「新9条論」にきっぱりと反対する | AFTER THE GOLD RUSH

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とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな音楽よ――

一つのウイルスが護憲派の間に拡散しつつある。“新9条”という名のウイルスが――。
これに触れた者の少なからぬ部分が、諸手を挙げて(もしくは若干の懸念を表しつつも)賛同し、昨日まで後生大事に奉っていた日本国憲法第9条を古臭く時代遅れな遺物のごとくいとも簡単にうち捨て、一方で魅惑的な新しい恋人でも見つけたかのように、いそいそと改憲派へと宗旨変えしてしまうのだ。

ウイルスの発生源の一つである映画監督の想田和弘氏はこう主張する。「(戦争)法案が通った暁には、9条に関する限り、もはや『護る』ものなど何もないのである。護るべきものは、すでに死んでいるのだから。私たちは、9条の亡骸とともに心中するわけにはいかない。私たちは、9条の亡骸を手厚く葬るとともに、心機一転、『新しい9条』を創って、自衛隊の行動に歯止めをかけ、制御する手立てを講じなければならない。『9条護憲派』は『9条創憲派』に生まれ変わらねばならないのだ。」(マガジン9・映画作家・想田和弘の観察する日々第32回「憲法9条の死と再生」

安倍某を「馬」「鹿」と評したSEALDsの奥田愛基君に倣うなら、この言説にかける言葉はただ一つ。
バカか、お前は」。
想田氏は、これが平和を守る唯一の方策とでも言わんばかりに「新9条」を熱っぽくプレゼンし、道行く護憲派に「お前も創憲派に生まれ変われ」と善意の押し売りをしているが、何のことはない、その中身は保守の陣営が半世紀以上前から唱えていた改憲論、もしくは「普通の国」論と何ら変わりはないのである。問い質したい。あなたにとっての9条とは、そんなに軽いものだったのか。先輩達が戦後70年、人生の重みをかけて必死で守ってきた旗を、憲法違反の甚だ馬鹿げた法律が成立したことをもって、やすやすと下ろしてしまっていいのか。

もちろん、想田氏をはじめとする新9条派にも言い分はあるだろう。9条2項があまりにも現実ばなれしているから、安倍の“壊憲”を許してしまったのだ。ならば、「専守防衛の自衛隊」を憲法上明確に位置付けて、時の政権による恣意的な武力行使に歯止めをかけるべきではないか。なるほど、彼らが言わんとしていることは、戦争を遂行するための壊憲ではなく、積極的に平和を守るための創憲であり、その趣旨と平和に対する(彼らなりの)真摯な思いは十分に理解できる。しかしこの主張にも、ぼくは次の2つの理由から、きっぱりと反対を表明する。

1点目は、9条はいまだ死んでおらず、安保法が成立した今こそ、護憲派は、戦前回帰勢力へのカウンターとして、9条の崇高な平和主義の旗を高く掲げるべきと考えるからだ。憲法前文と9条の関連性から鑑みるに、9条を現実に合わせるのではなく、現実を9条に近づけていくこと、すなわち、武力によらない国際平和の実現のための不断の努力が日本国民には求められており、だからこそ、9条は憲法前文と合わせて人類史的に意義のある条項なのである。
そもそも、狭い国土に原子力発電所を44基も抱える日本において、戦争を前提とした国防軍の配備などちゃんちゃらおかしいのだ。原発1基をミサイル攻撃されただけで壊滅状態になるような脆弱な国における軍備とは一体どういうものなのか、どのような意味を持つのか、ぼくにはさっぱり意味が分からない。今、護憲派がなすべきことは、安保法を速やかに廃止し、現実を9条の理念に近づけるための考え抜かれたアクションであろう。

憲法第9条の政治的な位置付けについては、故丸山真男教授が実に的確に指摘されており、これに付け加える言葉は無いように思う。やや長くなるが、以下、教授の論文から引用する。文中の「自衛隊」を「安保法」に置き換えると、まるで今の時代に向けた、過去(半世紀前)からの警鐘のようではないか。

