目を細めてみるのだよ、ハニー。先日新聞を読んでいた時のことで御座った。某さんが春らしぶりを大いに語るとの文章が目に飛び込んできたで御座る。春らしぶり?新語か?はたまた未知なる言の葉でオリハベリ?よく見ると、暮らしぶりの見間違いだった、というオチで候。
さて。
何気なく始まってしまいましたが、お久しぶりで御座います。年の瀬も押し迫る中そろそろ師もクラウチングスタートにて身構えている時候に、親近を騒がし奉るまたしてもアレで御座います。まぁ、いきなり、アレをアレするのもアレなんで、その前にアラフララ。
先日、姫と久方ぶりに電話で話しておりましたところ、そういえばそろそろ十年、という話が出まして。ワタシが隠遁生活に入る前のあの不祥事から、来年で十年。それぐらいが一区切りかなぁ、と思って今、後始末を遣っているのだよ、グワッハッハッハハヒー、というようなことを話をしていたのね。
別に誇ることでも何でもないのだけど、ワタクシ多少不祥事の末に拘禁生活を送ったことがありまして、そのきっかけがちょうど今頃でして。もちろん、姫はその辺の事情、一部始終を見て知っておるわけで、その後の隠遁生活も含めて全て熟知している、おそらくは世界で唯一の人物ではなかろうか。なので、十年一区切り、という話に、ハハハーン、的に頷いていたのね。
誰に宣言したわけでもないけれど、まぁ、こんな生活長続きするはずもないけれど、とりあえずは十年、と漠然と考えていたのね。正確には、その後一年ほど擦った揉んだありましてから自由の身になったので、一応その辺が本当の区切りではあるのですが、多少長めのスパンで考えております(笑)。いずれにしろ、自由の身になった時に考えたことは二つ。相反する二つの考えだけを持って、社会復帰したのよ。
ひとつは、このままじゃダメね、ってコト。結局、その時点で三十数年、色々考えギリギリのところで規範を逸脱せずにやってきたはずなのに、結果がこれか、と。いろんな人と付き合い、いろんな人の話を聞き、いろんな人に怒られ、いろんな人の説教を聞き、受け入れ、努力し、自分なりに精一杯がんばってきた結果がこれか、と。つまり、今までと同じ様なことを遣ってちゃダメだね、これは根本的に自分を作り替えないと、と思ったのよ。そうしないと、また結末が同じになってしまう、と。
だから、まぁ、十年掛けて、もう一度自分という者を構築していかなくては、と思ったのね。
もうひとつは、だからといって、遣りたくないことはやりたくない、と(笑)。散々いろんな人と付き合い、いろんな人の話を聞き、いろんな人に怒られ、いろんな人の説教を聞き、受け入れ、努力し、自分なりに精一杯がんばってきた結果がこれなら、もう我慢する必要ないんじゃないの?過去は変えられないし、これから不祥事はイヤでも一生付きまとうわけで、普通の生き方出来ないんだろうし、だったらイヤなことをわざわざする必要ないんじゃね?と。
といって何かやりたいことがあるわけではなかったけれど、とりあえずしたいことをしよう、先ずは朝寝だ、本を読むぞ、エレクラだ、プラモデルだって、今まで、特に不祥事前の数年間やりたくても泣く泣く諦めていたことを、この際やるぞ、と。
そして、まぁ、十年掛けて、我慢からほど遠い自分という者がどうなるのか見てみたかったのよ。
いずれにしろ、今の自分のような、世界を滅ぼす三要素、ナマケモノ、面倒くさがり、ロクデナシ、というモノを見事に備えているというのは、高校時代から知っていたわけで、気張らないと社会の中で生きていけない、という切迫感のようなモノが常にあって。でも、それがコンプレックスであり、ストレスでもあったわけで、そういう自分を受け入れた上で、新しい自分をどう構築していくか、というのが目標だったわけ。
ぼんやりと十年、という区切りは、先日の姫との電話で初めて口にしたのね。思ってたけど云うと現実になるから、って誰にも云わなかったんだけど、何となく、自分の中に一区切り、というモノがテーマのように浮かび上がっていて。もちろんその先のことを考えなかったわけではないけれど、云って遣る、みたいな感じで、そろそろなのかな、という予感めいたモノがあったりとかなかったりとか。
で、その十年の軌跡をブログとして、というのはかっこつけすぎだけど、自分の考えをまとめる、意思構築の一助として、書くことは好きだったからここで色々と話をして、やはり再来年の四月で十年です(笑)。
