日英同盟は継続されなかった | 日本のお姉さん

日英同盟は継続されなかった

以前から、日英同盟が継続されていたら

日本もアメリカと戦争にならずに

すんだのに。イギリスが日本を守ってくれていたら

よかったのにと思っていたが、

イギリスの外務省は

まったく日本のこともソ連の脅威もわかっちゃいなかったし

アメリカの顔色をうかがうカナダが

日英同盟の継続を反対したり、

つまんないことがいろいろ重なって

継続されなかったんですね。

イギリスのチャーチルは、

日本が真珠湾を攻撃したというニュースを聞いて

「これでアメリカが参戦してくれる!」と喜んだそうです。

イギリスは、アメリカが日本に対して冷たく当たるように

常に仕向けたそうです。

日本は戦争を避けることなんか

できなかったってことですね。

当時は、日本は有色人種で植民地にされても

おかしくない側だったから、

その有色人種が満洲を管理するなど

白人の国にすると

とんでもないことだったのでしょうね。

そんな時代の日本を今の日本人が

「侵略した。」などと言うのはおかしい。

侵略していたのは、すべての白人の国であって

今の感覚で言うと当時の白人の国、全部が

侵略者だったんです。悪かったんですよ。

アメリカなんか、日系人の財産や土地をとりあげていたし

黒人を差別していたんですからね。

当時のアメリカって、ものすご~く悪い国だったわけです。

日本だけ悪いと言うのは、チュウゴク人と朝鮮人と

左翼思想の日本人。みんな悪かったんですからね。当時は、、、。


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太田述正コラム#4386(2010.11.19)
<戦前の日英関係の軌跡(その1)>(2011.3.1公開)

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1 始めに

 読者のXXXXさん提供の
A:イアン・ニッシュ編『英国と日本(Britain & Japan)--日英交流人物列伝
(Biographical Portraits)』(博文館新社 2002年)
、及び
B:サー・ヒュー・コータッツィ&ゴードン・ダニエルズ編『英国と日本--架橋の
人びと(Themes and personalities)』(思文書閣出版 1998年)
のそれぞれの抜粋から更に抜粋する形で、戦前の日英関係の軌跡を辿ってみたい
と思います。

2 サー・クロード・マクドナルド(Sir Claude Maxwell MacDonald。
1852~1915年)(A)

 「サー・クロード・マクドナルドは1900年から1912年までの12年間、日本駐在
英国公使・・・<そして、>日露戦争後、英国<が>日本の 公使館を大使館に
昇格し<たことにより、>、・・・同大使として勤めた。・・・
 彼は、スコットランド出身の軍人で、アフリカの英国保護領で総領事を勤めた
のち、北京公使となった。北京で義和団事件<に遭遇、>1900年の 秋に、アー
ネスト・サトウの後任として東京へ赴任した。彼の在任中、1902年に最初の日英
同盟が結ばれ、1905年に更新、さらに1911年に 再度更新された。」(203頁)

 「マクドナルド<の部下>は、・・・1909年に・・・こう書いている。「<英
国>政府は大使<に>・・・信頼を置いておらず、大使が日本の立 場で物事を
判断しすぎると考えている。・・・しかしマクドナルドの私設秘書であった
ジョージ・サンソム(George Sansom)は、彼のことを愛情と理解をこめて書い
ている。」(211頁)
 「ジョージ・サンソム(Sir George Sansom 1883-1965) 英国の外交官、日
本学者。1904年通訳生として来日、その後大使館の商務参事官となり、1940年開
戦により帰国した。在勤中、日本の言語、歴史を研究 し日本学者として名を成
した。第二次大戦中は海軍軍令部、陸軍省情報局に勤務し、戦後は連合国極東委
員会英国代表として日本を視察した。その後コ ロンビア大学東アジア研究所所
長を勤めた。『日本文化史』、『西欧世界と日本』、『日本史』等の著作があ
る。」(220頁)

→戦前の日本は、赴任した欧米の外交官を虜にする魅力溢れた地であったようで
すね。
 1921~27年駐日フランス大使(その後駐米大使、駐ベルギー大使)を勤めた
ポール・クローデル(Paul-Louis-Charles Claudel。1868~1955年)は、舞踊詩
劇『女と影』を書き、帝国劇場で、七代目松本幸四郎、五代目中村福助らによっ
て上演されたほか、著書に 『Correspondance diplomatique. Tokyo
(1921-1927)』(1995年)(邦訳:『孤独な帝国-日本の一九二〇年代』(草思社
1999年))があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%
AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%AB
 なお、サンソムは、狂言回しのように、これからたびたび登場します。(太田)

 「個人的な手紙の中で<マクドナルド>はこう書いている。
 「陛下(明治天皇)は極めて親しげに周りの人々と話し合っていた。陛下の両
側に座った皇族方すなわち有栖川宮と閑院宮の両殿下は明らかに敬意の こもっ
た態度でお相手していたが、伊藤侯爵と井上伯爵(私の隣席にいた)は全く対等
の間柄のような話し方で、冗談を飛ばし、この太陽の御子を大笑 いさせてい
た。陛下はミカドでありながら実に人間味豊かに見えた・・・」(215頁)