 現在一種の投げやり的絶望論があります。第9条などすでに空文化しているではないか、誰が見ても戦力としか思えない武装をした自衛隊がすでに出来てしまった以上、もう第9条などといっても意味ないではないか、という絶望論です。これは既成事実に弱く、すぐ敗北感にとらわれて諦めてしまう心理からして、原則的には再軍備に反対な人々のなかにもひろがり易い考え方です。(中略)

 (引用者注:第9条の)政治的宣言というものを、どういうふうに現実の政策決定と関係づけるかという論理がやはり大事ではないかと思うのであります。たとえばアメリカ憲法の修正箇条第14条は合衆国の一切の市民にたいする平等な保護をうたい、さらに第15条は、人種、体色に基づく投票権の拒絶や制限を禁止しております。ところが、それからほとんど百年近くにもなるのに、依然としてこの人種平等に反する現実が行われているわけであります。しかし、アメリカの歴史のなかで、そういう現実があるのだから、この条項は無意味だ、ひとつこの条項を改正して人種不平等をはっきり規定しようではないかというような提案が政府や議会にあったということは聞いておりません。そうして最近の公民権法案まで、現実の歴史は非常に長い歩みではありますけれども、ともかくその歴史は、この合衆国憲法に明記された規定が政府の政策決定を方向づけて来たこと、を物語っております。

 要するにここで私が申し上げたい点は、第9条はマニフェストだというだけでは、きわめて多義的であり、それを現実の政策決定への不断の方向づけと考えてはじめて、本当の意味でオペラティヴ(現実の中にあって現実を動かす一つの契機となっている理念―引用者注)になるということです。つまり、自衛隊がすでにあるという点に問題があるのではなくて、どうするかという方向づけに問題がある。したがって憲法遵守の義務をもつ政府としては、防衛力を漸増する方向ではなく、それを漸減する方向に今後も不断に義務づけられているわけです。根本としてはただ自衛隊の人員を減らすというようなことよりも、むしろ外交政策として国際緊張を激化させる方向へのコミットを一歩でも避け、逆にそれを緩和する方向に、個々の政策なり措置なりを積重ねてゆき、すすんでは国際的な全面軍縮への積極的な努力を不断に行うことを政府は義務づけられていることになる。したがって主権者たる国民としても、一つ一つの政府の措置が果たしてそういう方向性をもっているか、を吟味し監視するかしないか、それによって第9条はますます空文にもなれば、また生きたものにもなるのだと思います。(「憲法第9条をめぐる若干の考察」1965年)


2点目は、タイミングの問題である。国会内における護憲勢力もしくはリベラル左派の衰退甚だしい現状において、新9条の提案が結果として誰を利するものとなるのか、この動きをほくそ笑んで見ているのは誰なのか、あえて書くまでもないだろう。既に自民党は、来年夏の参院選で憲法改正を公約に掲げることを明言している。あの危険極まりない自民党憲法草案の実現が今まさに現実的な政治カレンダーに乗ってきたのである。この最悪のタイミングの中、まるで新しい発明でもしたかのように嬉々として新9条を提唱し、自ら改憲のムード作りを買って出るとは何たる愚の骨頂、平和主義者の戦略としては、時が時なら利敵行為として最高刑罰に匹敵する失策と言わざるをえない。

蛇足を承知で、最後にあえて書いておきたいことがある。それは、今回の「新9条論」に対し、護憲派からの意見表明が極めて乏しいことである。これは本当に残念なことだ。憲法9条と平和を守る闘いを非妥協的に続ける彼らや彼女たちが、何故、「仲間」ともいえる想田氏や東京新聞が提唱する「新9条論」にはだんまりを続けているのか? 護憲勢力の分裂を恐れているのか、もしくは、リベラルの「有名ブランド」を敵に回したくないのか、いずれにせよ、情けない。仲間同士での忌憚のない批判や議論を放棄した運動は、無力な仲良しゴッコに過ぎない。そもそも、忌憚ない批判や議論をして関係が決裂してしまうような相手なら、端から仲間でも友人でも無いのである。馴れ合いの平和主義者は、この点を肝に銘ずべきだろう。
――69年目の日本国憲法公布記念日に。