安保法案強行採決~諦めてはいけない。闘いはここから始まる。 | ・大津、出水、そして全国の子供たち、死んじゃいけない~ヘロの独り言

・大津、出水、そして全国の子供たち、死んじゃいけない~ヘロの独り言

・ 全国で子供たちが陰湿ないじめによって死に追い込まれている。
  命を奪うものは直接の加害者だけじゃない。見てみぬふり、時には言葉の暴力や直接の暴力で、子供たちを死に追いやる教師もいる。
  そんな狂った社会に向けて、老人は怒りをこめてつぶやきます。

国家あっての国民か 国民あっての国家か


激しい怒りを禁じえません。
ブログの再開を決断した時から既に予想されていたことですが
この国のあり方を根底からくつがえそうとする暴挙に、あらためて激しい怒りを覚えます。

2015年7月15日
私たちはこの日をけっして忘れるわけにはいきません。
この日が
あの悲劇的な戦争から立ち直り、戦後70年にわたって営々と築きあげてきた、平和国家というこの国のあり方が、根底から崩れさってしまうような暗黒の転換点となるのか、
それとも、この日が
そのような暴挙を打ち砕き、人間が人間らしく生きるための社会を実現するための、新たな闘いの出発点となるか、
私たちは その選択を迫られる重大な岐路に立ちました。

この強行採決によって、
誰の目から見ても明らかな 憲法違反の稀代の悪法の成立によって
すべてが終わったわけではありません。
むしろ、この悪法が悪法たる所以を満天下に知らしめるための 真の闘いが始まったと考えるべきです。

紙に記された条文にすぎないと思っていた悪法によって、いったい何が起こるか。
実際に地球の裏側にまで出兵し、子や孫や夫の命が次々に奪われていくという現実を体験することによって、
あるいはまた、交戦国の人々の恨みを買い、テロリストに絶好の口実を与えることで平和な日常が破壊され、老若男女を問わない生命が理不尽に奪われていくことで、
私たちは否応なく戦争にまきこまれ、悲惨な戦火の坩堝に身をさらすことになるのです。

このような苦渋・苦難には、なんの必然性も必要性もありません。
安倍政権のちょうちん持ちたちがまき散らす【嘘】と【隠ぺい】と【歴史の歪曲】にあざむかれてはなりません。
近代戦は科学技術の戦いであり、戦闘の素人をいくら徴兵しても無意味だ、だから徴兵制度の復活はありえない。嘘の中でもこの種の嘘は最も悪質な、きわめて犯罪的な大嘘です。

ベトナム戦争で肉弾とされ、戦場に散った若者たちは軍事のプロだったのか、アフガンや湾岸戦争で銃弾を浴び、砲撃や自爆テロによって五体をバラバラにされた若者たちは、軍事技術に精通したプロばかりだったのでしょうか。一握りの軍事エリートの周囲には、それに倍する規模の素人集団が必要とされるのです。

戦争は軍装や兵器や銃弾の消耗である以上に、人命の消耗が中心なのです。コンピュータは道具にすぎません。基本は肉弾なのです。たとえば、いくら空爆を重ねても最終的な決着は地上戦によらなければならない。軍事の常識とされるこの「地上戦」とはなにか。人命の損傷を中心とする肉弾戦に他なりません。戦争はゲームではないのです。

このような大嘘をまき散らす者たちの名をしっかりと心に刻み付けておく必要があります。
かつて大日本帝国の軍隊で「常識」とされた言葉を思い出します。
「軍装や武器弾薬は金がかかる貴重品だが、お前たちの命はハガキ一枚でいくらでも調達できる」
こううそぶいた戦争屋の末裔と、その言葉に踊らされる愚か者たちの群れが、この種の大嘘の発信源であることを忘れてはなりません。こうした戦争屋たちは、人命の損傷が進むと同時になりをひそめます。そして、自らを安全圏においたまま、大和や神風や桜花や人間魚雷回天などの特攻作戦の発案に血道をあげるようになります。この種の戦争屋の存在は、なにも大日本帝国に限るものではありません。彼らは自らが肉弾になるなどとはけっして考えません。なぜなら、自分はエリートであるのだから、肉弾となる「虫けら」どもとは命の重さが違うのだと思っているのです。 東日本の震災に際して「東北のジジババは、お国のために早く死ね」とツイートでうそぶいた高級官僚などは、明らかにこうしたエリート戦争屋の亜種ということができるでしょう。不幸なことに、いまこの国の針路を決めようとしているのは、戦争の実体験もなく、国民の命をまるで虫けらの如く見下すような、この種のエリートたちなのです。

このような苦渋・苦難には、なんの必然性も必要性もないと書きました。
この国の過去の戦争も、自国の防衛を口実に遂行されました。今となっては、それが他国を侵略し、帝国主義列強の一員として植民地争奪戦に加わるための口実にすぎなかったことが明らかとなっています。
満州国建国をめぐる列強諸国との軋轢、その結果として泥沼化していった日中戦争、そして経済封鎖を打破するために決行された日米戦争、周辺諸国民の生命や財産をむしばんだだけでなく、300万を超える自国民の生命をも犠牲にしたあの戦争を正当化し、美化しようとする動きは連綿と続き、戦勝国によって行われた東京裁判を不当だという主張もいまだに繰り返されています。そうした主張をもっとも露骨な形で表明しているのが、今回安保法案の強行採決という暴挙を遂行した安倍晋三内閣です。

