日本人の死生観が育たない理由の一つに

 

「自分の考え方を書かない」ということがあげられそうです。

 

 

死や喪失は決して避けられないものだが、記憶を整理し「バック・トゥ・ザ・ベーシック」に取り組むことで備えておくことができる(みんなの介護・賢人論 山口揚平氏 後編)

 

全部が全部、その通りだ!と思った訳ではありませんが、意識体についての考え方についてはかなり同意できまして。

 

 

自分がどういう考え方をし、その考え方はどう変化し、またその考えに一貫性があるかどうかなどは、日記でも書いているようであれば第三者にも明らかに出来ますが、「ジョハリの窓理論」でご紹介したように基本的には「自分」という存在は他人に誤解されて存在しています。

 

分かってくれているはずだ、というのは妄想みたいなものです。また、自分自身の客観化には「アウトプット」は欠かせないものです。

 

別に毎日ブログを書け、なんて暴言を言うつもりはありませんが、「自分はその時々にどう考え、どう思う人間なのか」について、敢えて言いますと「殆どの人が自分の思考形態の偏り」に気が付かずに生活しています。

 

まー、それは致し方ないんです。だって「自分は常識」「自分は普通」と信じ込んでいますから。

 

 

考え方を周りに向けてみるといいでしょう。あなたはそんなに多数の賛成意見を集められる人でしょうか。何かを発信した時にただの「いいね!」ボタンではない「同調」や「賛同」を受けられる人物でしょうか。

 

いかがでしょう。アウトプット(周囲に対する考え方の出力という意味でここでは使っています)してもいないのに、何を基準に「自分は分かってもらっている」と思い込んでいるんでしょう。根拠となるのはなんでしょう。

 

 

読まれようが読まれまいが、自分の考えをアウトプットしておく手軽な方法の一つと僕が考えているのが「書き出す」という作業です。

 

大多数はとにかく「書かない」し「書き出さない」。今日どんなことがあって、その時どう思ってどう考えたのか、そんなメモ程度でもいいのです。そうしたものが記録として残っていれば「代わりに考える人」や「代弁者」が参考にして考え方を導き出すことも可能になります。

 

それ以前に、自分がどう考えどう思い、それを実行するかしないかの客観化も出来ます。そうは言っても「書き出しておかない」「記録しておかない」本当のところとして深層心理は気が付いてしまっているからです。

 

「今日、こんなことをする店員がいて超むかついた」そのていどで良いでしょう。これだけでも「こんなことをされてムカつく程度の人間だ」という事が客観視できるようになるのです。…で、書けない訳ですよ(笑)。その程度の人間だと思われたくなくて。認めなきゃならなくなるんです、書き出したことで。

 

もちろん、何をしたかでもいいでしょう。普段どう言っていて、何をなしているのか。やっただけで良いんです。その場合でも知れるでしょう。「自分は思った以上に有言実行ではない」という事実が分かります。

 

分かってきましたか?自分という人間は想像以上に「自分の言動に対して向き合う事を拒絶している」ものなんです。

 

 

それはそのまま自分の死生観との矛盾に対して向き合おうとしていない事を意味しています。本当の自分を認めたくないのとほぼ同義かもしれません。

 

ジョハリの窓理論」で言っているところの①と③の部分だけを自分だと信じ込んでいたい訳です。でも、それは明らかに自分を形作りません。一個人として成立しない「偽りの自分」でしかないんです。

 

書き出してみることでようやく④「未知の自分」が少しずつ見えてきます。アウトプットした自分に他人から意見されることでようやく②「他人からの自分」が開拓されていきます。

 

書いていて苦しくなると言う事は、「嘘」や「偽り」や「借り物」の自分ばかりを書いているからに他なりません。普段から自分を偽っていて、その偽りを「自分だ」と勘違いしているだけなんです。

 

 

少なくともSNS上では「匿名化」しないと書き込めない状況だったり、そうして書き込む際に別人を演じないといけないようならば、それは自分自身が「嘘」や「偽り」や「借り物」であることを意味しているでしょう。

 

自分自身をアウトプットしている訳ではありません。自分ではない「誰か」を演じているだけです。それはアナタ自身ではない妄想です。

 

正直な自分の思考形態を「文章化して」再び読む事が出来ないようなら「自分自身の思考」さえ固まっていないと言えましょう。

 

 

認知症症状に怯え、自分自身の死に怯え、アウトプットされた思考も残らない。少なくとも死は必ず訪れます。その時、あなたの考え方や思考、思想を誰がどのように代弁しますか。

 

息子や娘、妻や夫とどれだけの意見交換をしましたか。毎日1時間ずつ欠かすことなく意見交換をしたとして20年でも1年に満たない思考の共有時間です。それで「自分を分かれ」と?自分自身の事さえ把握していないのに?

 

敢えて申しますと、自分自身の事を露ほども理解していない大人が大半です。「そんなことはない、自分の事はよく分かっている」と豪語なさるならば学生たちの前で自分の生き方を披露してごらんなさい。大勢に理解されなくてもいいでしょう。それでもどの程度通じるかどうか分かります。自分がどんな人間なのかを。

 

書き出せない、語れない、引き寄せられないというのなら、その娘息子に「こうしろ」「ああしろ」などと言えたものではない自分が少しは分かるでしょう。なのに他人には偉そうに文句を言っている、それが自分自身です。

 

 

自分はどう生き、どう在り、どう考え、どのように思い、どう話し、どう行動する人間なのか。

 

思っているだけなら、その思考は存在しないも同様です。自分という幻を生きるのではなく、自分自身がどんな人間かを書き出しておくことは「自分と向き合う」上での大切な一歩ではないでしょうか。

 

 

にほんブログ村 介護ブログへ
にほんブログ村



 

~お読みくださいまして誠にありがとうございます~『おぢゃっこ俱楽部』