oejbooksのブログ

キリスト以来の危険な男。スピリチュアルテロリストOshoの言葉をはじめとして、Oshoに関連するさまざまな話題や情報を提供

NEW !
テーマ:
悪魔はいない
There Are No Devils

<質問>
「うろちょろしている悪魔は私たちのハートに巣食っている奴らだけだと聞きました。
 これは真実だと思いますか?」

Osho の応答
悪魔などいない
 神と同時に すべての悪魔は消え失せた
 彼らは あなたの神の影だ
 神なしでは 悪魔は存在できない


デビル(Devil)(悪魔) という言葉は神聖を意味するデバイン(Divine)という言葉の語源と同じだとOshoは指摘します。

 サンスクリットでは神聖という意味の言葉はDeva であり、そこからDivine とDevilという言葉が生まれたということです。

 Oshoが言葉の由来とか語源には非常に詳しくて、いつも驚かされます。

 実際、英語というのはその70%以上が外来語からできているらしく、その中でもフランス語を語源とする言葉が50%を超えるらしく、それは一時期イギリスがフランスによって支配されていた期間があるという歴史的な事情もあるようです。

 そしてラテン語のみならず、サンスクリット語を語源とする言葉なども多く存在しています。

 なので英語を学ぶには、他の言語を学ぶことが有益だという説もあるぐらいです。

 それはともかく、悪魔が問題ではなく、あなたが目覚めているかどうかが問題だ、というのが次に続くOshoの話です。

 つまり、悪魔というのはあなたの無意識の状態に他ならない。
 
 宗教というのも、つまるところあなたが目覚めていないから必要となっているだけであって、ひとたびあなたが目覚めれば、聖書なども必要なくなってしまうだろう、ということになります。

 実際 悪魔と神は 
 一つのコインの両面だ
 神も悪魔もいない

 あなたはそこにいる
 眠っているか 目覚めているかのどちらかだ

 あなたが眠っていれば 生は惨めで 苦しみで 
 不安で 無意味だ

 あなたが目覚めていれば
 すべての楽でない状態(dis-ease)は 消え失せる

 はじめて あなたは 
 自分が途方もない美と
 至福と 静寂と 平穏に包まれているのを感じる

 そしてそれを体験するのに 
 必要なことは とても単純だ
 人は 自分の先入観を脇に置かなければならない


 目覚めるためには、自分の先入観はちょっと脇に置いておくだけで良く、永遠にそうしろと言っているのではない、とOshoは言うのですが。。。。

 目覚めることで何が手に入るのかということを聞けば、先入観は少し脇においても良さそうな気がします。

 あなたは、どう思われますか?

 Oshoの話を聞いて、考えてみてくださいね。



これは日本語の字幕が入っているビデオです。

日本語の字幕が表示されないときは、画面の下の歯車のマーク「設定」をクリックして「字幕」の言語を「日本語」に選択してください。

☆ランキングに参加しました!
よろしければ、クリックお願いします☆

☆瞑想
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
にほんブログ村
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(2)

テーマ:
「権力を得たいという衝動」
 The Compulsion to Reach Power

 <質問>
どうしてほとんどの人は ただの人であるのに飽き足らず、権力や地位などへの衝動をこれほどまでに抱えているのでしょうか?

 それには二つの理由がある、とOshoは語ります。

 一つ目の理由は、両親や教師や社会などの、誰もがあなたをより良くしようと改善しようとしていていて、あるがままでは受け入れられてこなかった、という社会の条件付けによって生じるものです。

 大抵はこのことが多くの人に問題を作り出してしまっています。

 この「あるがままでは受け入れられてこなかった」という両親や社会からの条件付けによって、幼少期からの心理的なトラウマを抱えて、人生をなんとかしようとして苦しむ人たちが多くいます。

 そうするとどうなるかというと、

「私はそのままでは十分ではない」
「何かが欠けている」
「ここではなく、どこかよそに行かなければならない」
「ここは自分がいるところではない」
「もっと高みに行かなければならない」
「もっと力があって、支配力を持たなければならない」
「人から尊敬されて、有名にならなければならない」

 というふうな「マインドセット」(マインドの思い込みや信じ込み)が形成されて、その信念に従って自分の人生を作り上げ、生きようとします。

 このように幼少期からの両親や社会の条件付けから「自分は十分ではない」「自分がダメだ」「自分はできない」などのマインドセットが形成されてしまうのが一つ目の理由によるマインドセットの形成です。

 そうすると、「自分は十分ではない」「自分はダメだ」「自分はできない」という自分のマインドセットにあった人生を生きていくことになります。

 あるいはその心理的補償として、それを補うために努力し、頑張ろうとします。

 英語ではcompensationと言われていますが、今はやりのアードラー心理学などでは、このような精神的・身体的な欠点や弱点を補おうとする心の動きは、劣等感の補償作用として肯定的に考えられています。
 
 例えば、吃音を克服して雄弁家となったデモステネスなどは心理学でよくあげられる例です。

 反面,逆に劣等感を隠すために,他人に尊大になるとか攻撃的にふるまうといった誤った補償の形をとることもあります。

 多くの心理学的なアプローチだと、こういう補償作用などが良い方向に働くなら、その補償作用は良いことだというふうにも考えられています。

 Oshoに言わせれば、これらの条件付けは取り除く必要がある、としています。

 ところが驚いたことに、例えこの一つ目の条件付けが取り除かれ、こうしたマインドセットがなくなったとしても、「自分は十分ではない」と感じる感覚は残る、とOshoは言うのです。

