“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

タイトルを「D-Words-easy」から「“迷い”と“願い”の街角で」に変えました。これからも、少しずつでも、社会や人などについて、ふと思うことを書いていきたいと思います。大したことは出来ないと分かっていても、それでも道を進むため、少しでも何かを紡ぐため。


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早いもので、今年も残すところ半月となりました。昨年10月に結婚し、今年の3月に東京から群馬へと転勤となり、そして、ちょうど結婚1周年の10月に長女が誕生するなど、いい意味で盛り沢山な1年でした。

 

そして、生活状況の変化から、それまで走るように続けてきたボランティア活動を一時休止しましたが、その後、一緒に活動してきた方々の力添えで、新たな形で再開することが決まりました。色々なことがこれまでどおりにはできなくなる局面は、新たな形を構築する機会とし得るのでしょう。これを新たな挑戦としたいと思っています。

 

さて、昨年末は、安全保障関連法等の関係で様々な意見が衝突し、日本が分解していくという感じを強く受けてきたと1年を振り返りました。それと比較すると、今年は、リオオリンピックでの日本選手の活躍等、喜ばしい出来事があったことも影響してか、昨年よりも社会が安定しているように感じた1年に思えました。

 

しかし、その安定は、社会が暖かさや安らぎを取り戻したという意味でのものとはいえず、様々な深刻な問題を抱えつつ、それが見えにくく分かりにくくなっているという状態であるように感じています。そのような状態であればこそ、曖昧になって見分けにくい問題を見分け、表面的には見えない問題を見抜くことが重要になってくると思います。

 

私が、その重要性を特に感じたのは、「保育園落ちた日本死ね」とのブログに端を発した一連の騒動でした。

 

保育園に子供を入園させられなかった母親が記載した「保育園落ちた日本死ね」とのブログが国会で取り上げられ、待機児童問題が注目される一方、その表現の過激さへの批判も展開されました。そして、これが「ユーキャン新語・流行語大賞」でトップ10入りしたことが、再び議論を呼んでいます。

 

この言葉への向き合い方は、難しいものがあります。というのも、決して褒められたものではない汚い表現の裏側に、光を当てるべき深刻な問題への切実な思いがあるため、表面的な言葉の膜を抜けて、その奥へと思考を進めなければならないからです。

 

この言葉を手放しで賞賛することは適切ではないと思うのですが、一方で、その表現の観点で、その奥にある問題や苦悩ごと切り捨てることはあってはならないと思われます。

 

表現ぶりを否定することと、その裏の思いを否定することは似て非なるものです。その言葉の奥にある思いを見抜く必要があるのではないでしょうか。

 

そんな意味で、「言葉」が主役となる「ユーキャン新語・流行語大賞」でトップ10入りしたことには、個人的には複雑な感じがするとともに、それを表面的な言葉遣いだけをもって糾弾する意見がみられたことには悲しい気持ちになりました。

 

ダイヤモンドオンラインに掲載された「流行語大賞「保育園落ちた日本死ね」トップ10入りで大論争」という記事は、まさにその典型といえるでしょう。

http://diamond.jp/articles/-/110783

 

著者は、この言葉を国会で取り上げ、授賞式に登場した民進党の議員を、次のように批判します。

「政治家というのは日本をよりよい方向に導く役割を担った人たちであるはずなのに、満面の笑みを浮かべて“日本死ね”と喜ぶ愚か者たちに、この先、良識ある有権者は票を投じることはしないだろう。日本死ねと言われたら激高し、ふざけるなと言い返すのが日本の、日本人の政治家ではないのか。」

著者曰く、「保育園落ちた日本死ね」との言葉に対して、政治家が返すべき正しい反応は「ふざけるな」と激高することなのだそうです。

 