この軍国主義内閣の立論は、そもそもの出発点から狂っていると言わざるをえません。
アメリカ、イギリス、オランダ、フランスなど、植民地の争奪に血道をあげる帝国主義列強に伍して、自らもまた他国への侵略をめざしたことが、そもそも全ての悲劇の始まりであるという原点を無視しているのです。
自国民を貧しさから解放するために他国を侵略し、他国民の財物を収奪する必要があったと主張するのは全くの詭弁です。
多くを語る必要はありません。自国の貧しい農民たちを満州の原野に送り込み、敗戦の色が濃くなるや否や、さっさと自分たちだけは撤退し、荒涼たる原野に自国民を置き去りにした関東軍の行為が、その本質を雄弁に物語っています。
他国を平然と侵略する国家は、自国民を平然と切り捨てる棄民国家でもあるのです。

彼らにとって大切なものは、国民ではなく、彼らが君臨するために必要な国家なのです。国民あっての国家ではなく、国家あっての国民なのです。彼らにとって、国家とは国民を守るためのものではなく、ひとにぎりの巨大資本と自分たちエリートの権益を守るための装置にすぎません。国民はそのような国家を維持するための道具にすぎないのです。
もっとひらたく言えば、彼らにとっての国家とは、悲惨な災害にあえぐ東北のジジババを救うための共同体などではなく、邪魔だから早く死ねと切り捨てるような一部エリートのための権力装置にすぎないのです。
今回の安保法案の強行採決は、そうした彼らの「国家観」にまでさかのぼって理解する必要があります。
政府に批判的なメディアは叩き潰せという、ちょうちん持ち議員たちの児戯にもひとしい発言はたんなる暴言などではなく、この政権の本質だととらえるべきでしょう。

こうした文脈で見直してみると、すべてが一つにつながってきます。
生活保護の削減、社会保障制度のあいつぐ改悪、非正規労働の固定化と拡大、残業手当の廃止に代表される賃金システムの改変等々、例をあげればきりがないほどの弱者切り捨て政策の進行の、全てがひとつにつながってくるのです。
安保法制は、ただ国民をただ働きさせ、国家維持のための道具として奴隷化するだけにとどまらず、ついにはその命までいけにえにしようとする最悪の暴挙です。
今この国は棄民国家への道をふたたびひた走ろうとしています。
戦争ができる国家づくりは、ごく近い将来、この内閣の悲願とも言うべき【憲法改悪】という形で、いよいよ総仕上げに入っていくと思われます。

このような苦渋・苦難にはなんの必然性も必要性もない。
この政権はひたすら中国の驚異、北朝鮮の驚異をあおりたて、安保法制がこうした脅威にたいする備えであるかのような幻想をまき散らそうとしています。
それは本当でしょうか。
中国の領土拡大の野望は疑いありません。また、北朝鮮という専制国家の狂気もまた、疑いない驚異です。しかし、そうした脅威と対抗するために必要な自衛権はすでに確立されています。個別的自衛権で対応できる範囲を超えて、集団的自衛権を打ち出す論理的な根拠は、実はどこにもないのです。個別が集団に変わったからと言って、軍備がそれに応じて飛躍的に増強されるわけでもありません。

では、個別が集団に変わることで、何が変わるのか。
変わるのはこの海域での自国の防衛などではありません。ただ一点、自衛隊が地球の裏側にまで行って戦争できる軍隊になるということです。
つまりは、直接的な自国の防衛などではなく、いつでもどこへでもおもむいて他国=アメリカのために戦うことができる軍隊になるということです。
その必要性、必然性はあるのでしょうか。全くありません。

自国にかかわる領域内での紛争なら、軍事的備えより以上に外交的な努力が可能でしょうし、そうした努力は不断に積み重ねる必要もあります。しかし、直接の利害がなく、外交努力の道もない領域での紛争では、当事国の動きにあわせていくしかない戦争になってしまいます。つまりは、自律的な参戦ではなく、他国の意思に左右されるだけの「まきこまれ」型の参戦にならざるをえません。

では、この集団安保と日米軍事同盟によって参戦を余儀なくされる他国での戦争は、はたして世界平和に貢献するものとなるのでしょうか。
思い起こしてみるべきです。ベトナム戦争を。アフガンを。湾岸を。そしてイラク進攻を。
たとえばイラクでは大量破壊兵器の存在を開戦の口実にしながらついにその存在を証明することなどできず、ISのような化け物を生み出すだけの結果となったアメリカの迷走を思い起こすべきでしょう。あの戦争が残したものは、泥沼としか言いようのない中東の混乱と、当時の大統領であるブッシュ氏が営んでいた軍事産業の肥大化だけだったのです。
このような迷走国家に従属的につきしたがっていくことが、はたして世界平和に貢献することになるのでしょうか。なるはずがありません。

