を愛していたなら

 信頼していたなら

 あなたは 千と一つの方法で 私を感じることだろう

 

 あなたが沈黙しているときに

 突然あなたは 私の臨在を感じる

 

 ひとたび 私が肉体から解放されたなら

 私の意識は 普遍的なものになる

 そうすれば あなたは私を探し求めなくてもよくなる

 

 あなたがどこにいようと

 あなたの渇き あなたの愛が

 私を見出すだろう

 

 あなたのハートの中に

 あなたの心臓の鼓動の中に

 

Osho の遺灰は「サマーディ」の中に収められます。

 

この部屋は、以前には「チャンツー(荘子)」というOshoが講話をしていた部屋でもあったのですが、Oshoは生前に、自らがデザインして、自分のベッドルームとして作らせたものです。

 

でもその部屋を自分で設計したときには、Oshoはすでに自分の死期を予見していたことは明らかです。

 

Oshoは数日この部屋で過ごしたあと、すぐにまたもとの小さなベッドルームに戻ってしまいました。

 

その部屋を建設していた人たちは、そこがまさかOshoの遺灰を納めるための部屋になるとは知らされてもいませんでしたし、夢にもそのように思わなかったでしょう。

 

出来上がってみると、まさにそのための部屋として用意されていたのだということが、後になってからわかります。

 

そこの大理石には、次のように書かれています。

 

      OSHO

     Never Born

     Never Died

 

  Only Visited This

  Planet Earth Between

Dec. 11 1931 --- Jan. 19 1990

 

      OSHO

    生まれたこともなく

    死んだこともない

 

  ただ この惑星地球を訪れた

1931年11月11日ー1990年1月19日

 

Oshoが肉体を離れら翌日。

1月20日、アムリットによって、Oshoが死ぬ直前、どのように過ごし、Oshoがどのように肉体を去っていったかということについてのアナウンスがありました。

 

その様子についてもこのビデオに記録されています。

 

アムリトの話を聞くと、Oshoは激痛の中にありながら、その死の直前まで落ち着いた様子で、細かなところまで、自分が去ったあとどうするかの指示をして、まるで休暇の旅に出かけるかのようにくつろいだ様子だったことがわかります。

 

そして、彼の遺灰を納めるサマーディをどうするかについても指示をしました。

 

主治医のアムリトが「Oshoが肉体を離れたあと、みんなにはどのようにつたえたらいいですか」と、Oshoに聞いたところ、次のような言葉を残しました。

 

アメリカでノースカロライナ秋シャーロットの警察の房で過ごして以来、彼の肉体は悪化の一途をたどっている。オクラホマの監獄で、彼はタリウムを盛られ、放射能で被曝させられた。

 

このことがわかったのは、Oshoの容態が原因不明の症状や激痛に見舞われ、血液や髪の毛などを世界の医療機関に送り、医学の専門家によって分析した結果でした。

 

彼らは 証拠が残らないような方法で、彼に毒を持ったのだ。私の体の具合が悪いのは、米国政府内のキリスト教原理主義者たちの仕業だ

 

Oshoは、「痛みを隠してきた」と言いました。

 

しかし この肉体で生きているのは地獄になってきた。」と

 

アムリトは、「Oshoが肉体を去ろうとしている」ことがわかり、Oshoの側近であるジャエッシュを呼びに行きました。

 

そして、そこでOshoは最後の言葉をジェアッシュに残します。

 

アムリトはその言葉を聞いているうちにOshoの手を取って泣き出していまします。

 

するとOshoは厳しい顔でアムリトを見て

 

ノー、ノー、それは(Oshoを見送る)やり方ではないだろう

 

と言いました。

 

アムリトは直ちに泣き止むと、Oshoは美しく微笑みます。

 

私のことを決して過去形では話さないように。

 

この痛みつけられた体という重荷から離れて、私のここでの臨在は 何倍にも強くなるだろう。私の人々に伝えなさい。ずっとずっと強く感じるだろうと。皆にはすぐにわかるだろう。

