芸能人は昔は川原者と呼ばれた。タレントは才能という意味。 | 日本のお姉さん

芸能人は昔は川原者と呼ばれた。タレントは才能という意味。

友達が、芸能人は昔、川原者と呼ばれていたと言っていた。

川原者という言葉は、どこかで聞いたことがあるけど、

意味の分からない謎の言葉だったので、気になって調べてみた。

昔、京都では鴨川の川原で歌舞伎役者の興行があって、

歌舞伎役者は、ホモセクシャルの欲望の対象だったので、

川原で売春をしていたようなのです。

今では歌舞伎役者は日本の伝統を受け継ぐ立派な

アーティストたちなのですが、

昔は町人たちにさげすまれていたらしい。そこから「川原者」

「川原乞食」という差別言語が生まれたのだそうです。

また、水に近い場所や水際で営業をしているから、そういう

商売にかかわる人たちのことを水商売と呼ぶようになったのです。

今は、客の人気によって成り立つ収入の不安定な商売の

俗称です。

日本では昔は、芸能人はエタ・非人の仕事であったようです。

就職の時に親の職業を聞かれて、部落民だとして敬遠され、

普通の会社に就職できなかった時代は、エタ・非人の住む地域の

人は芸人や役者になる場合が多かったそうです。今では才能の

ある芸能プロダクションのスカウトに選ばれたような

特別な人しか芸能界には入れませんが、昔は芸能人は自然と

そういう人がなったようです。地方に巡業にいけば、その地方の

ヤクザさんにショバ代を払わねば、興行ができず、自然と

ヤクザさんとの関係が深くなったそうです。ヤクザと言えば、半数

以上が在日韓国・朝鮮人か、元朝鮮半島から移住してきた人なの

で、自然と芸能人は在日韓国・朝鮮人やエタ・非人の地域の人が

多かったようのです。今でも、芸能界ではその辺の人が多いかも

しれないけど、才能が無ければ、どこの地方の出身の人でも

人気は出ないでしょう。タレントとは、英語で才能という意味で、

聖書に語源がある。

神さまが一人一人に与えた賜物(たまもの)、才能、時間などを

タラントと呼びます。イエス・キリストが、話されたたとえ話のひとつ

に、当時の通貨の単位であった「タラント」がでてきます。

それは、主人と召使たちのたとえ話なのです。

主人が遠くに旅立つときに、召使たちを呼んで、それぞれに

才能に応じてお金(タラント)を預けて管理をするように命令して

旅立った。

ある召使は、その金を用いて商売を始めて、主人が帰って

来たときに、倍にしましたと言って主人に褒められたが、悪い召使は

「あなたは、蒔かないところから刈り取る厳しい方だと知っていました

から、お金は地面の中に埋めておきました。ほら、これが、その時の

1タラントです。」と言って、預かった金(タラント)を主人に返した

のです。主人は怒って、「わたしが蒔かないところから刈り取ると

わかっていたと言うのなら、なぜ銀行に預けておかなかったのか。

そうしたら利子が付いたのに。悪い召使だ。お前は暗いところで

歯軋りしておけ。」と言い、1タラントを取上げて、商売をして

たくさん稼いだ召使にあげたというたとえ話です。

当時の召使と言うのは、奴隷の身分の者たちであって、

主人に金(タラント)を渡されて、これを有効に

使いなさいと言われるのは、彼らは主人に信頼されている

可愛がられている召使たちだったということです。


神さまから与えられた、才能や時間やお金は

与えられた量にしたがってベストを尽くして生きて、神さまという

主人に喜ばれる人生がいいのですよというたとえ話だと思う。

少ししか才能(タレント)が無いからと言って、ふてくされて何も

動かない召使は、主人に対する愛が無い。人間は、神さまから

与えられた環境で、ベストを尽くすと、それぞれが神さまに評価

されて、主人が帰ってきたときに褒められて褒美を与えられる

のです。

与えられた1タラントを地面の下に埋めてしまって、何も働かず、

主人が帰ったときに、そのまま付き返した召使は、主人を

愛してもいないし、信用もしていない人のことです。つまり、

世界を創り、人を創られた神さまを信じない不信者のことです。


神さまに対して、どういう態度を持って生きるのか、それを

神さまは旅に出かけて帰ってくる主人のように、評価されるの

ですよということをイエス・キリストは説明されたのだと思います。

神さまを無視して自分の欲望のままに生きて何も神さまを

喜ばせなかった人の結末は、「主人の怒り」しかないですが、

主人に忠実だった召使たちは、かなり評価されています。

与えられた才能、時間は、人によって多かったり少なかったり

しますが、自分のベストを尽くして、与えられたものを神さまに

喜ばれることに使ったのかどうかが肝心なのです。

聖書の基準は、世の中の基準とは違います。死後に神さまが

評価するとイエス・キリストは言っておられるのです。

神さまを信じないで人生を無駄なことに使った人の結末は

暗闇での歯軋りです。神さまに対する不信の罪の裁きを受けると

イエス・キリストは示しておられるのです。

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人間を区分けするのは、神さまの前では間違っている。

人は神の前に平等というのは聖書の考え方です。

でも、神さまを愛さない者は、死後に暗闇で歯軋りすると

書いてある。チャンスと時間はそれぞれに与えられていて

タラントの量は多い少ないがある。それでも、力量に応じて

神さまの喜ばれることに人生を使ったのかどうか、死後に

問われることになると聖書は書いています。