のりピーの事件と押尾学容疑者の事件は、いつの間にか「のり塩」事件と呼ばれているそうですが、そもそも犯罪の重さからいえば、のりピーより押尾容疑者のほうがずっと重いはず。しかし、スターとしてはのりピーのほうが、圧倒的に重いため、こんなことになっています。

しかも事件の男どもの様子を見聞きするにつけ、「存在の耐えられない軽さ」という言葉が浮かびます。

本来そこには、いろいろな意味が含まれるのですが、今回は言葉、そのものの意味しかもたないという、なさけない状況です。ついに頭の中でぐるぐるして、はなれなくなりました。DVDを借りてきてしまいました。
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映画はプラハの春を背景に、優秀な外科医(ダニエル・デイ・ルイス)だが女に軽い主人公が、ソ連の侵攻とともに翻弄されるさまを描いています。そこに、愛に軽い?愛人(レナ・オリン)と重い?妻となる女(ジュリエット・ビノッシュ)が絡みます。

「人生は私にはとても重いのに、あなたには、ごく軽いのね。私、その軽さに耐えらないの」と主人公に手紙で言葉が投げかけ、「私は弱いの。だから弱い者の国へ戻るわ」とせっかく亡命したスイスから、妻は祖国にもどり、彼も後をおいます。一方、すでにスイスにいた愛人は、妻を捨て求愛した男を置いて、強い者の国アメリカへと逃れます。それぞれが、耐えらないのは、ままにならない自分の存在です。

そして、私はいわゆるプレイボーイ(死語か?)みたいな男は苦手ですが、この一見軟派な男が、最後まで転向せず自分の言論と女を守る姿が、とても印象に残っています。軽い、重たいはその見かけとは違うのです。

なにかあると女を残して、まっさきに逃げる男や女房を引きずりこんで、しかもまっさきに売り飛ばす男とはぜんぜん違います。

最近の男の方は、「男のくせに」と言われるのが一番嫌だそうですが、ここは大きな声で「男のくせに」といってやりたい。私は?「女だから」クレジットカードを取り上げられてだけで、なんでもしゃべりますけど(@アニー・ホールだったとおもうが)・・・。

もし、映画をみて気に入ったらぜひ、原作を。逆はダメみたいです。なにしろ「存在の耐えられない軽さ」とは「ニーチェの永劫回帰」とう考え方と関係があるそうで、原作のファンの方には、映画は表層的で原作の意味、面白さを伝えてないそうです。

そういうと難しそうですが、私のように飛ばして読めば問題ありません。ようするに、原作は映画の何倍も面白いということです。私の大好きな本のひとつです。
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それに映画は、もともと表層的なもの。フィリップ・カウフマン監督はやはりみごとに映画的だと思います。なにしろ、「ライトスタッフ」の監督、「レイダース」の原案まで作っている方ですから。

「おい、めたぼっち、カラダの存在は耐えられない重さだよ」と
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