海を渡った自衛官─異文化との出会い | 日本のお姉さん

海を渡った自衛官─異文化との出会い

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◆「海を渡った自衛官─異文化との出会い─」vol.18  荒木 肇
第18回 みんな誰もがテントを運んだ(インドネシア国際緊急医療・航空援助隊)
インドネシア国際緊急医療・航空援助隊・航空援助隊CH-47乗り組み機上整備員:H2曹
                派遣期間:2004年2月24日~3月10日

■インドネシア国際緊急医療・航空援助隊の概要説明
2004年12月26日、インドネシア・スマトラ島の西方沖で大規模地震が発生(M9.0)し、被災地には津波がおそいかかった。伝えられる死者は、およそ17万6000人、行方不明者同4万1000人とされている。翌05年1月3日には、インドネシア共和国政府からわが国に支援要請があった。外務大臣から防衛庁長官に「国際緊急援助隊法」にもとづいた協力を求める協議がされた。決定されたのは、次の空・陸・海自衛隊の行動である。
1 航空自衛隊輸送機による救援物資などの輸送
2 陸上自衛隊のヘリコプターによる救援物資などの輸送と、部隊による医療・防疫活動など
3 海上自衛隊の艦艇による救援物資や陸上自衛隊部隊の海上輸送と、現地の陸上自衛隊部隊に対する海上からの後方支援
自衛隊の行動はすばやかった。7日には空自のC-130H輸送機1機がタイ王国ウタパオ基地に進出、10日から救援物資などの輸送を始めた。16日には先行派遣された陸自医療チームがインドネシア、バンダ・アチェに到着、3日後から活動を開始。派遣部隊の主力も24日に海自の艦艇で同地に到着、2日後からヘリによる物資輸送が始まった。
撤収は3月初めから行なわれ、主力部隊は10日に現地を出発、23日までに帰国した。陸自の派遣人員は228名、輸送用ヘリCH-47×3、多用途ヘリUH-60×2。海自は同593名、護衛艦「くらま」、輸送艦「くにさき」、補給艦「ときわ」空自は同82名、C-130H×2と、本国に予備隊に53名、輸送機×1と連絡機U-4×2が待機した。陸自は医療活動で6013人を診療、ワクチンの実施は2277人にのぼった。防疫はバンダ・アチェ市内で13万3800平方メートル。ヘリによる物資等(食料、テント、医薬品等)輸送は約160.3トン、人員も1570人を運んだ。
注目されるのは1月7日にウタパオ(タイ王国)に統合連絡調整所がおかれたことだ(2月12日には現地に進出)。大規模な陸自部隊が海外で活動するときには海自の支援が必要になる。今回は、大型ヘリや隊員の輸送、土木用重機の揚陸などに輸送艦「くにさき」と、同艦に積載されたLCAC(ホバークラフト)が活用された。陸自の隊員たちは、「くにさき」の甲板上にヘリを固縛し、器材・物資を積みこみ、艦の居住区に入った。船旅で現地に到着、艦上でヘリを組み立て、乗組員の歓呼の声の中、被災地に飛び立ったのだ。活動中も、夜には当直者をのぞいて「くにさき」に帰った。海自隊員の後方支援は手厚かった。陸、海と所属は違っても、やはり、同じ隊員だった、自衛隊という一家だったことを実感しましたという声が経験者からはよく聞かれる。

▼汚れを気にしない各国軍のヘリコプター
初めて外国軍のヘリコプターを見た。アメリカ、オーストラリア、シンガポール、それに現地のインドネシア軍。各国のCH(輸送用大型ヘリ)を初めて見ての感想は、「うわっ、きたないなあ」というものだった。オイルまみれである。機体のあちらこちらに汚れが目立った。ローター(ヘリの回転する翼)まわり、エンジンの近く、とにかく全部がすすけているような印象だった。
「われわれだったら、どんな小さな汚れでも気になってしまいます。どこから出たんだろう、どのあたりから洩れたんだ。オイルを拭き取るだけではすまない。きれいにするだけではなく、その原因・理由が分からないと何とも気持ちが落ち着かないんですよね」H2曹は、外国軍と自分たちの、その違いを、どういうニュアンスで伝えればいいかと言葉を選びながら語ってくれた。彼らはラフなんですよね。H2曹は考え、考え話してくれた。外国軍は大きな危険に関係しないようなものは気にしない。汚れていても、要(よう)はヘリというのは飛べればいいんだ。そういう、それぞれの国の軍人たちの、自分の仕事に向かう姿勢の違いなんだと納得できた。自分たち日本の自衛官の整備は、やっぱり完璧を目指すというか、徹底しないと気がすまない。整備に関しては世界一なんだと胸を張れる気持ちになったという。いいヘリを外国軍は持っていたという。シンガポール軍のCHチヌークはアメリカから買ったらしい。自分たちのものより、電子化が進んだ機体だった。でも、せっかくの優れた装備が泣くような汚さだった。古い機材であっても、わがチヌークはピカピカだった。整備員の仕事に向ける熱意がある。それに応えるパイロットの気持ちと腕があった。頼もしいエンジン音を響かせて、日の丸CHは救援物資を積んでスマトラの空を飛んだ。

