◎防衛省OB太田述正メルマガ(修正済み)
アメリカの大統領だったジェファーソンは、奴隷の解放などしていないのに
まるで、したかのように尊敬されているが、実は
義理の父親が女奴隷を手篭めにして生ませた美しいハーフの娘のひとりを
「自分の死後に子供たちを自由にしてやるから」という条件で
妻にして大勢の子供を生ませて、奴隷として働かせていた人。
妻にしていたハーフの娘も奴隷なので奴隷小屋に住んでいた。
自分の義理の父親の血が混じったハーフの子供たちを増やして、資産が増えたと言って喜んでいた。
10歳から16歳までの子供は釘を作らせて自分が自ら管理した。
体罰を与える役目の黒人奴隷を使って、働かない奴隷はムチを当てていた。
自分の義理の父親と、父親が手篭めにした女奴隷が死んだ後で
その女奴隷が生んだ娘と結婚していたということは、自分の義理の妹と結婚していたわけ。
しかも、この義理の父親が死んだ後、父親の女奴隷とは何もなかったという証拠は無いそうだ。
ジェファーソンは、奴隷の能力や持っている技術によって、わずかだが賃金を与えたり 食料や衣服を多めに与えたりして階級制度を作っていた。
義理の父親と自分の血が混じった自分にそっくりな顔の奴隷たちは、家の用事に使った。
ジェファーソンが妻にしていた自分の義理の妹は、肌の色が白くて髪が長くて
誰が見ても美人でほとんど白人だったそうだ。
その妻は、ジェファーソンの死後も解放されずに最後まで奴隷だったそうだ。
でも、アメリカの子供たちが読むジェファーソンの伝記には、「小さい子どもたちはのんびりいたずらしながら釘を打っていた。」と書いてあるそうだ。
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太田述正コラム#5836(2012.11.10)
<ジェファーソンの醜さ(その4)>(2013.2.25公開)
(3)奴隷主たるジェファーソン
「・・・政治的には、大統領として、そして、ルイジアナの購入<(注3)>
による米国の<領土の>大拡大の処理にあたって、ジェファーソンは、自分の道徳的諸原則にここでも違背して、新しい土地において奴隷を禁止しようとはしなかった。
(注3)「1803年に・・・大統領の・・・ジェファーソンは・・・フランスから
・・・現在のアイオワ、アーカンソー、オクラホマ、カンザス、コロラド、サウスダコタ、テキサス、ニューメキシコ、ネブラスカ、ノースダコタ、ミズーリ、ミネソタ、モンタナ、ルイジアナ、ワイオミングの15州にまたがる・・・210万km?を超える領地を1500万ドル・・・で買収した・・・<米国>の領土はこれにより、この当時で2倍になった(現在でも全領土の23%に相当する)。」
同じくらい重要だったのは、これが訓練とテストの場となったことだ。
釘男児達は、全員余分に食品を得た。
このうちよくやった者は、新しい衣類をもらったし、いわば、卒業することも期待で きた。
普通の農場奴隷として「地面の上」に行くのではなく、技術者としての訓練を受けら れるという意味で・・。・・・
釘打ち工達は農場作業者の2倍の食糧配給を受けたが賃金は支払われなかった。
ジェファーソンは、白人の男児達(監督者の息子達)には釘工場の火にくべる木材を 切り出すために一日50セント支払ったが、これは、「彼らが学校に行かない毎土曜日」 における週末仕事だった。・・・
(続く)
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太田述正コラム#5838(2012.11.11)
<ジェファーソンの醜さ(その5)>(2013.2.26公開)
これらの人々を働かせるのは、<G>という親方の仕事だった。
提供できる糖蜜も衣類も持ち合わせているわけでないことから、彼は、あらゆ
る形態の説得に頼らざるを得なかった。
どういう手法を使ったかは定かではないが、何年かにわたっては彼は極めて成功を収めた。
しかし、1798年の冬にこのシステムは立ち行かなくなってしまった。
恐らく、彼が人々を鞭打つのを初めて拒否したためだろう。
ジェファーソンの義理の息子である<R>大佐は、当時、米副大統領として