つまり、まだ一年ありますけれど、十年でワタシは何かを新たに作り上げよう、というようなぼんやりとしたことを考えてまして、それをするにはまず吸収だったのね。本を読んだり、いろんな経験を積む、考える。そういうことは、自分の中に蓄積させるための行為で、その先の何年かはわかりませんけど、正常なアウトプットのために、真っ当なプログラム、しま♪さんというベーシックなプログラムを、しっかり自分の中に書き込んでおこう、ということだったのね。
でも、先日ふと、あることに思い至りまして。
というのも、だからといって、今アレをアレする時とか、結局自分の経験が元になっていて、年齢的なモノもあるとして、やはりこの十年より以前の、ワタシにとっては無駄だった三十数年の間のことが、何かと顔を出すわけです。最近、楽譜のあるモノで、CDを持っていないものを集めよう、ということを旧本屋とか巡りながら遣ってまして、楽譜なんて買っていたのは中学とか高校時代ばかりだったので、必然、八十年代後半の懐かしいアルバムばかりを改めて聴くことになっているのね。すると、やはりその頃に、弾けなかったギターが今は弾ける、とか、あの頃わからなかったことが、今ならわかるとか。そういう感じで、無駄だったはずの過去が、今の自分のモチベーションの一翼を担っている、ということに気づいたのね。
一方、吸収だよ、といいながら、エレクラの曲作り、そしてアレをアレするとか、こうやってブログを書くとか、結局アウトプットに繋がっているな、と。しかもけっこう、アウトプットに悩んでいる。言葉が出てこない、かっこいいリフが思いつかない、相変わらずオレはヤスリが下手だなぁ、とかね(笑)。
特に、また云いますけど、不祥事の数年前は、もう周りの連中に取り囲まれてアレセーコレセーと罵られつつ愛情も財布の中身も搾り取られる毎日だったから、もう本も読めないCDも聴けない、自分から出て行くばっかりで、もうすっからかん、という気が強くしていたのね。あげく、姫以外はみーんな、どっか行っちゃった。まぁ、行ってくれてよかったんだけど(笑)。
でもね、結局その数年間の反動が、今に繋がっているわけで、そういうことをけっこう今感じるのよ。どういうことかっていうと、つまりね、出て行くばっかりで自分の中から何もなくなっていく、と感じていたあの頃にもちゃんと経験という、糧を手に入れていたのね。翻って、それはおそらく自分の性でしょうけれど、手に入れたソバからひけらかしたいというか、言葉や音や形にせずにおられない、というのが歯止めがきかなくて、またやることが出来るスペースがちゃんとあって、すると気がつくと、この十年、アウトプットばかりだよ(笑)、って。
そういうことに気づいたのが、何となく一区切りが自分の中におぼろげに見えてきた、理由なんだと思うのね。おそらく、こういうことは定年を迎えた世代とか、今まで仕事仕事家族仕事で云々かんぬん、というような話に繋がるんじゃないかな、と珍しく一世代上に向けたメッセージ的な締めくくりにしようとしているけれど、でもそうやって人生まとめにかかっている自分を省みると、案外自分が思っていた逆のことが真理だったりするモノですよ、ってな感じで。
昔から、ワタシは起爆剤、というような言われ方をしていて、率先して何かを遣って、旨味を得るのはいつも着いてきた二番手三番手、という経験をずっとしてきて、そしてだいたい途中で厭になる(笑)。だから非常に個人技に今は行きたがる傾向にあるのですけど、でも、おかげでまったく報われないけれど、いろんな場面に遭遇したり、けっこうな経験をし、いろんなことを思い、それをしっかり自分の中に積み重ねてきている気がする。
ハッキリ言って、普通の人が出来ない経験をいっぱいした(笑)。
結局ね、なんだかんだいって、やっぱりまた結末はいっしょじゃない?という未来が見えなくもないけれど、まぁ、その辺は色々と濁しておきますけれど、別に無駄な十年だったわけじゃ無いと思える。悔しかったら穀潰しになってみれば好いじゃん(笑)、なれない癖に、プッ。
そういう経験を踏まえて、明日はいよいよ、アレをアレしますので覚悟しなはれや。
なんてね、不祥事の話は大ぴらにすると語弊があるのでひっそりと今のうちに更新しておくよ、って言ってみました。なのでちょっと付け加えておくと、自分はこういう性格だからなのか、こういう性格で良かったのか、それまでワタシの周りで暴利を貪っていた奴らには、この生活は無理だろうな、とは思った。でも、二度のサバイバルゲームはおそらく無理。前回は上手くいったけれどそんな生やさしいものではない。今度は大きなしっぺ返しが来ると思うので、やはり自分を律することは大事だと思うのね。ただ、今の社会は、何となく別に外の生活変わらなくね?というような社会規範、あるいは教育体制に、外の世界がなっているのは間違いない、ってコトで。
それでは今日はこの辺で、ごきげんよう。