 それは一つ目の理由とは全く異なった次元の、もうひとつの理由があるからだ、というのです。

 このOshoの話を聞くまでは、一つ目の理由によるものだけだと思っていたのですが、私の中に根強くあった「自分は十分ではない」と感じることの理由が、それだけではなく、さらに根深いものがあったということがわかり、自分の中の何かが腑に落ちました。

 私の中では、一つ目の条件付けからくる「自分は十分ではない」というマインドセットが払拭されたわけではありませんが、その原因については自覚がありました。しかし「自分は十分ではない」と感じる二つ目の理由についてはそれほど自覚がありませんでした。

 でも、自分の人生を振り返ってみると、一つめのマインドセットのみならず、この自分で気づかなかった二つめ理由が自分の行動を駆り立てていたことがよくわかります。

 この二つ目の理由が、私がOshoに惹きつけられることになった理由でもあったということにも気がつきました。

 というのは、Oshoこそが私が求めていた、この二つ目のことを成就した人であったからです。

 ユニティインスティチュートで学ぶ「意識の多重構造マップ」でいうと、一つ目のマインドセットは表層の「マインドの層」に関連する条件付けに関するものですが、二つ目のものは、意識の多重構造のより深い、中心的な層である「本質」の層からやっていくようです。



 大抵は、一つ目の条件付けに翻弄されて、そのことに悩んで、そのマインドセットの制限の中で人生を生きていたり、あるいはその心理的補償作用で劣等感を克服し、あるいは外側の権力を得ることでその欠乏感を満たそうと人生を費やしたりもします。

 そして、この一つ目の理由のレベルだけで人生を過ごしていると、人生の最後になって、こんな人生ではなかったはずなのに、ということに気づきます。

 それは、もっと本質的な何かが人生の中で見失われていたからです。

 そのことに気づいた人は、その二つ目のことを成就しようとします。

 ところが、その二つ目のことを成就しようとする本来の自然の欲求が社会によってねじ曲げられ、誤用され、社会によって利用されてしまっているがために、本人も気付かなくなってしまっているということが起こっている、とOshoは指摘しています。

 そこでそれを見分ける知性が必要だと、Oshoは語ります。

「何かが欠けている」
「自分は十分ではない」
「何かを得なければならない」
「何かを達成しなければならない」

 と感じたとき、それが一つ目の社会の条件付けによって生じたものなのか、二つ目の理由によるあなたの本来の自然な欲求に基づくものかを見分ける必要があります。

 ここでいう二つ目の理由というのは「あなたの実存は 種に過ぎないということ」によるものです。

 「生まれたとき 木として生まれていない
  あなたはただの種として生まれる
  そしてあなたは
  花を咲かせるところまで育たなくてはならない
  その開花が あなたの充足感 成就となる

  この開花は 権力とは何の関係もない
  金とは何の関係もない
  政治とは何の関係もない
  それは全くもって あなたに関係がある
  それは 個人の進歩だ

  種は花になるために
  はるか旅をしなければならない


 真の豊かさとは何か。

 あなたは、本当には、何を成就しなければならないのか?

 そのために何をしなければならないのか。

 Oshoはこのビデオで、真の豊かさを成就することについて語っています。



これは日本語の字幕が入っているビデオです。

日本語の字幕が表示されないときは、画面の下の歯車のマーク「設定」をクリックして「字幕」の言語を「日本語」に選択してください。

☆ランキングに参加しました!
よろしければ、クリックお願いします☆

☆瞑想
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
にほんブログ村

これは日本語の字幕が入っているビデオです。

日本語の字幕が表示されないときは、画面の下の歯車のマーク「設定」をクリックして「字幕」の言語を「日本語」に選択してください。

☆ランキングに参加しました!
よろしければ、クリックお願いします☆

☆瞑想
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
にほんブログ村
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(2)

テーマ:
奇跡ー免許なく水をワインに変える
Miracles - Turning Water into Wine Without License

 Oshoはキリストのように、水の上を歩いたり、水をワインに変えたりしたとかの奇跡を起こしたわけでもなく、聖書で予言されたわけでもなく、神の子というわけでもなく、クリシュナのように神の化身というわけでもなく、みんなと同じ、普通の人間なのに、どうしてみんなOshoとともにいて、Oshoを愛しているのでしょうか?

 このビデオではOshoは何か特別なことを話しているようには思えません。

 というか、ある意味、奇跡と思われていることさえも、ジョークにしてしまっています。

 キリスト教では、キリストは水をワインに変えたという奇跡は有名です。そんな奇跡を行うことができるキリストって、特別な人ですごいって思ってしまうんですが、Oshoにかかると、免許もなくて水をワインに変えてしまったら密造酒を作ったことになるので、牢屋に入れられるべきだってことになってしまいます。

 キリストが水を歩いたという奇跡だって、そんな物理法則に反することができるはずもなく、実際にキリストに水の上を歩かせたら、溺れて人工呼吸しなきゃならなくなるよ、なんて漫才ネタにしてしまっています。

 Oshoはそんな奇跡も起こしていないのに、なぜこれほどまでに愛される存在なんでしょうか?

 Oshoのビデオを見て、その秘訣を見つけてみてください。



これは日本語の字幕が入っているビデオです。

日本語の字幕が表示されないときは、画面の下の歯車のマーク「設定」をクリックして「字幕」の言語を「日本語」に選択してください。

☆ランキングに参加しました!
よろしければ、クリックお願いします☆

☆瞑想
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
にほんブログ村
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)