岡崎京子作『リバーズ・エッジ』 | “迷い”と“願い”の街角で

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確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

このブログでは初めてとなりますが、今日取り上げるのは漫画本です。ただ、普通の漫画本とはかなり趣の違うものといえるでしょう。


まず「あらすじ」を紹介したいところですが、この本については、その「あらすじ」を書くのが非常に難しいと感じます。全体を貫くストーリーというものが明確にはありません。「ノート あとがきにかえて」で作者が「深みのない、のっぺりとした書き割りのような戦場。彼ら(彼女ら)は別に何らかのドラマを生きることなど決してなく、ただ短い永遠のなかにただずみ続けるだけだ」と言うところです。


それでも、無理に「あらすじ」らしきものを書くこととしましょう。


高校生の若草ハルナは、自身のボーイフレンドからイジメを受けていた同級生の山田を助けます。その礼として、山田はハルナに宝物を見せるというのですが、その「宝物」というのは、川辺の茂みの中で発見されずにあった人間の「死体」でした。そして、「死体」について知っているもう一人の人間、ハルナの1学年下の吉川こずえ、この3人の奇妙な関係を中心に話は描かれます。


この3人だけでなく、周囲の多くの人間が、複雑な絡み合いを見せ、そして多くの惨劇を生むことになるのですが、前述したとおり、この多くの人間の絡みには一本通ったストーリーはなく、表現のしようがありません。


この『リバーズ・エッジ』の中で、多くの人が強い印象を受けるシーンがあるようです。死体が発見されそうになり、そうなる前に埋めてしまおうとするシーン。そこでのハルナと吉川のやりとりです。


吉川「若草さんは初めてアレ(死体)を見た時どう思った?」

ハルナ「・・・よくわかんない」

吉川「あたしはね"ザマアミロ"って思った。世の中みんな、キレイぶって、ステキぶって、楽しぶってるけど、ざけんじゃねえよ、いいかげんにしろ。あたしにも無いけど、あんたらにも逃げ道ないぞ、ザマアミロって」


この『リバーズ・エッジ』では、作者の思い、視点、主張とでもいうべきものが、あるいは直接、あるいは間接に表現されており、それは確かだと思います。しかし、一本通ったストーリーが無いのと同様、これぞという一本の主張を見出すのも難しいように私は感じます。以下の記述も、上記のシーンについて、多分に自分なりの解釈、いえ自分なりに感じたこととなるでしょう。


人間は「意味の世界」に生きているといいます。しかし、「人間の解放」「個人の自己実現」「人類の進歩」「共産主義革命」等の「大きな物語」が語られた近代は、二度の世界大戦と高度資本主義社会の到来によって終わりを告げたと、フランスの哲学者リオタールは主張します。「大きな物語」の死は、歴史や人生の意味を喪失させます。


現代は価値観の多元化した時代といわれますが、「大きな物語」がないゆえの「小さな物語」の乱立ともいえるでしょう。自分の小さな物語、小さなプライドに固執して、キレイぶって、ステキぶる。刹那的な欲望に過大な価値を置いて、楽しぶる。幸せでないのに、幸せぶって、結果、人を貶め傷つけて。しかし、皆がそうやって、自分と他人をだましている間にも、来るべきものは来るのです。


「ざけんじゃねえよ、いいかげんにしろ。あたしにも無いけど、あんたらにも逃げ道ないぞ、ザマアミロ」


自分なりの感想でしかありません。漫画でしか表現できないものが表現された作品ではないかと思います。一度読んでみてはいかがでしょうか。


岡崎 京子
リバーズ・エッジ