チュウゴクと朝鮮は、昔から変わらない
昔からチュウゴク(清)と韓国(朝鮮)は、都合の悪い歴史は、無かったことにしている。全然、性格は変わっていない。
チュウゴク(清)は、韓国(朝鮮)が喜んで仏像を受け取ったという歴史にしてしまい韓国(朝鮮)は仏像をソウルに入れずにその辺の寺に放り込んでパンチェン・ラマに会わなかったことにした。歴史の改ざんだ。
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清と朝鮮の関係における圏域の分離と融合:
朝鮮使節とパンチェン・ラマの(一七八〇)を事例に
姜 東 局
一.はじめに
東アジアの国際関係に関する学問的な考察の初期から、清と朝鮮の関係は、もっとも典型的な上国と朝貢国との関係として、すなわち、中国的世界秩序を支える儒教的な世界観に基づいて、字小事大の原理によって規定された関係であると理解されてきた。
ところが、清史と朝鮮史に関する研究の進展によって、清と朝鮮の関係に対する以上のような理解は修正を余儀なくされた。
第一に、上国としての清のイメージが変化した。
従来の理解では、清が漢化したことを前提として、清を典型的な上国とみなしていた。
清史の研究の進展から、清は漢族の文化に素早く同化されたわけではなく、満州族の特徴を長く維持していたこと、チベットなどの非漢族の文化の影響も受けていたこと、そして、多文化の状況を前提にして新しい統合の論理を形成していたことなどが明らかになった(1)。
また、従来の研究では、漢化された清は文を尊んで平和的な外交を展開した側面が強調されたが、たとえば、中央アジアにおける清は、ロシアなどと競争をしながら支配範囲を広げた「帝国主義」の勢力としての顔を持っていたことなど、武を尊んで好戦的な外交を展開した側面も強調されることになった(2)。
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論 説
第二に、朝貢国である朝鮮のイメージも変わった。
朝鮮は従順な朝貢国として理解されてきたが、研究の進展によって、この態度は形式的なものにすぎなかったことが明らかになってきた。
すなわち、古代から北方の少数民族である満州族を蔑視していた朝鮮では、清の武には敗れたものの、文における自国の優位性は変わらないという信念が広く共有されていたのである。
そこで、朝鮮には自国が中華であった明の正統な後継者であるという朝鮮中華―史料の表現では、小中華―の意識が広がっていた(3)。
朝鮮は、心から清を上国として認める従順な小国ではなかったのである。
以上のような変化によって、清と朝鮮の関係における安定に対する従来の理解にも全般的な読み直しが必要と
なってきた。
強大かつ好戦的で、実際に膨張していた清と、弱小ではあるがその清を軽蔑する朝鮮が並立していたという国際政治の現実からすると、両国関係の安定は「礼治」の理念の実現の結果であったという単純な説明では十分ではない。
平和は、清と朝鮮という典型的な上国と朝貢国間の字小事大の関係によって維持されたという意味で当然の結果ではなく、それを妨げる方向へのアクターの変容という悪条件があったにもかかわらず維持された意外な成果として理解されるべきであろう。
すると、これほど長い間、悪条件の中で平和が守られたとすれば、安定の維持に寄与した何らかの仕組みが存在したと想定することが自然であろう。
この仕組みについては、まず権力政治の側面から説明する必要がある。
夫馬進の研究によると、中国と朝鮮の間には「礼治」の理念だけでなく、「礼治」の実態として、礼が守られなかった際の制裁を意味する「問罪」も存在した。
さらには、その問罪は、明と清が朝鮮に何らかの政治的メッセージを送る必要がある際に行われるという意味で、権力政治の動きに強く影響されていた(4)。
確かに、このような権力政治の側面は両国関係を動かした原理として無視できないが、この説明は限定的であることも事実である。
夫馬進の研究は、明清と朝鮮の間に「問罪」の問題が浮上していた時期を中心的な考察の時期としているため、たとえば、清と朝鮮の間においては、考清と朝鮮の関係における圏域の分離と融合(姜)243
察の時期が初期―具体的には呉三桂の乱の終束(一六八一年)まで―に限定され、その後は安定期に入ったと評価するにとどまっている(5)。
