oejbooksのブログ

キリスト以来の危険な男。スピリチュアルテロリストOshoの言葉をはじめとして、Oshoに関連するさまざまな話題や情報を提供


テーマ:
マインドから来る愛は
つねに愛憎(lovehate)だ
それはふたつの単語ではない
ひとつの単語“lovehate"だ
ハイフンでも区切られていない

一方、ハートから来る愛は
すべての二元性を超えている……

すべての人々が愛と憎しみを超えたその愛を求めている―一
だが人々はマインドでそれを探し求めている
だから彼らは惨めだ

すべての恋人たちは、失敗、欺瞞、裏切りを感じている
だからといって、誰が悪いわけでもない

実は、間違った手段を用いているだけだ
それはまるで音楽を聞くのに目を使い
聞こえないと言って騒ぎ立てるようなものだ

だが、目は聞くためのものではなく
耳は見るためのものではない

マインドはきわめてビジネスライクで打算的なメカニズムだ
それは愛とは何の関わりもない

愛は混沌をもたらす
愛は愛のなかにあるものをすべてかき乱す

ハートはビジネスとは何の関わりもない一一
ハートはつねに休日だ

ハートは愛することができる
しかも愛を憎しみに変えることなく愛することができる
ハートは憎しみという毒を持っていない

人はみな愛を探し求めているが、間違った手段を用いている
だから世界中で失敗する人が後を絶たない

そして愛が惨めさしかもたらさないのを見て
人々は次第に開じてゆく

「愛は、まったく無意味だ」と一一
彼らは愛に対して厚い壁をつくる

だが、生のあらゆる喜びを逃してしまう
価値あるものすべてを逃してしまう……


ゴールド•ナゲッツ」 by OSHO

この世ではみんなが愛を求めています。

しかし同時に、愛によって苦しみます。

この世の苦しみを、お釈迦様は四苦八苦にまとめました。

四苦とは、生老病死。

八苦とは四苦に、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の4つの苦しみを加えて、合計8つです。

愛別離苦(あいべつりく)とは、愛する者と別離すること
怨憎会苦(おんぞうえく)とは、怨み憎んでいる者に会うこと
求不得苦(ぐふとくく)とは、求める物が得られないこと
五蘊盛苦(ごうんじょうく)とは、五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと。

この8つの苦しみのうち、愛憎に関する苦しみが2つも入っています。

愛別離苦と怨憎会苦です。

どんなに愛していても、別れはきますし、最終的には死によって分かたれる運命は逃れられません。

ということは、愛することは必ず別れの苦しみにつながるわけですね。

また、憎んでも、そういう人と会うこと、会わなくても憎んでいる人のことを思い出すだけでも苦しい思いをします

愛しても苦から逃れられず、憎んでも苦しみ。

この愛憎の苦しみから逃れるにはどうすれば良いのでしょうか?

それに対するOshoからのアドバイスは、愛憎を超えた愛を発見しなさい、ということです。

それが「ハートからくる愛」です。

そのハートからくる愛を発見するには、まずハートを発見することです。

私たちは人生のほとんどをマインドだけで生きています。

ハートについては忘れてしまっています。

ハートがなんなのかさえわからないことがよくあります。

マインドではハートを知ることができないからです。それなのに、マインドでハートのことを知ろうと思っています。それは不可能なことです。

それは「音楽を聞くのに目を使い聞こえないと言って騒ぎ立てるようなものだ。
だが、目は聞くためのものではなく耳は見るためのものではない」
とOshoも語っています。

ハートはハートでしか知ることができず、そのためにはハート瞑想が助けになります。

それはともかく、私たちが通常知っているのは、マインドの愛です。

愛にはいろいろあります。

そのいろいろある愛を混同しているのが、愛についての誤解と苦しみを増している原因のひとつです。

例えばここでお釈迦さんが「愛」として説明している愛は、パーリ語でtaṇhā(タンハー)=欲望、渇望、強い願望、サンスクリットでtṛṣṇā (トゥリシュナー) =渇愛、となっているので、どちらかといえば官能的な愛、セクシャルな欲望のことを言っているようです。

要するに、この苦しみとなる愛はセックスの欲望のことを言っているだけで、ハートの愛とは全く異なる愛です。

そして私たちが普通男女の愛でかたっているのは、単にこのセクシャルな愛についての場合がほとんどではないでしょうか?

「セックスしたい」というのを「愛している」というふうに勘違いしていたりします。

ある意味思春期においてはそれらを混同するのはやむ終えないと思いますが、それを愛と勘違いしていることがのちのちの問題を作り出しています。

何がセックスの欲望で、何がマインドの愛で、何がハートの愛なのかがわかるだけでも、ずいぶん物事がシンプルになります。

このセックスの愛とハートの愛、そして祈りとの違いについては、「セックスから超意識」の講話の中でOshoは詳しく解説しています。

この「ハートの愛」に目覚めることができるようになれば、愛別離苦で苦しむことはなくなり、怨憎会苦の苦しみもなくなります。

そして価値ある本当のものを手にすることができるのです。

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テーマ:
ハートとは二元性の超越だ
ハートはものごとを明確に見通す

そして愛は、ハートが本来持っている質だ一ー
何ひとつ訓練する必要はない

しかも、この愛は相棒として憎しみを持っていない


ゴールド•ナゲッツ」 by OSHO

愛はハートが本来持っている質ならば、

ハートさえ知ることができれば、

何ひとつ訓練することなく、愛が手に入ることになりますね。

しかも、その愛は「相棒として憎しみを持っていない」というのだから安心です。

では、相棒として憎しみのある愛って、どんな愛なのでしょう?