そして、この言葉を発した同じ日本で生き、苦しむ母親をも、さらには待機児童問題に取り組む必要性さえも、次のように切り捨てます。

「保育園に落ちて追い詰められた母親の精神状態を否定派はわからないと言うが、追い詰められて絶望すると“日本死ね”になるその思考が私にはわからない。失意のどん底に突き落とされたとき、日本の制度に問題があると言うのは責任転嫁ではないのか?」

 

加えて、ブログを書いた母親の人格にまで攻撃を加えます。

「このブログ主は幼い我が子が物心つくころには“死ね”という言葉を教えるのだろう。」

 

著者は「“死ね”という言葉がもたらす嫌悪感や忌避感を、どうやら前原議員も山尾議員も民進党もわかっていないようだ。」としますが、最近、この記事ほど嫌悪感や不快感を感じたものはありません。

 

「保育園落ちた日本死ね」という言葉が正しいのか、望ましいのか、そのような議論に意味はないと思います。人間は煩悩を抱えた弱い存在です。常に正しい道だけを歩めるわけではなく、そもそも正邪の基準も曖昧です。

 

しかし、個々の人間が、その人生において感じることは正邪を超えた真実です。そして、その真実を汲み取って、正しい道を模索するのが政治なのではないでしょうか。

 

社会の問題が複雑なのは、複雑な存在である人間が営んでいるからです。人間である以上、簡単に割り切れるものではありません。その割り切れなさの中から、向き合うべき問題を見分け、見抜いていくことが必要なのだろうと思います。

 

どんな制度や仕組みを作っても、それらは人間には向き合えません。人間に向き合えるのは、制度や仕組みを作る人間であり、制度や仕組みの中で生きる人間です。もっともっと人間に、人間であることにこだわってもいいのではないでしょうか。

 

そんなことを感じた年の暮れでした。

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去る5月27日、オバマ大統領が、アメリカの大統領として初めて、広島を訪問し、記念碑への献花、スピーチ等を行いました。


見る方の立場によって、スピーチの内容や広島での行動には細かい不満も表明されてはいますが、一般的には、歴史的な瞬間として、評価を得ているように思います。


アメリカの大統領としての立場がある以上、スピーチで表明できる内容には制約があったことでしょう。だからこそと言うべきか、スピーチの内容は、普遍性が高く、多くの方々の共感を得るものとなったのではないかと思いました。とはいえ、「あたりさわりのない」ものにとどまっているわけではなく、人間観、歴史観、個々人の生活に対する視点が織り込まれており、印象深いものとなったと感じました。


このスピーチが行われたからといって、核兵器の廃絶への動きが急速に進むわけではないでしょう。それは、オバマ大統領自身が、「私が生きている間にこの目的は達成できないかもしれません。」と言っているとおりです。


しかし、それでも、オバマ大統領が、核兵器の廃絶を目指すこと、戦争の根絶に努めること、その背景には、人間が生まれながらに持つ生命の自由、幸福を希求する権利があることをスピーチにおいて確認し、安倍首相もそれに賛同する発言を行ったことは、非常に重要なことだと思います。


理想の実現は非常に困難です。しかし、理想とは異なる現実を受け入れざるを得ない状況が長く続いたとしても、それでもなお、目指すべきことを忘れずに、常に現実の中で努力すれば、少しずつでも改善していく、少なくとも事態の悪化を最小限に食い止められるのではないでしょうか。


日本においては、実現不可能な理想など捨て去って、日本も核武装を進めるべきという意見や、人権というものを軽視するような意見が、インターネット上だけでなく、責任ある立場の方からも、非常に軽々しく発せられる状況がみられます。


確かに、人間は本質的に愚かで醜いかもしれません。それでも、本当の優しや清らかさも間違いなく持っています。欲望の強い力の前では、そんな美しさは非力かもしれません。だからこそ、その非力な美しさを絶やさないように、現実とは違う理想でも、守って踏みとどまる必要があるのではないかと感じました。

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昨日5月3日は憲法記念日でした。一強の状態が続く安倍政権が憲法改正を強く打ち出していることから、世間においても、例年より、憲法改正への関心が強く感じられました。