彼はこの安定期における平和の維持の原因については殆ど触れていないが、おそらく権力政治の安定がもっとも重要な変数として考えられたからだと推測できよう。
ところが、本稿で注目するアクターの変化の問題は、権力政治とは区別される変数である。
国際関係論の言葉でいえば、アクターのアイデンティティの変化は、主に権力政治に注目することでアクターの特徴を変数として考慮しないリアリズム(realism)の立場からは把握しにくいものである。
ところがコンストラクティビズム(constructivism)の立場からすると、約二〇〇年間に、両国が対立するアイデンティティを維持しながらも、原則的に、一年四回―実際は平均二・六回―の朝貢によって密接な関係を維持していたことは、驚くべき事例として浮上してくる。
すると、アイデンティティの衝突が両国関係の安定を損なうことを防止する権力政治以外の何らかの仕組みが存在した可能性も考慮すべきであろう。
本稿は以上のような問題関心から、清朝の世界秩序に存在していた領域的な区分の国際政治的な意味を問い直す。
マンコール(M. Mancall)がフェアバング(J. K. Fairbank)編の古典的研究の中で、清の国際関係が西北クレセント(northwestern crescent)と東南クレセント(southeastern crescent)にわけ
られていたと指摘したとおり、清と周辺国の関係は一元的なものではなかった(6)。そ
の後の一連の研究で、この区分の様々な側面が探求されたが、清の皇帝がこのように区分された空間において、中華世界では儒教的徳治を体現する「中華皇帝」、チベット仏
教世界のモンゴル・チベットでは仏教を守護する「文殊(菩薩)の化身」であることを自ら演出することで、両世界での支配の正統性を確立したという岡洋樹の指摘は、これらの研究の一つのまとめといえよう(7)。
ところで、以上のような区分に対する研究は、主に清の時期に中国の一部になった非儒教圏との関係を中心に行われた(8)。
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論 説
また、清史の新しい研究成果を朝鮮史の研究に組み込む動きもほとんど存在しなかった。
したがって、清における領域的な区分が清と朝鮮の関係に及ぼした影響についての研究は、ほとんど行われてこなかった。
ところが、清と朝鮮の関係におけるアクターの変化と国際関係の安定という問題を考えると、この区分が両国関係にも重要な役割を演じた可能性が浮かんでくる。
まず、清は、この区分があったからこそ、朝鮮には典型的な中華王朝の姿だけを見せることで上国として振る舞うことができたために、清の複雑なアイデンティティは、朝鮮との関係の安定を害しなかったのではないか。
また、朝鮮は、内政と外交の区分に基づいて、内部においては、小中華の信念を維持しながら、外部との関係、すなわち朝貢などの礼的な関係においては、恰も朝貢国の役割を演じることができたために、朝鮮というアクターの変化も、両国関係に悪い影響を与えなかったのではないか。
要するに、清と朝鮮にあった二つの区分が両国関係に分離の構造を作ることで、両国関係はアクターの変化の問題を乗り越えられ、安定を維持することができたという仮説が設定できよう。
この仮説は、あまりにも常識的なものに見えるかもしれないが、これを学問的に証明することはそれほど簡単
ではない。この仮説の通りに、分離の仕組みが有効に作用することで、両国の間において何の問題も発生しなかっ
たとすれば、この仕組みは自然なものに見え、かえってとらえづらくなるような状況が発生する。すなわち、分
離によって「礼治」の理念の通りに両国の関係が動いたとすれば、仕組みの存在や構造などを客観的に証明する
ことが難しくなるであろう。ところが、もし分離の仕組みが崩れる例外的な事件があったとすれば、その崩壊や
修復の過程で、分離の仕組みの様々な側面―分離は如何なる構造を持っていたのか、それは如何なる方法で維持
されたのか、崩壊した後の修復は如何なる過程を経たのかなど―が明確になる可能性がある。
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本稿は、清と朝鮮の安定期に分離の仕組みの崩壊と修復をもたらした事件として、朝鮮使節とパンチェン・ラマ六世(Dpal-ldan ye-shes、一七三八―一七八〇)のに注目する。一七八〇年、乾