→明治天皇からは「現人神」の片鱗もうかがえませんね。明治天皇を尊敬してい
たであろう息子の大正天皇も、孫の昭和天皇も、同じであったに違いあ りませ
ん。(太田)

3 サー・チャールズ・エリオット(Sir Charles Eliot。1862~1931年。駐日
大使:1920~26年)(B)

 「エリオットには外交官として経歴の中で、本国からの指令が自分の信念と矛
盾していると指令を曲げたり時には無視したりすることが多々あっ た。」(317頁)

 「日英同盟・・・はアメリカには評判が悪かった。なぜなら、アメリカ側から
見れば、日英同盟は日本にとって、アジア大陸への侵略の強い後盾とみ なされ
ていたからである。また、中国においても、同盟による日英の正式な友好関係
は、過去から続いている中国に対する日本の脅威を支持するものと みられてい
た。英国から見れば日英同盟は、極東における英国の権益を、最初はロシアか
ら、続いてドイツから守る、鎧のいわば甲鉄板であった。それ が今、第一次大
戦でのドイツの敗北とロシア勢力の崩壊とによって、これらの脅威が取り除か
れ、当然の結果として、日英同盟は存在意義を急速に失っ ていった。また、そ
れと同時に、第一次大戦の戦中戦後を通して、中国やシベリアにおける日本の軍
事行動は、たびたび英国の利害と衝突するように なっていた。しかも同盟の取
り決めにより英国は日本の政策に干渉できたにもかかわらず、現実の事態はその
通りにはなっていなかった。結局、第一次 大戦によって生じた国際情勢の中
で、もはや形式的同盟関係は存在しにくくなっていた。もっとはっきり言えば、
日英同盟を保持し、国際連盟にも加盟 するということが両立しにくくなってい
たのである。」(319頁)
 「東京に着任後、彼が同盟に関して初めて表わした見解は、「日英同盟の更新
を主張する秀れた意見書」で、これを読んだカーゾン<英外相>は心を 動かさ
れた。そして、1920年12月にも再びカーゾンは、日英同盟問題を検討するために
設置された外務省の委員会が提出する全体的に手抜きの答 申より、エリオット
の強固は同盟擁護論の方が説得力があるという判断をくだした。しかし、1921年
2月から、同盟の更新は英米関係にとって逆効 果であるとの理由で、カナダが
反対の音頭取りを開始した。そうして1921年6月にはすでに、日英同盟問題が帝
国会議の主要テーマになってい た。」(320頁)

→エリオットの尽力ににもかかわらず、結局、日英同盟は廃棄されてしまうわけ
です。
 カナダは米国の脅威に直面しており(コラム#1621)、米国の、カナダ及びそ
の「本国」たる英国に対する猜疑心を少しでも減らすべく腐心して いた、とい
うことでしょう。(太田)

 「エリオットが本国に送った文書の中で繰り返し使われた表現は、日本が、世
界の列強の一つとして認めてもらうこと、そして他の国との協調を重視 してい
ることを分かってもらうことを何よりも重要だと考えているということであっ
た。また、<彼は、>「日本人が事実より礼儀を、物質的利益より 国家の威信
を重んじるというのは、誇張ではなく事実である」と書<いている。>」(322頁)

 「エリオットは日本が侵略主義を断念した具体例をいくつかあげることができ
た。まず、日本はワシントン会議の後、いさぎよく青島から身を引い た。そし
て、英国がエリオットの提案に従い、ウラジオストクにある武器の大量備蓄を破
壊するのに要する間日本軍をとどめておこうと工作したにもか かわらず、日本
はシベリアからも指示された期日を守って軍隊を撤退させたという点であ
る。」(322~323頁)

→エリオットは、対露安全保障を最重視する日本の理解者であったけれど、この
当時、英本国のロシア観は、米国ほどではないけれど、日本に比べて甘 かっ
た、ということなのでしょう。その狭間で彼が苦労をした姿が眼に見えるようで
す。(太田)

 「<1924年、>日本人がアメリカの移民法に憤慨した時、エリオットは本国政
府に、「日本は国際関係の中で公正かつ礼儀正しくあろうとしてい るが、もし
外国人が日本人のやり方を受け入れないなら、彼らはそっぽを向くかもしれな
い」と警戒を促した。」(323頁)
 「エリオットは・・・中国における日英の権益は相反するものではないので、
英国はアメリカとではなく日本と協力して共同の政策をとるべきである と、本
国政府に働きかけた。しかし、このような意見は賛同を得られず、エリオット自
身と外務省との対立を引き起こす結果となった。」(323頁)

→エリオットは、日本人同様、米国に不信感、警戒感を抱いていて、英国は米国
よりも日本を重視すべきだ、と考えていたように思われます。(太田)

(続く)
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