それはマインド(頭)による愛です。

「愛憎」という言葉があるように、マインドの愛は必ずコインの裏表のように愛の裏側には憎しみが潜んでいます。

ですから、恋人との別れ話や離婚には愛憎劇が繰り返されるのですね。

それはすべてマインドからの恋であり、マインドからの愛だったからです。

マインドの本来持っている質から、二元性は避けられません。

善悪、美醜、損得、すべての物事に対する判断や評価をするマインドが本来持っている機能から、二元性は避けられないのです。

ですから愛することにおいても、愛憎の二元性は避けることができません。

しかし、ハートは二元性を超越しています。

ですからハートの愛には憎しみはないのです。

ハートには感謝があります。

たとえ別れることになっても、感謝を感じることしかできません。

愛を受け取ってもらえたことの感謝。

出会えたことの感謝。

二人で過ごした時間の感謝。

悪い酒(安い酒)と良い酒(高級な酒)の違いは二日酔いの時にわかります。

悪い酒を飲んだ時の二日酔いはホントに苦しいものです。

銘柄はあえて言いませんけど、学生時代に友達とサ0000の一番安いウィスキーを一本空けて二日酔いになった時の苦しさは今も忘れません。

マインドの愛は、そういう安っぽいウィスキーを飲むようなものです。

恋に酔っ払った後で苦しみが訪れます。

愛憎劇を繰り広げるようだったら、それはマインドの愛でしかなかったんだということになります。

どうせなら悪酔いしない愛を味わいたいものですよね。

それがハートの愛ということになります。

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テーマ:
私はあなた方に言おう一ー
宇宙と一体になるには
あなたが消滅し、存在を在らしめなければならない

存在が全面的に在るために
あなたはなくならなければならない

だが、私が消滅しなければならないと言っている人物は
あなたの現実(リアリティ)ではない
たんにあなたの人格だ一ー
それは、あなたの内側にあるたんなる概念だ
現実には、あなたはすでに存在と一体になっている

それ以外の方法であなたが存在することはできない―
あなたは存在そのものだ

ところが、人格が虚構をつくり出し
あなたは自分が分離していると感じる

自分は分離していると見なすこともできる一ー
あなたが存在に敵対するとしても
存在はあなたに完全な自由を与える

あなたは自分が存在とは別個のもの一ー
エゴだと考えることもできる

だが、それこそが
あなたを取り囲むこの広大無辺なるもののなかに
あなたが溶け込むのを引き止めている障害だ


ゴールド•ナゲッツ」 by OSHO

人間の存在は多重構造をしています。

素粒子物理学者のデヴィット・ボームは私たちが知覚できる世界=明在系以外に、私たちが知覚できない世界=暗在系が存在するというふうにも言っています。

心理学の世界では、顕在意識と潜在意識、あるいは意識と無意識を対比させて、顕在意識は海に浮かぶ氷山の一角に例えますが、素粒子の世界でも明在系は暗在系に浮かぶ氷山の一角に例えられたりもします。

それと同じようなことが、このOshoの語っている「人格」「エゴ」と「存在」との関係に当てはまるようにも考えられます。

つまり、「人格」(パーソナリティ)はペルソナ(仮面)を語源に持ち、「エゴ」と同じく心理学的には認識し知覚できるものです。

しかし「存在」はとらえようがなく、存在そのものは知覚できない世界とも言えそうです。

その目に見えない世界と目に見える世界、知覚できる世界と知覚できない世界を同心円として、それらの波動のあり方によって同心円で表したのが意識の多重構造マップです。

同じ波動(エネルギー)でも、波長の違いによって目に見える色で言えば、赤からバイオレットなどの違いが生じるように、荒いエネルギー(波動)は物質や肉体となって目に見え、より繊細なエネルギーはサトルボディ(オーラ)として見え、さらに繊細な波動になると見えなくなります。

同じ色の波動でも、紫外線、赤外線になれば目には見えなくなるのと同じです。

意識の多重構造マップで言えば、円周の外側の層は目に見える世界です。

肉体や行動、人格などは私たちが日常生活をしていく中で認識できる外側の世界です。

感情やフィーリングの波動はさらに内面の繊細な波動になり、本質はさらに繊細な波動となり、その中心は「存在」の世界であり、物理学では真空とかゼロポイントフィールドという言い方がなされていたりします。

私たちは人格やエゴの世界がリアリティの目に見える現実だと思って生きています。

しかし果たしてそうでしょうか?

人格やエゴ、この肉体はかりそめに目に見える世界に現れていますが、その本当の源は目に見えない世界である「存在」にあるのではないか?

むしろ仏陀をはじめとする覚者が共通して語っていることは、この世は幻想だということです。

つまり、人格が虚構をつくり出し、自分が存在している目に見えるこの世こそがリアリティだと思い込んで、自分のエゴが存在しているように思っているけれども、そのように思い込んでいることで、本当の「存在」との分離をつくり出し、本当のリアリティが見えなくなっている、ということです。

しかし私たちは人格とエゴの世界しか見えなくなっているので、見えない偣在系の世界がわからなくなってしまっています。

「存在」の世界を知って初めて、人格やエゴは虚構だとわかるのですが、人格やエゴの世界に住んでいる限り、広大無辺なるもののなかにあなたが溶け込むことができなくなっているというジレンマに陥っています。

そのジレンマを優しく解きほぐし、エゴや人格を持ちながらも、さらなる本質や中心にも気付かせてくれるのがハート瞑想です。

ハートと意識の多重構造

ハート瞑想の中であなたが中心の世界に入ったとき、あなたが消滅し「存在」があり、宇宙と一体になることがわかるでしょう。

意識の多重構造


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