しかも今回の安保法制で改悪されるPKO協力法案では、「国連主導でない国際協力にも派遣」とし、武器使用基準を緩和して「治安維持まで任務を拡大」するとされています。
つまりは、大義名分である国連の旗まではずし、同盟国アメリカのためだけの治安維持=テロリストの捜索と掃討まで請け負う軍隊になると明記されているのです。これでは自らすすんでテロリストの標的になると宣言するにひとしい改悪と言わざるをえません。
さらに言えば、戦場は中東地域だけでなく、日本国内にまで広がる可能性を秘めた恐ろしい文言と言わざるをえません。欧州各国でいま問題となっているテロ事件が、いつ国内で発生してもおかしくない状況が作り出されるということです。
そこまでしてアメリカに奉仕する必然性、必要性ははたしてあるのでしょうか。
断じてないと言わざるをえません。

ここまで書くと、「国内に基地を置き、米兵を配置し、国を守ってもらっているのだからやむをえない」という愚かな意見が出てくると思われます。
それこそまさに奴隷根性と言うべきでしょう。日本はアメリカの属国ではないのです。
これほど大量の他国軍隊の基地が配置されている先進国は日本以外には存在しない。
いま問題となっているギリシャの場合を考えてみるべきです。冷戦下で東西の狭間の最前線に位置してきたギリシャは、自国内に米軍基地を置く代償に年間5億ドルの援助を引き出し、「領空・領土内の米軍の移動はギリシャ政府の許可が必要」「米兵犯罪はギリシャ国内法で裁く」と定めてきたのです。事実上の治外法権を容認し、援助どころか駐留米軍の経費の一部まで負担する日本とのあまりの違いに驚かざるをえません。考え方に根本的な違いがあるのです。たしかに米軍はギリシャを守っている。しかし、それはアメリカのためでもあるのだ。土地は貸すから、地代は払えという考え方です。
これに比べて『守ってもらっている』という発想の、なんと卑屈なことか。
強行採決までして安保法案を成立させようとする安倍政権の目論見は、そうした卑屈な隷属関係を固定化するばかりか、さらに従属的な奴隷状態にまで進めようとするものです。奴隷になりたければ、それを望むエリートたちだけでなるがよい。そのために国民の命をいけにえに差し出すような真似は断じて許すべきではありません。

まだまだ書くべきことはあります。
しかし、多岐にわたる今回の法制の害悪を書ききるには体力も紙面も足りません。
多くは皆さん自身の目と耳と頭で確かめてもらいたいと思います。
結論を急ぎます。
この憲法破壊の暴挙に際して、この政権にすり寄る者たちの手で悪質な嘘、歴史の歪曲、隠ぺいが意図的に流布されています。冒頭に書いた「徴兵はありえない」などという欺瞞などはその最たるものです。お涙頂戴の作文技法で特攻を美化した作家は、沖縄の新聞2社をつぶせと高言し、米軍基地のなりたちについても看過できないような嘘を流布しました。批判を浴びると「あれは冗談だ」と逃げ、その舌の根もかわかぬうちに「いや、本気だ」などと意見を二転三転させ、指摘された嘘については釈明の姿勢すら見せません。あげくのはてには、軍隊をもたない南太平洋の国々を「泥棒に入っても盗るものもない貧乏長屋」とさげすむ発言を行うなど、人間としての見識を疑わざるをえない言動を繰り返しています。
注目すべきは、こうした人々がけっして錯誤や誤解によってそうした言動を重ねているのではないということです。実に意図的な行動と見るべきです。
時代が暗転するとき、こうした輩は必ず醜い鎌首をもたげてきます。権力の甘い蜜に群がり、おのれの利得のためには平然と大衆をあざむこうとする者たちです。
こうした者たちの本質を見抜くためには、粘り強い事実の積み重ねと批判を続けていくしかありません。

法案は強行採決されました。
しかし、これで終わったわけではなく、本当の闘いがはじまったのだと理解すべきでしょう。
欺瞞は事実によって打ち砕かれなければなりません。
危険はないと強弁した安倍晋三氏の発言は、不幸なことですが、実際に自衛隊員が命を落とすという現実によってその欺瞞性を暴かれることになるでしょう。
今回の暴挙は様々な形での違憲訴訟の火種をかかえています。この悪法は悪法であるがゆえに様々な矛盾をはらみ、事実によって打ち砕かれるべき脆弱性をもっています。
愚かにも憲法学者の批判を黙殺した償いは履行せざるをえなくなるでしょう。憲法に反するか否かを判定するのは立法府=国会ではありません。行政でもありません。司法です。
今回の暴挙は、安倍政権が立法府の原理原則を無視し、行政を司法・立法の上に置く、正真正銘の独裁政権にほかならないことを明らかにしました。
憲法にそむく者は憲法によって裁かれなければなりません。
まずは壮大な規模での違憲訴訟の奔流で、この独裁政権を包囲しなければなりません。
安倍政権が目論む来年の参院選挙での改憲要件の成立を阻止しなければなりません。
闘いは、いまこの時、始まったばかりなのです。