▼バートルに憧れて陸自航空へ
高校2年の時だった。霞ヶ浦飛行場で、バートルを見た。機体の前と後に2つのローター(回転翼)を持っていた。力強いエンジン音、大きな荷物を軽々と運ぶ姿を見た。しびれるような感動だった。あ、あれを整備できたらいいな。あの動きを支えているのは、機付長をはじめとした整備員なんだ。あの仕事につこう。陸自の航空部隊は、回転翼機(ヘリコプター)と固定翼機(ふつうの飛行機)を持っている。ヘリには、輸送用のCH、多用途のUH、観測・偵察のOH、それに対戦車攻撃用のAHと4種類がある。バートルというのは、現在のCH-47チヌークが導入される前の輸送用ヘリV-107の愛称だった。アメリカ軍はヘリの愛称には、アメリカ先住民の部族の名前を付けた。チヌークという呼び方で知られるCH-47は1961年に原型機が初飛行をした。自衛隊がJ型の導入を始めたのは1984年からであり、1995年からは性能向上型のJAが配備されるようになった。大型の燃料タンクを増設して、航続距離も1000キロメートルをこえた。
搭乗員は操縦士と副操縦士が乗り組む。それに機上整備員が1名もしくは2名が加わる。全長30メートル、胴体の長さはおよそ15メートル、幅は5メートル近い。最大整備重量はおよそ23トン、ローターの直径は18メートルをこえている。乗客も55名を乗せられる。完全武装の空挺隊員や、野戦りゅう弾砲、高機動車なども運べる。山林火災では水を満載したバケットをつり下げて、現場と川や湖沼を往復する。飛びながらバケットで水をすくう。火事の真上で、放水というより、水をぶちまけて消火活動を行なうこともできる。
H2曹は、1973年の早生まれである。平成の初め、神奈川県横須賀市武山の第1教育団に一般2士として入った。新隊員前期課程をおえて、希望がとおって航空科に決まる。栃木県宇都宮で後期教育を受けた。宇都宮駐屯地には、陸自航空学校(本部:三重県明野)の分校がある。ここでは整備の勉強をすることができた。卒業後に、千葉県木更津の第1ヘリコプター団に配属された。
「どの種類のヘリの整備ができるかは部隊で決まります。OH、UHでコースが分かれますが、私は陸士のときには補給所にいまして、バートルに親しみました」飛行時間が5500時間をこえると、ヘリは飛ばしてはいけなくなる。用廃機といって地上で保管して補給所に置き、現役の機体の交換部品を取るようにする。陸曹に昇任することになった。御殿場市の第3陸曹教育隊で共通教育を受けた後、航空学校霞ヶ浦分校でCHの整備課程を履修(りしゅう)した。その後、東京都十条にある補給統制本部の航空部に勤務する。UH-1J多用途ヘリコプターのマニュアルや整備関係の書類の作成などにあたった。木更津の第1ヘリコプター団にもどって、CHの整備にたずさわったのは3年ぶりだった。機上整備員になるためには2年間、地上で整備員をする経験がなくてはならない。防衛省の技能証明が必要だからだ。 「飛行中は地上監視や、周辺の警戒、見張りをしています。積み荷のバランスを計算したり、固定して縛着(ばくちゃく=しばって動かないようにすること)したりする。また、後部にも油圧などの計器があり、操縦席では副操縦士の後に席もあります」

▼80キログラムのテント
現地の人々は、実際に会ってみると、予想とちがって大変明るく陽気だった。被災地の様子は、これもまた想像をこえた悲惨な状況である。それまで知っていた自然災害の広さとは桁違いに大きくもあった。援助に行ったはずの自分たちが落ち込んでしまいそうになるような圧倒的な破壊の跡だった。「現地の人たちは、それでも明るいのです。もともと良い暮らしをしていたわけではなかったのでしょうが、それが地震と大津波といった災害にあった。ふつうなら気持ちも落ち込んで、茫然(ぼうぜん)としているというのが普通だと思うのですが」みんなが頑張っている。人が、人間が頑張っているという印象を受けたという。希望を失っていない。生きていく元になるのは、この明るさと逞(たくま)しさなんだろうかとH2曹は思った。
飛行場の隅に、いつまでも片づかない物があった。1セット80キロぐらいの重さがある大型テントだった。頑丈なキャンバス地の袋に入って、大きな棒のようになっている。それが120個、どこの国も運ぼうとしないので放置されていた。その重量や、全体の大きさを考えると、CHでなくては運べない。誰もやらないなら、俺たち日本隊で運ぼうじゃないかという声があがった。当初は一人で抱えて運んだ。集積場所からチヌークの中へ、えっちらおっちらと運んでみた。たいへんきつい。うわっ、腰が痛くなったという隊員も出た。結局、最後は4人で1個を運ぶようになった。 「整備員も、パイロットも、地上勤務の人たちも、佐官も尉官も、陸曹も陸士も、みんなでテントにとりついて、わっせわっせと運びました」腰をいためた佐官もいたという。炎天下、40度を超えるような気温の中、日本隊だけがテントを運んだ。幹部も陸曹も陸士もない。みんなで心を一つにして重いテントを運び続けた。終わったときには、さすがの自衛官たちも、すっかり放心状態になったらしい。みんなで運んだ。階級による区別が厳しい外国の軍隊では見られないケースの一つだろう。

▼若者たちへ
H2曹の飛行時間は700から800時間くらい。中堅の機上整備員であり、後輩が育っている年ごろである。「なんでも聞いて、たずねてくればいいというものじゃない。これ何ですか、どうすればいいですか、指示を仰ぐためにだけ聞いてくるような、そんな若者は伸びない」とH2曹は断言する。知識を豊富にすることは大切だし、どんなことにも信念をもってあたる。その場しのぎの仕事をしてはいけないという。「マニュアルを見て、ここにはこう書いてありますが、自分はこういう解釈をしています。これでいいでしょうか。あるいは、こう考えていいでしょうか。そういう前向きな若い人は伸びていきますね」聞いてこいよ、何か分からないことがあったら、いつでも持ってこいよと周囲には言っているという。落ち着いたじっくりとした話し方をする人である。こちらの質問に答えるときにも、言葉を選び終えるまで、かるがるとは口を開かない話し方をする。あの大きなヘリの中には、2人の操士と、こうした人が乗っている。
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