そして、憲法改正の是非をめぐって飛び交う罵詈雑言も例年を上回っていたように思えます。まるで、自分と考えの合わない人間を、この国から排除するためにこそ、憲法を改正するのだと言わんばかりに。


憲法が保障する人権が、自由が、何のためにあるのか、それが忘れ去られたままの護憲派と改憲派の攻撃合戦は、あまりにも虚しいものに感じてなりません。


憲法で保障された権利・自由は、好き勝手な行為を放任するものではなく、人間が人間として生きるために必要なことを保障したものです。だからこそ、国民が人間としての尊厳を保って生きられるよう、国は、それを必ず守らなければなりません。


人権を安易に拡大解釈することも誤りならば、安易に人権を制限・剥奪できるとすることも誤りです。


そして、“人間が人間として生きるために必要なことは何か”という問いかけに答えを出すには、「人間とは何か」といった本質的な考察が不可欠となります。本気で人間に向き合わなければ、憲法改正について論ずることはできないはずです。


さらに、様々な利害が対立し、一面的な正解が出し得ない問題が山積する現代において、憲法の問題についても、安易な一面的な答えを出すことはできません。


国民があってこその国家という意見があります。国家があってこその国民という意見があります。どちらも正解ですし、どちらも、それのみでは誤りです。だからこそ、その均衡の間で悩み続ける。


これに安直な答えを出そうとしているのであれば、人間を捨てた議論の結果なのでしょう。


日本社会の様々な場所で、人間自身が人間を捨てて、自分を、他者を扱っています。これは憲法をはじめとした法制度の問題でもあるでしょうが、それ以前の問題でもあるのでしょう。その態度のまま、憲法と向き合えば、国家が人間を捨てる時がやってきます。


人間としての尊厳を、自分が持ち、そして他者に見出し、その先に憲法を論じていくことが大切だと思うのです。

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今回の九州地震、私も熊本とは縁があり、衝撃と悲しさを感じております。


ところで、九州地震をめぐっては、被災地での実際の苦難以外にも、地震に関した著名人の発言への批判等、派生的な問題も発生しています。


その一つと言っていいと思いますが、堀江貴文氏によるバラエティー番組の放送延期への批判が、賛否両論を巻き起こしています。


堀江氏は、各放送局がバラエティー番組を自粛する傾向にあることについて、「熊本の地震への支援は粛々とすべきだが、バラエティー番組の放送延期は全く関係無い馬鹿げた行為」などと批判し、それに反対する方との論争に発展しています。


これについて、堀江氏の発言を、内容とは別の側面から批判する声がありました。松本人志氏は、堀江氏の言うこと自体はだいたい間違っていないが、「心がいつもない、だから釈然としない」とし、武田鉄矢氏は、「身も蓋もない言い方」「人間には気持ちってもんあるんだよ」としました。


これらの発言を聞いて、思い出したことがあります。


平成23年3月11日の東日本大震災の時、当時公演されていた様々なお芝居について、公演を中止した劇場もあれば、公演を続行した劇場もありました。このとき続行した公演の一つが、三谷幸喜氏が作・演出を行った「国民の映画」です。


三谷氏が、公演の続行に当たって行った挨拶の一部が、強く印象に残っています。


「こういう状況の中で本当にお芝居を続けていいものかどうか真剣に悩みました。いろんな劇場で、いろんな演劇人が同じように悩んだことと思います。公演を全て中止にした劇場もあれば、続行したところもあります。そのどれもが苦悩の末の決断だと思うし、僕はそのすべてが正しかったと思います。」


