昨日はひそかに全身の筋肉痛に苛まれておりました。

思ったのは、「そうか。防災意識ってのは体作りも重要なんだ」ってこと。


震災直後、僕は起業したばかりって事もあって、ほとんど全ての趣味を捨ててしまった。沢登りや渓流釣りは電波から逃れるため?に年十回以上行っていたのだけれど、ここ4年半、一度も行っていない。

その道具の一つ、ウェダー(釣り用の寸胴。胸元まで水が入ってこない)が今回の避難呼びかけでは随分と役に立った。ただし、沢登りをしていなかったので、視界が通らない濁流の中を漕いで歩く事が過酷で、筋肉痛を招いたようです。


僕もまた防災意識が足りなかったと言う事です。


ただ、避難の呼掛けや声掛け、誘導中に「どうしちゃったんだ!?」と思った事があります。

「大丈夫。ここまでは水はこないから」「今まで溢れたことがない」「まだ勧告や指示が出た訳じゃないでしょ」「お前ら、オーバーなんだよ」・・・結果、蓋を開けて見れば僕はさんざん言われたけど、後悔していない。

だってまだ震災から4年半。よりにもよって、11日という数字が否が応にも僕を眠らせなかったんだ。


午前2時半。僕は鳴瀬側の反乱危険水位に達したのをwebで確認し、妻と共に家の避難用具の確認をした後、重要物品の水防対策をする為に激しい雨の中事業所に向かった。

普通じゃない事態が起っているのは家の目の前の川の水位を見た時だ。橋に瓦礫がぶつかっていた。道中の道路はすでに川の様だった。

午前3時。事業所のある三本木地域に避難勧告が出された。大急ぎで必要な物品だけなるべく高いところに上げ、3時半、事業所を脱した。

避難先としていた道の駅を確認する際、鳴瀬川からは低いところから越流が始まっているのが分かった。もちろん、そんなの見たのは初めてだった。

三本木地域の判断は当然だと思った。

自宅に戻ろうと思ったが、すでに来る時の道中、用水路が溢れて冠水していたことを思い出し、古川市内を迂回。今回問題となっている渋井川の橋の上を通ってしまった。ここは判断ミスだと思う。幸い、その時点では決壊していなかったけれど、川はすでに溢れているように感じた(真っ暗で良くは見えなかった)し、渋井川は本来、鳴瀬川に合流する川だから、とっさに「もう次は渡れない」と思った。

家では着替えを済ませた家族が、2階に物品を上げ終えていた。避難準備情報が流れたのはその直後だった。正直にその時に思ったのは「遅すぎる」ということ。

今準備していたのでは、逃走経路が断たれる気さえした。消防団の私服に着替え、寸胴をつみ、サーチライトを装備して、三度僕は外に出たんだ。

が、世間はどうもそうじゃなくて、その時点で、僕の住む地区は周辺、真っ黒な湖と化していた。何せ、田んぼが視界から消えている。

その時点がこれだ。




しょっぱなの批難の声掛けに応じてくれていたら、もう少し泥水の中を歩かなくて済んだはず。被害がなければ無いでそれに越したことはないし、その時に「オーバーなんだよ」と叱ってくれたら良かった。

近所一帯は、結果的に8割方床上床下浸水した。だから僕は声掛けに回った事を後悔していない。

近所のおばあちゃんを誘導している時、「80年生きてきて、こんな事は初めてだ」と言われた。


自然災害は、そもそも僕達の経験を越えるものだ。僕は4年半前にそれを思い知らされた。よりにもよって、被災地だったはずなのに、「起ってもおかしくない」という意識が足らなかったと思う。

未明前から声を掛けたためか、ほとんどが先に挙げたような反応だった。僕は言われても仕方なかったろうけど、自然は待ってはくれない。特別警報ってのはそういうもんだと思った。

しかし、多額の予算を掛けて全地域に配備された防災スピーカーが音を出すことは一度もなかった。今、使わずにいつ使うんだろう。今、鳴らずにいつ鳴らすんだろう。


それを思い報せ、反省させるために、自然はこの大雨被害をもたらしたんだろうか。

我々は忘れる生き物だ。繰り返さないと覚えない。それは僕が「脳科学・心理学」記事でも再三書いている事です。


「平気だよ」・・・その平気とは、自然を侮った狂気である。僕は今回、さらに強く感じたのです。





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