隆帝の七〇歳の誕生日を祝う一連の行事の際に、皇帝の指示によって朝鮮の朝貢使節とチベット仏教の指導者であるパンチェン・ラマ六世が熱河―現在の承徳―の避暑山荘で出会った(9)。
儒教の観点から乾隆帝を皇帝と理解していた朝貢使節と、乾隆帝を世俗の世界における仏教の保護者とみなしていたパンチェン・ラマとのは、清の支配下で共存していた多様な文明に基づいた政治勢力の間の予期せぬ衝突であったが、それは清と朝鮮の関係からすると、皇帝自らが、朝鮮に向かって清が純粋な儒教の王朝ではないことを公表することで、両国の間に存在した分離が突如崩壊した事件として理解できよう。
すると、分離から融合への変化がもたらした混乱の様子、そしてそれを収拾することで分離を回復する過程を綿密に追跡する作業を通じて、清と朝鮮の安定期に平和をもたらした分離の仕組みに対する構造的な理解が期待できよう。このような作業が本稿の課題である。
ところが、この作業を行うために克服すべきもう一つの問題が史料の面に存在する。
一七八〇年の事件のように、分離の仕組みが崩壊したことがあったとしても、それが素早く回復されれば、歴史の記録は回復された分離のもとで書かれるため、そこには歴史の全貌が残らない可能性が高い。
後で詳しく述べるように、清と朝鮮の公式記録には、朝鮮使節とパンチェン・ラマとのが隠ぺいされるなど、実際、分離の仕組みが非常に把握しにくくなっている。
しかし、幸いにも一七八〇年の使節団には、十八世紀後期における朝鮮の新しい知的な運動を代表する風変わりな人物が参加していた。
燕岩朴趾源(一七三七―一八〇五)は、正使朴明源の親戚として、偶然にも使節団と同行し、天性の好奇心と鋭い観察力から手に入れた様々な情報を『熱河日記』にまとめた(10)。
彼は、科挙を拒否することで、文明と権力が統合されたシステムから距離を保つことができ、自由な認識の空間を獲得していた。
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論 説
国際関係における融合と分離という、文明的であると同時に権力的であった変動に対しても、彼の自由の精神は光彩を放ったのである(11)。
『熱河日記』は、まさに朴趾源の自由な精神的営みの結果として、忘却されるはずの歴史を我々に伝えたのである。
そこで、本稿は『熱河日記』を中心とする私的な記録と清と朝鮮の公式的な記録を参照しながら、朝鮮使節とパンチェン・ラマとのの経過とその記録をめぐる国際・国内の政治的な動向を考察し、また、それに関わる言説を分析する作業を行うことで、清と朝鮮の間に存在した平和の仕組みとしての分離の仕組みに対する構造的な理解を試みる。
そして、この作業を通じて、これまでとは異なる清と朝鮮の関係の一面が見えたとすれば、この新しい知見が如何なる意味を持つかについて吟味するつもりである。
二.揺れる境界
一七八〇年は、乾隆帝が七〇歳になる年であった。皇帝の誕生日が近づいてくるとともに、天下を構成する国家や地域から多くの祝賀の使節が清へと向かった。
その中でももっとも特別な来訪者は、チベットからきたパンチェン・ラマ六世であった(12)。
彼は、一八七九年六月―旧暦。
以下も同じ―にチベットを出発して、青海で冬を過ごし、翌年の七月二十一日に熱河の避暑山荘に到着した。
次の日に皇帝への礼品を献上し、二十三日には、乾隆帝が須弥山福寿之廟を訪ね、パンチェン・ラマと会ったのである。
一方、清からすればチベットとは反対側の朝鮮からは、五月二五日に正使朴明源、副使鄭元始、書状官趙鼎鎭を中心に構成された使臣団が国王の正祖に最後の報告をしたうえで、直ちにソウルを出発した。
彼等は梅雨で水が増えたために悪条件になった道に悪戦苦闘したが、八月一日には北京に到着した。
そこで礼部に表文と咨文を提出したが、礼部からは乾隆帝が熱河にいるこ清と、そして、北京の官僚は北京からの望賀礼の形式で皇帝の七〇歳の誕生日を祝う聖節陳賀を行うため、朝鮮の使臣もそこに参列することになっているとの知らせがあった。
ところが、八月四日に礼部から、朝鮮の使臣も熱河に訪れ、賀礼に参加するようにとの皇帝の勅旨が届いたという急な知らせを受けた。
そこで急遽、使節団の中から熱河に向かう七十四名をさらに編成し、八月五日に熱河へ向けて出発したのである。