中止か、続行か、そのどちらが正解というわけではなく、心を砕き、人格を賭して行った決断であれば、どちらを選んだとしても、それは正しい、と理解しました。


心を込めるからこそ、その決断は重いものとなり、特別な意味合いを持つのでしょう。まさにそれが、他の人の心にも響くのではないでしょうか。


堀江氏の発言は、たとえその内容が間違っていないとしても、他の人を不快にさせる以外の何の効果があったのでしょうか。


極端に言えば、言葉は手段に過ぎません。そこに心を込めてこそ、大なり小なり、世界を変える力を持つのでしょう。心を、人格を、日々の言葉や行動に込めていくことが大切なのだろうと、改めて思いました。

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経営の神様と呼ばれる松下幸之助氏が、「人間とは何か」といった根本的なテーマについて記した本、『人間を考える―新しい人間観の提唱・真の人間道を求めて 』を読みました。人間の本質が考察された『新しい人間観の提唱』と、その人間の本質を発揮する道を説く『真の人間道を求めて 』の2編が収録されています。


誤解を恐れずにかいつまんで書くと、『新しい人間観の提唱』においては、人間は、絶えず生成・発展する宇宙において、万物の特性を生かし、その存在意義を全うさせる形で活用するという偉大な本質・天命が与えられているとされています。


また、『新しい人間観の提唱』では、人間が、自らに与えられた偉大な本質・天命を発揮するためには、いっさいのものをあるがままに容認しつつ、それらの特質を調和のもとに適切に生かしていくことが必要であり、これを共同生活の各面で実践することが、よりよき共同生活の実現、調和共栄をもたらすとされています。


読んだ印象として最初に感じたのは、書かれたのが昭和50年代にもかかわらず、まるで現在の世の中に対する警鐘のようだということでした。松下氏に優れた先見の明があったということなのか、意外と世の中が変わっていないということなのか、それは何とも言えないところですが、いずれにしても、松下氏が提唱したような人間のあり方が、今の世の中で十分に実現されていないのは確かでしょう。


政治、社会、経済など、様々な分野で、「人間として」「人間のために」が忘れ去られているように感じてなりません。これらの制度や仕組みは人間のためにあるべきであり、人間がこれらの制度や仕組みのために存在するわけではなく、このことを忘れた状態は、まさに「仏作って魂入れず。」ではないでしょうか。


それぞれの制度や仕組みに寄って立つ理念があったとしても、実際の人間の感性が支えなければ空疎な観念論であり、最悪の場合、憎悪や欲望に利用されて、暴走します。感覚的には到底受け入れられないような醜悪な発想が、屁理屈で理念や正義に合致すると説かれてしまいます。


人間としての自分のあり方、自分たちのあり方に向き合わなければ、魂のない国に、社会になってしまいます。人間が、自分の発想で、感性で、どう生きるべきか考えるという当たり前を、もっと当たり前にしなければならないのではないかと思いました。


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2015年も、今日を含めて残り2日となりました。今年を振り返ってみると、日本が分解していくという感じを強く受けてきました。


安全保障関連法に顕著でしたが、様々な意見が衝突した1年だったかと思います。意見が衝突すること自体は決して悪いことではなく、異なる意見が存在する以上、当然のことでしょう。


しかし、それ以上に悲しく感じたのは、意見の衝突から建設的な議論に進む状況が全く感じられなかったことです。意見の衝突が、異なる意見を持った相手の人格を攻撃することに、以前よりも安直に結びつくようになってしまった気がしてなりません。


意見の内容について語り合い、自分の意見を見直すような姿勢はほとんどみられず、意見とは直接関係しない、しかも、真偽も分からないような出自や所属をあげつらって侮辱、軽蔑するような醜悪な状況ばかりが目につきました。安倍総理が国会で「日教組」と野次を飛ばしたのは2月のことでしたが、既に今年の空気を象徴していたように思えます。


立場の違い、意見の違いがあろうとも、同じく日本を形作っている人間として分かり合うところがあるからこそ、分かり合おうとするからこそ、日本が日本として成り立つのではないでしょうか。それを失えば、国土と統治機構があるだけで、国民が国民として存在するとはいえないでしょう。愛国心の名のもとに、自国民を排斥する言動が盛んですが、国民同士が分かり合おうとする心こそ、愛国心の基盤なのではないでしょうか。


