困難な環境の中で暮らす子ども達にカメラを向け、世界各地を取材した後藤 健二
後藤 健二
KENJI GOTO
ジャ-ナリスト
1967年宮城県仙台市生まれ。
番組制作会社をへて、1996年 映像通信会社 インデペンデント・プレスを設立。
「戦争・紛争」「難民」「貧困」「エイズ」「子どもの教育」の5つの人道分野にフォ-カスし、困難な環境の中で暮らす子ども達にカメラを向け、世界各地を取材している。
テレビ朝日『報道ステーション』 NHK『BSドキュメンタリ-』『ETV特集』『週刊こどもニュース』『クローズアップ現代』 などの番組でその姿を伝えている。
また、UNICEF(国連児童基金)やUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)など、国連の人道支援機関との繋がりも強く、プロジェクト記録やモニタリング(評価)、gotokenjiコンサルティングにもジャ-ナリスティックな視点を取り込んで従事する。社会貢献活動では、非営利でメディア(媒体)が貢献することを目指して『The World With You』プロジェクトを進めている。
近年では「取材者自らの口で直接伝えること」を唱え、日本全国で講演会や小中高等学校での授業などを数多く行っている。
(社)日本文藝家協会会員。
■講演・授業など東京都多摩市主催平和展 (講演)
千葉県ユニセフ協会 ユニセフのつどい (講演)
大手町ニュ-スカレッジ 『中東革命の中で~現場報告』(講座)
大正大学 人間学部 のびのびこどもプロダクトコ-ス (大学一年生 授業)
千葉県船橋市 宮本公民館 『子どもニュ-ス講座』(小学5・6年生 授業)
日本小児心身医学会 学術集会 『世界と日本、子どもたちは守られているか?』(講演)
千葉県袖ヶ浦市 平岡公民館 国際理解セミナ-(講座)
埼玉県生協ネットワ-ク協議会 スキルアップ応援講座 (講演)
玉川聖学院 (中学3年生 授業)
■著書『ようこそボクらの学校へ』
『ダイヤモンドより平和がほしい-子ども兵士・ムリアの告白』産経児童出版文化賞受賞
『エイズの村に生まれて-命をつなぐ16歳の母・ナタ-シャ』
『ルワンダの祈り-内戦を生きのびた家族の物語』
『もしも学校に行けたら-アフガニスタンの少女・マリアムの物語』
後藤健二 (ジャーナリスト)後藤 健二(ごとう けんじ、1967年 - 2015年1月下旬?)は、日本のフリーランスジャーナリスト。
宮城県仙台市で末っ子として生まれる[1]。法政大学第二高等学校を経て、1991年に法政大学社会学部を卒業[2]。東京放送系のテレビ番組制作会社を経て、1996年に映像通信会社インデペンデント・プレスを設立。アフリカや中東などの紛争地帯の取材に携わる。1997年に日本基督教団田園調布教会で受洗する。2006年、紛争地域の子供を取材した『ダイヤモンドより平和がほしい』で、第53回産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞[3]。2011年の東日本大震災では、被災地の石巻市や気仙沼市で日本ユニセフ協会の記録員を務めた[4][5]。中東での取材中でアル=ヌスラ戦線に拘束されたものの、1日で解放された[6]。2014年10月に妻が夫婦の2人目の子供となる女子を出産[7][8]。前妻との間にも一女をもうけている[8]。2014年10月後期 - 11月前期にイスラム国に拘束された末に2015年1月 - 2月1日の間に殺害されたと見られている。(詳しくは下記を参照)
イスラーム国による拘束[編集]
詳細は「イスラム国日本人拘束事件」を参照
2014年10月22日に「海外出張に行く。29日午前中に帰国する」と友人に告げ、日本を出国した[9]。渡航計画を知った日本政府は、2014年9月より3回に渡り渡航中止の要請を行ったが後藤は従わなかった[10]。10月24日にトルコ南部のキリスからシリアに入国し[11]、クリスチャントゥデイのコラムのメールを送信し、10月26日に掲載された[12]。10月25日にイスラーム国への入国の目的を語ったビデオメッセージをシリア人ガイドに託し[13]、シリア北部のアレッポ県から別のシリア人ガイドと共にイスラーム国の支配地域へと入った[11]。帰国予定の10月29日になっても戻らず、行方不明となった[14]。
2014年11月1日頃に「シリアに同行したガイドに裏切られ、武装グループに拘束された」とトルコの知人に電話連絡があった[15]。この数日後にイスラーム国の関係者を名乗る人物から数十億円の身代金を要求するメールが家族に届いた[15]。2015年1月20日になり、イスラーム国が日本国民と日本政府に向けたビデオにAと共に人質として登場し、ジハードのジョンとして知られるISISメンバーの男性が「72時間以内に2億ドルの身代金の支払いがないと両人質を殺害する」と述べた[14]。 1月23日、母親が記者会見を行ったが[16]、夫曰く精神的に混乱状態[17] だったため、原子力エネルギーに関する意見など、配布された声明文とは直接関係のない発言[18][19]をする面も見られた。 1月24日午後11時に殺害されたAの写真を掲げる動画がインターネット上に流れ、後藤とされる声(英語)でAを殺害したという声明が出された[20]。
また、同声明の中には2005年にヨルダンの首都アンマンで発生した爆弾テロ事件(2005年アンマン自爆テロ)の実行犯として収監中のサジダ・リシャウィの釈放を要求するものが含まれていた[21]。
2月1日午前5時03分(日本時間)にイスラーム国によって後藤が殺害されたとみられる動画がインターネット上に公開された[22]。
主な著作[編集]
著書[編集]
『ようこそボクらの学校へ』NHK出版DVD+book(2003年)