フィラデルフィアに住んでいたジェファーソンに、<G>の下で、「不服 従」に
よって諸作業が「ひどく滞っている」と報告した。
一か月後に事態には「改善が見られた」が、<G>は、「<奴隷達のことを>
心配して時間を完全に無駄にしている」<という報告がなされた。>
<G>は、自分と同じ人々とジェファーソンとの間で板挟みになってしまって
いた。
彼らは、ジェファーソンの義理の父親の大農園から売られてやってきたのだ
が、ジェファーソンは、<G>にいい仕事を与え、彼がカネを稼ぎ財産を 所有することを認め、<G>の子供達にも同様の慈悲を示した<からだ。>
しかし、今や、ジェファーソンは、<G>の産出量に目を光らせるに至っていた。・・・
ついに、<R>は、ジェファーソンに真実を明かす必要に迫られた。
<R>は、<G>が「自分の部下達を指揮することができない」と書いた。
頼みとする唯一のものは鞭であり、「不服従の事例が余りにひどいので、私は介入し、彼らを私自身の手で罰した」と報告した。
<もとより、R>自身が鞭を用いたはずはない。<モンティセロには>その専門家がいたからだ。・・・
<ちなみに、ジェファーソンとは違って、>ワシントンは、黒人は劣っている
だの、追放すべきだの、と示唆したことはない。・・・
<また、>モンティセロの鍛冶の<F>は、ジェファーソンが、その遺言で
もって解放したごく少人数の奴隷の一人だったが、ジェファーソンは、 <F>の
家族は奴隷のままにとどめおいた。
ジェファーソンの死からその財産の競売までの6か月間に、<F>は、チャー
ロットズヴィル(Charlottesville)の諸家族と取引を 行って、自分の妻、及び
自分の7人の子供のうちの6人を買い上げてもらおうとした。
彼のいちばん上の子・・皮肉にも、<ジェファーソンが大統領の時に>まさに
ホワイトハウスで生まれた・・は、既にジェファーソンの孫息子に与え られて
しまっていた。
<F>は、妻と彼の<3人の>子供達には同情的な買い手達を見つけることができたが、下の3人の娘達については、彼女達が異なった買い手に落札 されるのを指をくわえて見守らざるを得なかった。
そのうちの1人・・・は、<買われて行った>ヴァージニア大学の職員たる新
しい主人のもとからすぐに逃げ出した。・・・」(G)
(4)同時代人によるジェファーソン批判
「米独立宣言における5つの単純な言葉群・・「all men are created
equal(全ての人は平等に創られている)」によって、トーマス・ジェファーソ
ンは、1776年まで人類の事象を律してきたところの、アリストテレスの 古の公
式である、「生まれ落ちた瞬間から、幾ばくかの人は臣下となり残りの人は支配するべく定められている」を廃棄(undo)した。
彼による、独立宣言の原案では、高揚した、破壊的(damning)にして火のよ
うな散文でもって、ジェファーソンは、奴隷貿易を「呪うべき通 商(execrable
commerce)<にして>…恐怖の集合体(assemblage of horrors)」であり、「人
間の本性そのものに対する狂った戦争であり、生活と諸自由の神聖なる諸権利の侵害である」と指弾した。
歴史家のジョン・チェスター・ミラー(John Chester Miller)<(注4)>が
指摘したように、「奴隷制と奴隷貿易に対するジェファーソンの弾劾を<独立宣
言に>含めておれば、米国は奴隷制廃止を誓約す る(committed)ことになっていただろう」。
(注4)1907~91年。ハーヴァード大学士、修士、ハーヴァード・ロースクー
ルに入学するも歴史研究を志し、同大から博士号。スタンフォー ド大歴史学教
授としてその後の人生の大部分を送る。ジェファーソンと奴隷制に関する書を初めとする、米独立期前後の歴史を中心とする著作群を残し た。
http://histsoc.stanford.edu/pdfmem/MillerJC.pdf
当時、<独立宣言の「全ての人は平等に創られている」の部分>を読んだ人々のうちの幾ばくかは、そのように解釈した。
マサチューセッツは、独立宣言をもとにして、1780年の州憲法にジェファーソ
ンの文言を織り込んだ。