意見の違いの有無にかかわらず、相手の中に共感する部分を見つけ、分かり合おうとする心がなければ、どれだけ国益や愛国心、正義を説いたとしても中身のない空しいものとなるでしょう。それは自分の利己心を満たすための手段にすぎません。安全保障関連法に反対した学生団体を利己的と非難し、日本の伝統的な精神の尊重を主張していた某国会議員のその後は、ご存じのとおりです。


法は道徳の最小限といわれます。日本国民が自然に共有していた道徳や精神性のようなものが失われれば、統治者を縛るものは法だけとなります。さらに、法に対する国民の意識が確固としたものでなければ、統治者に法を順守させることさえ困難となるでしょう。一方、法や道徳に従う統治者が支持されるわけでもなくなりますので、統治者にとって法や道徳に従う誘因も弱くなります。


このため、法や道徳などに縛られず、深い精神性に基づくような信念を持たず、力任せに物事を進める人間に親和する社会になっているといえるのではないでしょうか。おそらく、今、日本で最も影響力のある政治家2人、安倍晋三氏と橋下徹氏は、まさにこのような世の中に最も適合した人物なのだろうと思います。


他人と共感できず、精神性を共有できない社会で残る価値は、欲望とそのための利用価値だけです。口先で他人を翻弄し、利用できるべきは利用し、利用価値がなければ愚弄し、攻撃し、叩き潰す。それができる人間こそ、偉人であり、勝者なのだ。そのような風潮が、そのような支配者を生み、そのような風潮がさらに強化される、そんな悪循環が回り始めてはいないでしょうか。


このような状況は、もはや一朝一夕にはどうにもならないでしょう。制度を変えることで本質的な改善を図れるような問題ではありません。


1人1人が自分の自然な心情に大切に向き合うこと、そして、同様に他人にも向き合うこと、それが最も重要なのだろうと思いますが、そのようにあろうとすればするほど、絶望を感じざるを得ない世の中になっているのかもしれません。


それでも、自分であることにこだわること、取って付けたような偽りの個性でなく、自分の自然な心情にこだわること、そこには人間が自然に持つ優しさや思いやりが、共感を生む鍵があるのではないでしょうか。


全ての人間が一様に幸せになれるわけではないのでしょう。それでも、1人でも多くの人が自然な自分自身であれるよう、来年への祈りとしたいと思います。


今年は、ありがとうございました。

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先日、NHKのニュースウオッチ9で、日本青年会議所が中学校で行った憲法教育の授業の様子が放映されました。その内容は、自分たちで独自の憲法の前文を作ってみるというものです。


憲法について自分なりに考えてもらう手がかりとして効果的な取り組みとも思う一方、中学校は中立性を保つとの条件を出したそうですが、今の憲法を十分に吟味しないまま、新しい前文を考えるという課題の出し方自体が改正ありきの内容とも感じられ、若干の違和感も覚えました。


しかし、さらに違和感を感じた部分がありました。


それは、講師が、独自の憲法前文を考える手がかりとして、「日本人にどういう人であってほしいか。」という問いかけをしたことです。


憲法学的な立場から、「憲法は権力を制限するもの」との批判もありうるでしょう。しかし、この問いかけには、それ以前の、もっと一般的な視点でも、適切ではないと思うのです。


なぜ、「日本人として、“自分”が、あるいは、“自分たち”がどうありたいか。」や「“自分”は、日本という国をどのような国にしたいか。」という問いかけではないのでしょうか。


「日本人にどういう人であってほしいか。」という問いかけには、“主体性”がありません。「こうあって“ほしい”。」という言葉は、他人に対して向けられる言葉です。「“自分”にこうあってほしい。」という文章には違和感があり、むしろ、「“あの人”にこうあってほしい。」という文脈で使われるのが普通ではないでしょうか。