『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士・ムリアの告白』汐文社(2005年)ISBN 4811380010 産経児童出版文化賞フジテレビ賞受賞
『エイズの村に生まれて 命をつなぐ16歳の母・ナターシャ』汐文社(2007年)ISBN 4811384741
『ルワンダの祈り 内戦を生きのびた家族の物語』汐文社(2008年)ISBN 4811384970
『もしも学校に行けたら アフガニスタンの少女・マリアムの物語』汐文社(2009年)ISBN 4811386116
ビデオディスク[編集]
『世界の学校シリーズ』(ケイエムコンサルティング)
『ワールド・エコ・トラベラー』(ケイエムコンサルティング)[23]
テレビ出演[編集]
日本放送協会「クローズアップ現代」・「ETV特集」
テレビ朝日「報道ステーション」[24]
TBS「ひるおび!」
朝日放送「教えて!ニュースライブ 正義のミカタ」
ヨルダン日本大使館前で市民らがろうそくともし哀悼
TBS News-i 2015/2/3 06:18
過激派組織「イスラム国」による日本人殺害事件で2日、ヨルダンの日本大使館前に地元の人たちが集まり、ろうそくをともすなどして後藤健二さんと湯川遥菜さんの死を悼みました。
「We are Kenji!」 現地対策本部のあるアンマンの日本大使館前には、亡くなった後藤さんと湯川さんの死を悼み、たくさんの人がろうそくをともし、集まりました。 「日本と日本人、イスラム国と
戦ったジャーナリスト、彼らをサポートしたいと思って来ました。原理主義やテロリスト、彼らのやることに反対なんです」 (参加者) 「後藤さんと死刑囚の人質交換を望みましたが、私
たちの国がそうできず、残念です」(参加者) 中山外務副大臣も対策本部から出てきて、感謝の気持ちを表しました。 「2人の命のためにこうやって弔意を表してくれたことに、日本
政府を代表して心から感謝とお礼を申し上げます」(中山泰秀外務副大臣) 中山副大臣はこれに先立ち、日本ヨルダン議員連盟の会長の弔問を受け、パイロットの早期の救出を祈ると伝えたということです。(03日05:02)
http://news.merumo.ne.jp/article/genre/2477311
拘束直前に後藤さんと会ったガイド「彼を守れなかった」
TBS News-i 2015/2/2 23:38
後藤健二さんと行動を共にしたガイドがJNNの取材に応じました。
「後藤さんの事件について申し訳なく思う。でも私は本当に後藤さんを止めようとしたんだ。私は彼にとって悪い友人だった。彼を守れなかったから」(拘束直前に後藤さんと会ったガイド) 彼は、後藤さんがシリア入
りする際にいた別のガイドに疑問を感じているといいます。 「(別のガイドに)『健二はどうだ?ラッカに着いたのか?』と聞いたら、『大丈夫だ。他のガイドと一緒にいる。何日かしたら帰る』と言っていた。1週間後、電話をしたら、同じことを言っていた。『大丈夫だ。仕事をしている』と」(拘束直前に後藤さんと会ったガイド) 別のガイドは、「後藤さんは何
日かしたら帰る」と、それを繰り返していたということです。(02日22:58)
2015.2.3 08:00
後藤さんにイスラム国案内した「謎のガイド」がFBにコメント 警察当局も注視
後藤健二さんがイスラム国に向かう際に頼ったのは、地元でも実績が「謎」とされるシリア人ガイドの男性だった。その直前まで後藤さんに同行していた友人のアラアッディーン・ザイムさんは産経新聞の電話取材に「自分がついていればこんなことにはならなかった」と涙声で語った。
初めて後藤さんの同行取材を断り、別れを告げたその日から、後藤さんの所在は分からなくなった。
ザイムさんが後藤さんの取材に同行し始めたのは2012年夏。ザイムさんはシリア在住で、後藤さんがトルコ側国境から入国するのをサポートした。後藤さんの8回にわたるシリア内戦取材に同行してきた。
夜、泊まる場所は決まってザイムさんの自宅だった。紛争地帯でおびえるシリア人家族を取材した際は「危険だ」と止めたが、「シリアの人々に何が起こっているか、私が日本に伝えなければならないんだ」と熱く語る後藤さんに心を動かされた。砲弾が飛び交う中、2人は車で取材した。ザイムさんは「ケンジは、勇敢なジャーナリストである前に私の大切な友達だった」と振り返る。
昨年10月2日からのシリア取材にも同行。その様子は民放番組にも使われた。だが同月23日、後藤さんが再度訪れ、「イスラム国を取材したい。湯川遥菜さんを助けたい」と相談したとき、「あまりに危険だ」と初めて同行を断った。
同月25日、後藤さんは最後のメッセージを残し、別のシリア人ガイドの男性と消えた。この男性はジャーナリストを名乗り、イスラム国にも詳しいが、「ガイドとしての実績は不明だ」とザイムさんは話す。ザイムさんは後日、男性に連絡を取ったが「知らない」と繰り返すばかりで連絡は途絶えた。「イスラム国には人の心もなく、手段も選ばない。止めない私がいけなかったんだ…」。ザイムさんは何度も自分を責めた。
一方、後藤さんをイスラム国に案内したとされるシリア人ガイドの男性とみられる人物は1日、自身のフェイスブックに英語でコメントした。「できる限りのことをしたことを皆に知ってほしい。彼に起きたことは本当に残念です。最後まで彼とまた会えると信じていた。彼の妻と娘たちに哀悼の意を表す」
真相解明の鍵を握る「謎のガイド」に日本の警察当局も注視している。
http://www.iza.ne.jp/kiji/world/news/150203/wor15020308000007-n1.html
だからその謎のシリア人ガイドがイスラム国に後藤さんを売ったんだよ。