「全ての人」の意味は、まことに鮮明であり、だからこそ、6つの南部諸州の
憲法群の著者達にとって極めて心安からぬものがあったことから、彼ら はジェ
ファーソンの言葉遣いを訂正した。
彼らは、自分達の<州の>創設諸文書に、「全ての自由人は平等」と記したのだ。
これらの州の憲法の著者達は、ジェファーソンが意味したところを知ってお
り、だからこそ、それを受け入れることはできなかったのだ。
大陸会議が最終的に上記の一節を叩き落としたのは、南カロライナとジョージアが、より多くの奴隷を欲しており、奴隷市場の閉鎖を我慢するわけに はいかなかったから。
「ジェファーソンのリベラルな夢が本物であったことは疑う余地がない」と歴
史家のディヴィッド・ブライオン=デーヴィス(David Brion Davis)<(注
5)>は記す。
(注5)1927年~。奴隷制問題を中心とする米国史学者。ダートマス大学士、
ハーヴァード大博士。コーネル大を経てエール大教授。
http://en.wikipedia.org/wiki/David_Brion_Davis
「彼は、くろんぼ奴隷の制限と根絶に向けての具体的諸措置を擁護したところの、世界全体を探しても、最初の政治家の一人だった」と。
しかし、1790年代においては、「ジェファーソンの奴隷制に対する立場に係る
最も瞠目すべき事柄は、彼の完全なる(immense)沈黙だ」 とデーヴィスは続ける。
そして、その後、デーヴィスは、ジェファーソンによる<奴隷>解放努力は、
「事実上なくなってしまった」ことを発見する。・・・
ヴァージニアの奴隷廃止論者のモンキュア・コンウェイ(Moncure Conway)
<(注6)>は、ジェファーソンが解放者になるだろうとのずっと続く評判に言
及しつつ、「一人の人間が、やらなかったことに対してこれほど の名声を博し
たことはない」と軽蔑的に語ったものだ。
(注6)Moncure Daniel Conway(1832~1907年)。奴隷制廃止論者、牧師にし
て著述家。ハーヴァード大卒。
http://en.wikipedia.org/wiki/Moncure_D._Conway
トーマス・ジェファーソンの邸宅は、プラトンの理想的な家のごとく、山の
てっぺんに建っている。
天上の領域において、文字通り雲の上に存在する完璧なる創造物とし
て・・。・・・」(G)
(続く)
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太田述正コラム#5844(2012.11.14)
<ジェファーソンの醜さ(その8)>(2013.3.1公開)
(5)伝統的なジェファーソン弁護論
→そもそも、ゴードン=リードの抱いているような(奴隷に係る)ジェファーソ
ン観の原点が何かが分かるのが、以下です。
「・・・1941年のジェファーソンの「若い大人」(12~16歳)向けの伝記の中
で、その著者は、「<ジェファーソンの>この蜂の巣のような工場群においては
、不協和音も罵詈も入り込む余地はなかった。彼らの主人の指示の下で働いていた黒い輝く顔々には、不満の兆候は見られなかった…女性達は仕事をしながら歌い、働けるほど大きくなった児童達は、のんびりと釘をつくったが、時々いたずらができるくらいしか働く必要はなかった。」と記した。
「より素朴な(simpler)時代」のばかばかしい(sappy)散文の誤解を嘲るの
は公正でないと思うかもしれないが、この本、『鷲のやり方(The Way of an
Eagle)』や同じ類の数百冊の本が、奴隷制及びアフリカ系米国人に関する何世代にもわたる読者達の態度を形成したのだ。
タイム誌は、これを児童文学の分野における1941年の「重要な本」の1冊に選び、1961年には、それが『トーマス・ジェファーソン--自由と人権のための闘士(Thomas Jefferson: Fighter for Freedom and Human Rights)』と題して再版され、米国の諸図書館において第二の生活を送ることになった。・・・」(G)
(6)ジェファーソンと「黒人」「情婦」
「・・・<ジェファーソン>の奴隷達は、当時の<ジェファーソン以外の>他の
