犯罪の立件は動機の存在ではなくプロセスの解明によってなされる-明智憲三郎-

ちょっとかっこいいですね。統計学や行動科学(心理学や社会学、文化人類学など)を用いて犯罪者のパターンを推論することをプロファイリングといいます。正確には犯罪プロファイリングです。

(質のいい)事実+(レベルの高い)仮説=(最適解である)意見-自論です。

明智理事が答えにたどり着いたプロセスを順を追って解明します。みなさんも過去の講座で学んだこと基に一緒に考えてください。

 

プロファイリングのイメージ図

 

1月14日(土)に行なった第11回楽学@楽膳楽酒のテーマは「なぜ本能寺で討たれたのか?」でした。戦国最大のクーデターです。なぜあのタイミングで?なぜ本能寺で?光秀の単独犯?動機は?黒幕いるんじゃないの?など疑問が多く、ミステリアスな事件であり興味が尽きないテーマです。

講座資料の表紙

 

政権をひっくり返すには何をするか?この点に関しては前提の5つの条件が必要となります。

1:信長本人を討つ(安土城だと警戒が厳重)

2:嫡子信忠を討つ(岐阜城だと警戒が厳重)

3:近国の織田軍を制圧する(方面軍が集結していない。細川・筒井が加勢する)

4:東国の織田軍を制圧する(遠方なので時間稼ぎできる。武田に加勢する)

5:徳川軍を制圧する(すぐに出撃体制をとれない)

このうち4の条件に関しては天正10年2月より前であればチャンスはあったかもしれません。しかし武士としての武田家は滅亡したので、武田領地を制圧している期間がチャンスの第2候補となります。

つまり、信長公と信忠が拠点にいない条件下で、かつ近国の織田軍を制圧し東国織田軍が加勢するまで時間がかかる状態、さらに徳川軍を制圧できる条件が整ったときにミッションはコンプリートします。すべての条件が整う機会なんてほぼありませんね。もっというと、このような状況にあることを知りえる立場にないといけません。

 

天正10年6月2日の状況を見ると限りなく条件を満たす環境下にあります。

6月2日の状況

1:信長はわずかな供回りとともに本能寺に寄宿

2:信忠は妙覚寺に寄宿

3:それぞれ次の戦場に行く準備でちりじり

4:武田旧領地制圧のため奔走

5:信長公に呼ばれ堺に滞在

 

実際に起こったことを整理します。

1:信長討ち→本能寺にて自害

2:信忠討ち→二条新御所(二条御新造)にて自害

3:近国織田軍制圧→近江一時制圧。美濃・尾張敵対行動なし

4:東国織田軍制圧→甲斐織田軍崩壊

5:徳川軍制圧→14日まで出陣せず

 

これらの状況、実際に起こったことをふまえて推理が始まります。明智理事がよく言っている「愚者は成事に聞く、智者は未萌に見る」(戦国策)の視点です。

講座資料の一部

 

光秀は謀反が成功するとの見込みを立てて謀反に踏み切ったはずです。その根拠は何か?天正10年1月以降の関係者の証言から「何か」を見出します。参考としている資料は以下になります。

日記など

・宗及茶湯日記他会記・基親記・信長公記・甲陽軍鑑・当代記・ルイスフロイスの日本史・是任退治記・勘修寺晴豊の日々記・アビラヒロンの日本王国記・大久保彦左衛門の三河物語・多聞院日記・茶屋四郎次郎の茶屋由緒記・伊賀者由緒記・家忠日記・依田信審の依田記

書状

・徳川家康の穴山梅雪宛書状・織田信長の柴田勝家宛書状・織田信長の織田信孝宛朱印状・本城葱右衛門の覚書書・ロレンソのフォンセカ宛書状・石川忠総の石川忠総留書・伊賀者井御陣御伴書付・徳川家康の阿部正綱宛書状

 

講座の風景①

 

ちょっとブレイク・・・今回提供させていただいたお菓子は滋賀を代表する和菓子屋たねやの「ふくみ天平」です。近江の糯米を使った芳ばしい最中種で、ふっくら蒸しあげた求肥入りの餡をはさんで食します。最中種と餡が別々に包装されています。

滋賀・たねやさんのお菓子

 

個人的に気になるのは小姓・彌助の存在です。他の小姓は討ち死しているのになんで彌助だけ助かったのか?黒人だからという理由だけで罷免されないでしょう。宣教師の報復を恐れたのか?宣教師と光秀は通じていたのか?新たな疑問が残ります。今度明智理事にこっそり聞いてみようと思います。

講座の風景②

 

講座が終わると懇談会です。参加人数が多く大変盛り上がりました。

 

次回はいよいよ最終講座となります。開催日は2月4日(土)、テーマは「信長を支えた思想は何か?」です。詳しくは近日公開のアメブロフェイスブックの募集をご覧ください。

 

追記 明智理事から課題が出ています。次回講座ご参加予定の方はぜひ考えてみましょう。