 

私はあなたに夢を託す

 

そして、最後に、アムリトがOshoの脈を取っていると、ゆっくりとその脈が消えて行きました。

 

ほとんど脈が取れなくなったとき、アムリトはOshoに言いました。

 

Osho その時が来たようです

 

Oshoは優雅に頷くと、目を閉じ、それが最後でした。

 

このOshoの最後の様子をアムリトが読みあげる時、涙声になってしまいました。

 

すると、そこでニワトリの鳴き声が聞こえます。

アシュラムでは、皆が目覚めるようにと、ニワトリの声が流れるようになっているのです。

 

そのニワトリの声は、ちょうどOshoが、「アムリト、それはやり方ではないだろう」と言っているかのようで、みんなも、そのタイミングの良さに笑い出します。アムリトもOshoにやられた! というふうに一緒に笑ってしまいます。

 

それでは、OshoのDeathセレブレーションの様子をお楽しみください。

 

 

Oshoの残した夢の一つでもあるOSHO インターナショナル メディテーション リゾートへのツアーを来年の1月25日から企画しています。

 

興味のある方はどうぞ。

http://oshoartunity.com/tour/

 

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愛と独りで在ること
LOVE and ALONENESS (OSHO Meditation Minutes)

無条件の愛、ということがよく言われます。

でも、無条件に愛するためには、ある条件が必要です。

というふうに言うと、無条件の愛のはずが、条件付きの無条件の愛って、そこに矛盾があるようなので、言い方を変えます。

愛というのはそもそも無条件のものだと定義すれば、条件付きの愛というのは愛ではないことになるので、無条件の愛という言葉はそもそも無意味です。

なので、愛するためには資格(ある能力)が必要です、と言い換えた方がいいかもしれません。

その愛するための資格(能力)としてOshoが今回話しているのは、「独りであること」。

独りであることができなければ、どうしても相手を束縛したり、依存してしまうことになります。そうすると相手に対して無条件に愛することができなくなります。つまり、愛することはできない、ということになります。

愛するためにはもう一つの要素があって、自由であることが不可欠だとOshoが語っていることを聞いたこともあります。

つまり、相手を束縛したり、自由を奪うことがあれば愛は不可能になる、ということです。

従って、愛するためには独りで在ることが必要であり、そこに自由がなければ愛はない、ということになります。

今回のビデオは、「OSHO Meditation Minutes」(Oshoの瞑想の言葉) からお届けします。

愛と瞑想は人生にとって不可欠の要素ですが、今回は、その愛について瞑想するためのOshoの言葉をお届けします。

独りで在る能力は
愛する能力だ

あなたにはパラドックスに思えるかもしれないが
そうではない
それは実存的な真実だ

独りで在ることのできる人たちだけが
愛することができる
分かち合うことができる

相手を所有することなく
相手の もっとも深い内奥に
入っていくことができる

相手に依存すこともない
相手を物に貶めることもなく
相手に依存中毒になることもなく

彼らは相手に完全な自由を許す
相手が去ったとしても
今と同様 自分は幸せだと
知っているからだ

彼らの幸せは 相手には奪われない
なぜなら それは相手にもらったものではないからだ

では なぜ彼らは一緒にいたいのかな
それはもはや必要からではなく
贅沢だ

彼らは分かち合うことを楽しむ
喜びでいっぱいなので
それを誰かに 注ぎたい

彼らは自分に人生を
ソロの楽器として演奏する術を 心得ている

ソロの笛の奏者は
自分の笛を ひとりで楽しむすべを知っている

そしてどこかで ソロの太鼓の奏者と出会えば
彼らは一緒にいるのを楽しむだろう

笛と太鼓の間に
ハーモニーを生み出すのを楽しむだろう


別の言い方をすれば、自分の内側に愛を見出した人だけが、人をも愛することができる、ということだと思います。

Oshoの愛に満ちた声をお楽しみください。



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