途中で皇帝からの催促もあったため、使節団は徹夜で険しい道をかなり早い速度で移動し、八月九日の午前には乾隆帝とパンチェン・ラマのいる熱河に到着したのである(13)。
そして、翌八月十日に、朝鮮の使臣に乾隆帝からの知らせが届いた。
軍機大臣が皇帝の勅旨を奉ってきて、チベットの聖なる僧侶に赴いて会いたいかと聞いた。
使臣は「皇上が小国を愛すること(=字小)は、内地のように見なしてくださることですので、中国の人士と交流することは厭いません。
ただ、他国の人に至っては、敢えて通うことをしないのが、小国の法であります」と答えた(14)。
乾隆帝のこの命令からすべてが始まった。
朝鮮の使臣は、皇帝からパンチェン・ラマと会うように勧められ、拒否の意思を表明したのである。
天子の命令への抵抗とも見えるこの大胆な行動は、清と朝鮮が共有していると考えられていた国際関係の規範が持つ力への信念に基づいていた。
使臣は、「字小」の議論をしているが、それは清と朝鮮の関係が字小事大に基づいているというコンセンサスの確認であった。
そして、使臣はこの原理の適用範囲を、清と朝鮮の関係に限定した。
清と朝鮮が原理を共有する圏域とそれと異なる圏域を区別したうえで、字小事大の関係は前者の圏域に限定されるため、後者との関係設定については朝鮮の意思で行うという説明がな
されていたのである(15)。
そして、朝鮮の意思は、小国の法に基づいた分離の維持として提示された。
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論 説
その後、使節団の中で、如何にこの事態に対応すべきかをめぐって議論が飛び交った。
たとえば以下のような意見が出された。
軍機大臣が去った後、使臣は皆顔に愁容を表した。
通訳が慌てて奔走し、宿酔が続いたようであった。
裨将(遣外使臣の遂行武官:筆者注)たちは、公然と怒りを発し「皇帝のやることはあやしく、悪い。必ず亡びる。必ず亡びる。夷狄のやることだ。大明の時代には、このようなことがなかったろう」といった。
首席通訳は、大変忙しい中でも、裨将に向かって、「春秋の大義が出てくる場合ではない」といった(16)。
裨将は、朱子学の主な敵である仏教の僧侶と会うことを勧める皇帝への反感を露わにした。
これは純粋な朱子学者の典型的な反応といえよう。
さらに、「大明」との比較から、乾隆帝の暴挙を議論している点に、明の継承者を自負する小中華意識の特徴も明確に見られる。
一方、通訳の対応は裨将とは異なっていた。
彼等は、当時には珍しく両国の言語が理解でき、両国に関わる境界人であり、また両班ではない中人で、必ずしも朱子学への信念が強くなかったために、使節団の中ではもっとも現実政治への配慮に傾斜しがちな存在であった。
通訳の言葉は、清の皇帝という権力者の命令の形をとって迫りくる権力を目の前にして、「春秋の大義」などの理念は政治的判断の場から排除すべきであるという主張であった。
その両極端の姿勢は、朝鮮において決して新しいものではなかった。
前者は小中華の議論として朝鮮の内部で主流であり、後者は清との国際関係の現場で主流であったのである。
そして、この両者は、各々異なる空間を占有しながら共存していた。
裨将と通訳の論理は、この両方を各々代表していた。
熱河において変化したのは、皇帝の命令によってこの二つの意見の対立を防いでいた国内と国際政治の境界の分離が崩れ始めたという政治的な状況であった。
彼らの議論が結論を出せないうちに、乾隆帝から新しい勅旨が届いた。
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「突然、軍機大臣が飛ぶように馬で駆けてきて、皇帝の勅旨を口頭で宣布して?中国と朝鮮の人々は一体なので、赴いて会うべきである?といった」
のである(17)。
乾隆帝は、「中国と朝鮮の人々は一体(=中朝人一体)」であるという前提に立っている。
「中朝人一体」は、擁正帝以来の「中外一体」を朝鮮という相手に合わせて表現したものと思われる。
「中外一体」はチベットのような藩部を相手に主に使われ、朝貢国や通行の持たない国に対しては殆ど用いなかったことから(18)、この表現を使ったことだけでも大きな変化であった。
上記の文章を清の「中外一体」の意味から理解すると、おそらく儒教や仏教という「教」とは関係なく、皇帝の権力に従うことを促す意味が強い融合の言葉であったと思われる(19)。
その結果はもちろん、分離の崩壊である。