人間は、主体的に考え、行動する時にこそ、本当の責任感を持つことができるのではないでしょうか。そして、主体的に国に関わってこそ、国の在り方に対して、責任を持つことができるのではないでしょうか。


憲法について、法学的な見地からの詳細な検討は置いておくとして、国民が主体的に“自分がどうありたいか”を考え、そして、その先に、“自分が生きる日本という国にどうあってほしいか”を考え、それを具体化し、実現するものが“憲法”といえるのではないかと思うのです。


“自分以外の誰かにどうあってほしいか”から始まる検討から、本当に中身のある憲法が生まれるとは思えません。


国民が主体性を持たない方が望ましいと思っている方がいるのでしょうか。そうだとしたら、その人自身が、既に主体性を失ってしまっているのでしょう。本当の主体性を持って生きている人間は、主体性について理解している人間は、他者の主体性を奪おうとはしません。


主体性のない支配者が、主体性のない国民を操ろうとする国が、明るい未来を描けるのでしょうか。


日本を中身のある国にしたいのであれば、国民一人一人が自分の中身を深化させていくほかにはなく、その深化の先に、あるべき国の形が見えてくるのではないかと思うのです。

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最近、手塚治虫の『火の鳥』を読んでいます。

手塚治虫がライフワークとして、長期にわたって手がけた作品であり、過去から未来までの長い歴史の中、様々な舞台で、生命に向き合う人間の姿が描かれています。

そして、それぞれの時代の様々な物語を見つめ続けるのは、永遠の命を持ち、その血を飲めば永遠の命を得られるという“火の鳥”です。


まだ全て読み終わっていませんが、日本の奈良時代を舞台にした『鳳凰編』が特に印象に残りました。

生まれたその日に片目と片腕を失い、世の中への恨み、憎しみ、怒りから悪行を繰り返す我王、そして、その我王に仏師としての命である右腕を斬られた茜丸、その2人それぞれの運命と、その交錯を中心に物語が展開していきます。


右腕を斬られた茜丸は、絶望の中から希望を見出し、左腕で技を極め、心を磨いていきます。一方の我王は、愛を知り、師と出会うことで、自分と向き合い始めます。そして、2人の偶然の出会い、茜丸は我王を許します。


しかし、運命の歯車は止まることなく回り続けます。さらに大きな苦難に耐え、世の中の荒廃を目の当たりにした我王は、己の使命に目覚めていく一方、都で成功した茜丸は、同時に都のしがらみに囚われ、自分を見失っていきます。


そして、3度目の出会いで、2人はまたかけがえのないものを失います。


我王こそ、本当の聖人であり、茜丸は、聖人の仮面を被っていただけだったなどという単純な話ではありません。我王の悪行は決して許されるものではありませんし、茜丸が絶望から這い上がって手にした優しさは、偽らざるものでした。


この物語では、人間の強さや優しさは決して失われるものではないという希望と、人間は弱さや醜さから逃れられないという絶望が、混然一体となって描かれているように感じます。


逃れられない弱さを抱え、失われない強さを持ち続ける運命の中で、それを超えた価値や尊さが生命には宿っている。そして、人は、それに向き合って生き続けるしかない、そこに人生の重さがあるのだろうと思わされました。

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今年も8月になりました。広島に原爆が投下された6日、長崎に投下された9日、そして戦争が終結した15日が間もなくやってきます。


主に靖国神社への総理大臣や閣僚の参拝を巡り、国のために殉じた方々の慰霊の在り方について、様々な議論が今年もあることでしょう。


この国の長い歴史を築いてきた数多くの先人達に敬意を払うことは大変重要なことだと思います。それを否定するつもりは全くありません。


しかし、いつも気になるのは、戦争で殉じた方々を引き合いに出して、今の国民を揶揄するような言説が飛び交うことです。国のために戦った先人たちに比べて、今の国民は平和ボケしていて嘆かわしい、と。そして、その背景には、先人達が国のために戦ったことへの感謝と称賛があるのでしょう。