家産(properties)における奴隷達と同様、ジェファーソンによる、その潜在能力
、本性、あてがわれる仕事、そしてジェファーソンとの関係、に係る評価に立脚した一種の階統の形に整序されていた。
「関係」というのは、文字通りの意味であって、ジェファーソンの奴隷の多くは
、彼の妻であるマーサ(Martha)と血縁上のつながりを持っていた。
この関係は、ジェファーソンの岳父のトーマス・ウェイルズ(Thomas Wayles)
とその奴隷の1人であったベティ・ヘミングスとの情交関係(liaison)に起源を有
する。 この関係から何名もの子供達が生まれ、ウェイルズが亡くなると、その全員が、ベティともども、ジェファーソンの財産になった。
この子供達の1人がサリー・ヘミングスであり、ジェファーソンは、彼女と、マー
サ・ジェファーソンが亡くなって長く経ってから、親密となった、とウィーンセック
や他の多くの人々は信じている。
本件については、近年において多大な関心が向けられており、本当にジェファーソンがサリー・ヘミングスとの間で子供達をつくったかどうかの確証を掴もうという試みがなされてきた。
ウィーンセックは、荘園の主たる彼自身と驚くほどよく似ている家庭内召使達についての同時代人による証言等の両陣営の主張を提示しつつ、ジェファーソンが子供達の父であることは間違いないと確信している。・・・」(E)
「・・・ヘミングスは、たったの16歳の時に、ジェファーソンが駐仏大使になった
際、彼と共にフランスに赴いている。
彼女は、フランス法の下で、自由になって現地に留まることもできたが、ジェファーソンとの間で、彼女が引き続きサービスを提供することで、彼女の子供達が奴隷から自由になる、という約束を交わした後、彼と共に米国に戻った。・・・」(I)
「・・・サリーは、奴隷であると同時にジェファーソンの義理の妹であり、何世代にもわたる奴隷主達の虐待の産物だった。・・・
サリーの母親は、自身が混血であり、恐らくは半分しか黒人ではなかったし、4分の3白人であった可能性すらあり、<サリーの>肌の色はとても白かったと言われている。
だから、彼女の、ジェファーソンとの間になした子供達は「完全な白人」として通用しえた。
サリーは、(ジェファーソンとは血のつながりのない)アイザック・ジェファーソ
ン(Isaac Jefferson)によって、「殆んど白人であって…とても見栄えが良く、長い 髪だった」と描写されているし、ジェファーソンの孫息子のヘンリー・ランドルフ・ジ ェファーソン(Henry Randolph Jefferson)は、彼女が「白い肌色でまことにもって見 栄えが良かった」と記憶している。
妻の異母妹との間で家族を持つ一方で、彼女とその子供達・・自分自身の子供達・・ を奴隷として維持することができたということは、殆んど理解を絶する。
三人婚(m?nage a trios)家族全員が一つ屋根の下で暮らしていた、というわけだ。
ただし、もちろんサリーは奴隷区域で暮らしていた。
彼女の子供達は、ジェファーソンが亡くなった時に初めて自由になった。
しかし、サリーは最後まで奴隷のままだった。・・・」(J)
→三人婚(m?nage a trios)というと、普通は、妻と妾ないし第一夫人と第二夫人が、 夫と一つの家で住むことを指しますが、ジェファーソンの場合は、サリーとの関係は夫 人の死後のことのようですから、形の上では三人婚には該当しませんが、両者の子供達 が、ジェファーソンの下、同じ家の中で、主従関係の形で暮らしたり働いたりしていた 、という意味では、事実上の三人婚であったと言ってもおかしくはありません。
まことにもっておぞましい話だとお思いになりませんか。(太田)
(続く)
◎防衛省OB太田述正メルマガ
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%8
A%E8%B2%B7%E5%8F%8E
それまでの自分の(新しい地における)奴隷制排除(exclusion)政策を覆し、
「奴隷制だけがこれらの植民地を豊かにすることができる」ことを認識し、大農