ところが、「中外一体」の発想は、朝鮮にはそれほど馴染みがなかった。
その結果、朝鮮の使節は清の内的なコンテキストからこの言葉を理解することができなかったので、この言葉は彼らに、多文化の清と儒教文明の朝鮮が一体なので、朝鮮も清と同じくチベット仏教に接すべきであるという言語道断の命令に聞こえてくる。
以上のように、権力と文明をめぐる意思疎通の混乱はあったが、双方ともに皇帝の言葉が、朝鮮を儒教的な圏域の中の存在にさせていた分離が崩壊したことの宣言であったという意味は共有できた。
以上のような経緯で、朝鮮の使節団は、パンチェン・ラマとのをめぐる乾隆帝の意思と論理を彼らなりに理解した。
道徳と権力、および心情と結果が混在する緊迫した状況の中での政治的決断は、使節の任務であった。
使節団の三人の中でも、代表である正使の朴明源が究極的な責任を負うことになるが、彼は非常に責任感の強い人物であったらしい。
朴明源を中心とする使臣団の議論では、「赴いて会えば、最終的には苦しい立場になる」という意見や「礼部に文書を送って、道理に基づいて争うべきだ」という意見などが飛び交った
(20)。
権力政治の現実に対する憂いとともに、道徳的原理の立場から乾隆帝に抵抗しようとする意見もあったのである。
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論 説
その際に、
清の礼部で行った情報収集からは、乾隆帝が「その国は礼を知っているが、陪臣は礼を知らない」といったことがわかった(21)。
乾隆帝は、礼の言説を持って、朝鮮の使臣の抵抗に対して不快感を表したのである。
皇帝が朝鮮という国家―あるいは国王―と使臣を対比していることから、これまでの朝鮮が行ってきた字小事大の礼の延長上で、パンチェン・ラマとのという分離の撤廃を正当化している点は理解できよう。
その後使臣間の議論がどのように展開したかは詳らかではないが、次節で紹介する通り、翌朝の清朝の官僚との対話が、パンチェン・ラマと会うことを前提になされていたことから、権力と論理を備えた乾隆帝の命令に従う方向へと議論が進んだことは確かであろう。
以上のように、乾隆帝による権力と論理の両面からの圧力で、朝鮮の使臣も耐えきれなくなった結果、清と朝鮮の間に存在していた分離の壁はもろくも崩壊したのである。
朝鮮の使臣はとうとう異端の指導者であるパンチェン・ラマと会うことになった。
三.分離の崩壊の光景
( 一)二つの圏域の衝突、その一:叩頭の礼
十日の夜には礼部から、明日の朝食後か明後日には乾隆帝に会うことになるため、使臣は必ず宮殿にくるよう
にという知らせが届いた。十一日の朝、使臣は宮殿に向かい、礼部尚書德保の案内を受けて待機していた。
その際に、礼部からはパンチェン・ラマに叩頭するようにとの命令があった。
これに対して朝鮮の使臣は、「叩頭の礼は、清と朝鮮の関係における天子の前で行うものである。今なぜチベットの僧侶に天子を敬う礼を施すのか」と反論した(22)。
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様々な点において相違がある二つの文明の境界線が一時的になくなろうとしていることで、二つの圏域の間の衝突する諸々の面において問題が発生することとなる。
上記のような叩頭をめぐる問題の登場は、分離の撤廃による融合の空間が登場することで、礼の分野にも混乱が起こり始めたことの表れであった。
したがって、前日の論争と比べ、論争の構造に明確な類似性が見られるのは不思議なことではない。
使臣は叩頭を字小事大の関係に限定される礼とみなした。
分離の論理である。これに対して礼部は、「皇帝も先生への礼で彼と会う。使臣は皇帝の命令を奉ずるので、礼はこのように(叩頭:筆者注)すべきである」と再反論したのである(23)。
礼部の議論は、皇帝との関係性を媒介として用いることで、字小事大の礼を他の圏域まで広げる論理になっていた。
まさに、叩頭を対象に、前日の乾隆帝と使臣の対立の論理が適用されたものと理解できよう。
チベット仏教を信奉しているモンゴル旗人にもパンチェン・ラマへの叩頭を公にはしないように注意していた清朝廷のこのような姿勢は、朝鮮からすると当然理解しがたいものであった(24)。
そして、使臣が礼部の議論を最後まで受け入れなかった結果、尚書の徳保が、帽子を投げ、叫ぶまでに至ったという。