誤解を恐れずに述べるならば、先人達に敬意を払うことと、国のために戦ったことに感謝することは、似て非なることであり、後者は、ある意味で、先人たちを侮辱することにもつながるのではないかと感じるのです。


今、『ゲゲゲの鬼太郎』でおなじみの水木しげるさんが、実体験を基に描いた『コミック昭和史』を読んでいます。そこでは、戦場のの兵士たちが、軍の無責任な意向で使い捨てられていく様子が描かれています。


生きているうちは徹底的に消耗品として軽んじておきながら、亡くなった後に感謝するということに、違和感を覚えてしまうのです。亡くなった後に感謝するくらいなら、もっと兵士を、国民を大切にすべきだったはずです。


ただ、それでは、戦争に殉じた方々は「犬死に」だったのでしょうか。


そうではないでしょう。先人達を死に至らしめた戦争が愚かなものだということは、散っていった先人達を否定することではありません。そして、戦争を肯定することが、先人たちに報いることではありません。


個々人の力ではどうすることもできなかった戦争という嵐の中で、その運命に翻弄されながら、全力で生き、そして散っていった、それだけで敬意を払うには十分な重みがあると思います。


今、生きている人間にできることは、歴史の運命の中で燃え尽きた命の重さに、ただただ無心で向き合うことだけではないでしょうか。


そして、今の国を、今生きている国民を含めて大切にすることです。今生きている人間を尊重できない心で先人達を尊重することなど到底できるとは思えません。今生きている人間への敬意を欠いてしまえば、先人達を尊ぶといっても、自分の中に作り出した先人達のイメージを、つまりは自分を尊んでいるだけになってしまいます。


もちろん、人間が、主観を通してしか世界を認知できない不完全な存在である以上、その境界線は曖昧ではありますが、可能な限り、心を静かに透明にして向き合う努力をするしかないのだろうと思います。


今年4月にパラオをご訪問された天皇皇后両陛下の慰霊への姿勢が、その範を示しているように感じました。


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「あなたの意見には反対だ。しかし、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る。」は、フランスの哲学者ヴォルテールの言葉として知られています。


国が、社会が、健全にその意思を決めて活動するためには、このような態度が多くの人々に共有されている必要があると思います。


多くの人がいれば、様々な価値観・意見が生まれます。それにもかかわらず、国として、社会としてまとまり、かつ、歩みを進めていくためには、意見の対立があろうとも、根本的な人間としての存在を認め合い、信頼し合い、その上で議論していかなければならないのでしょう。


しかし、現実はそう簡単ではありません。最近はむしろ、「あなたの意見には反対だ。だから、あなたがそれを主張する権利は殺してでも奪う。」に近いような声さえ聞こえてくるように感じます。また、短絡的に「売国奴」などという言葉が使われもします。


その言葉は、「愛国心」から出ているのでしょうか。だとしたら、国とは一体何なのでしょうか。


学術的には、様々な定義があることでしょうが、一つ言えるのは、国自体は目に見えないということです。土地や建物は見えるかもしれませんが、国そのものは見えません。


つまり、国は、人の心の中にしかないということになります。ここで生きる人たちの中に国があり、その営みが国を形作っているのではないでしょうか。ここで生きる一人一人の人間が、国そのものなのではないでしょうか。


国の一部である他者を排斥する行為は、「愛国心」とは相いれないと言わざるを得ません。自分の意見に賛成する人だけが国だというのなら、それは「愛国心」ではなく、「自己愛」です。


自分と相いれないものを認められない弱さは誰の中にもあると思います。その弱さを覆い隠すために偽りの「愛国心」を使うのか、弱さを乗り越えようとする先に本当の「愛国心」を見るのか、そこが問われているように思います。

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