園制をこの新しい土地において認め、よって奴隷制をより強固なものと(
entrench)したのだ。・・・」(J)
「ジェファーソンは、金銭的に苦境に陥った知人について、「くろんぼに投資す
べきだった」と記した。
彼は、友人の家族に現金が残っていたならば、「その全てを土地とくろんぼに費やす[べきであり、そうする]ならば、当面支えになるだけでなく、その価値の増加により、米国では、黙っていても、<年>5~10%の利益をもたらす」との助言を与えている。・・・
最近明るみに出た手紙は、モンティセロで小さな黒人児童達、すなわち、10、11、ないし12歳の「小さな子達」が、どのように、ジェファーソンの、その利益が食料雑貨経費を賄っていたところの釘工場で働くよう鞭打たれていたか、を描写している。
児童達が鞭打たれていたという、このくだりは、『ジェファーソンの農場の本(
Jefferson’s Farm Book)』の1953年版として公刊された記録では伏せられていた、というか、意図的に削除されていた。・・・
小麦栽培は、大農園主と奴隷との関係に変更を強いた。
タバコの栽培では、一団の奴隷達が、全員同じ、繰り返しの重労働を、監督者達の直接的な厳しい監視の下で行った。
<これに対し、>小麦は、各種の熟練労働者を要したので、ジェファーソンは、野心的な諸計画を立てたが、それには、製粉工、機械工、大工、鍛冶、紡績工(spinner)、桶屋、<そして小麦畑を>耕す男女、を確保する必要があった。
しかし、ジェファーソンは、最も厳しい仕事をする<タバコ畑に係る>「地面の
上の労働者群(labourers in the ground)」も、依然として必要としたので、モ
ンティセロの奴隷コミュニティは、更に区分けが進み、階統的になった。
彼らは全員奴隷だったが、奴隷の中の幾ばくかは、残りの者達よりもましになったのだ。
その過半は労働者群であり続けた。
彼らの上に、奴隷たる(男女の)技術者(artisan)群がいて、この彼らの上に奴隷たる支配人(manager)群がいて、この彼らの上に家の職員(staff)達がいた。
この階統の上に行けば行くほど、よりよい衣類と食糧が得られる。
そもそも、上に行けば行くほど、山頂により近い高さのところに住むことになる。
少数の奴隷は、給与を支払われ、利益の分配ないしジェファーソンが呼んだところの「祝儀(gratuity)」にあずかる一方で、最底辺の作業者達は最低限の糧食と衣類しか与えられなかった。・・・
小麦の栽培にはタバコの場合に比べてより少ない作業者で足りたので、専門化された訓練を受けさせることができる一群の野外労働者群が余った。
ジェファーソンは、奴隷制を近代化させ、多様化させ、工業化させるところの、包括的プログラムに乗り出した。
モンティセロでは、釘工場、繊維工場、(短期で終わった)ブリキ作業場、桶製造と炭製造が始められた。
彼は、製粉場とそれに水力を供給する運河という野心的な諸計画も立てた。
この新しい組織のための訓練は児童期から始められた。
ジェファーソンは、彼の「農場の本」の中で計画の概要に触れている。
「10歳までの児童は看護士をやり、10歳から16歳までは、男児は釘を作り、女児は紡ぎ、16歳になったら農場に出すか専門化(learn trades)させる」と。
タバコは児童労働を必要とした。(児童の体は小さいので、タバコに付いた虫をつま んで殺すという不愉快な仕事には最適だった。)
小麦はそうではなかったので、ジェファーソンは、彼の余った若い作業者達を(男児 の場合は)彼の釘工場に、(女児の場合は)紡績と織物場に移した。
彼は、釘工場を1794年に立ち上げ、それを自分自身で3年間監督した。
「私は、現在、12人の10歳から16歳までの小さい男児を使っており、彼らの事業の詳 細まで私自身が監督している」と。
彼は、一日の半分を釘を数え、その重さを量ることに費やした。
朝には、彼は、重さを量った上で、個々の釘打ち工に釘の原棒を配分し、一日の終わ りには、完成品の重さを量り、原棒がどれだけ無駄になったかを記した。
この釘工場は、「特に自分にとってはよかった。なぜなら、さもなければ余っていた はずの一群の男児達を使用したからだ」と。