「日本中央」もう一つの日本国"BANDOY" | 日本のお姉さん

「日本中央」もう一つの日本国"BANDOY"

帝国電網省 ▽▼ by 竹下義朗さん
☆ 「日本中央」もう一つの日本国"BANDOY" 2008/07/25
原著 1998/09/21
皆さんは「東北」というとどんなイメージをお持ちでしょうか? 寒さが厳しい・集団就職・我慢強い・・・等々、演歌に代表されるマイナスイメージのほうが強いのではないでしょうか?ーーー現実は住めば都の通り、決して北国は住み難い土地ではないのですが・・・

それは私達現代日本人が「東北」についてあまりにも「知らなさすぎる」からなのです。何故かというと、現在、義務教育で教えられている日本史が、主として西日本偏重で、ことに東北・北海道等、北日本についての記述がほとんどないことが原因なのです。

という訳で、今回は私達が知らない東北史について書いてみたいと思います。

「日本[ひのもと]中央」

青森県上北郡東北町に、こう刻まれた古代の石碑-通称「都母の石碑=つものいしぶみ」があります。平安時代(801年)、朝廷(日本国)の命で現津軽地方に軍事侵攻した征夷大将軍・坂上田村麻呂[さかのうえのたむらまろ]が津軽軍に大敗。

講和した際、都母という地で弓の矢筈で、高さ1.5mの石に刻んだものといわれている、曰く付きの石碑です。

さてここで問題です。何故本州の最果て、当時の朝廷からすれば辺境でしかない津軽が「日本中央」なのか?

ここに、もう一つの「日本国」の歴史があったのです!!

もう一つの「日本国」があった!!そう、それは近世まで東北の地に紛れもなく実在していたのです。そしてその証拠の一つが、1562年、ベリユによって作成された世界地図です。

この地図で日本は「IAPAM(JAPAN)」の名で描かれているのですが、よく見ると津軽地方の南に境界線が引かれており、境界線の北には「BANDOY(安東国)」と記されています。さてこの「BANDOY」とは何なのか?

答からいうと、これこそもう一つの「日本国」だったのです。ーーーつまり境界線は「国境線」だったわけで「BANDOY」は「IAPAM」とは別の独立国として当時のヨーロッパ人に認識されていた証拠といえるのです。

では「BANDOY」の実体とは何だったのか? それを知るには時間を数千年前に戻さなければなりません。

神武東征。ーーー戦前の歴史(日本史)教育を受けた方なら必ずといっても良い程ご存じだと思いますが、戦後世代にはほとんど馴染みのない言葉だと思います。しかし、これこそ「BANDOY」の歴史の始まりだったのです。

大和国(奈良県)で初代天皇となった神武天皇(以下神武と略)ですが、最初から大和にいた訳ではありません。彼の故郷は日向国(宮崎県)とされています。

その九州から山陽地方(瀬戸内海沿岸)を経て大和国へと遷り、初代天皇に即位(紀元前660年)したというのですが、この時、大和国には一人の強大な王がいました。その名を「長髄彦[ナガスネヒコ]」といいます。

つまり、長髄彦にとって神武は、自分達の国を征服しにやって来た侵略者でしかなかったわけで、彼は大和国へ侵入してきた神武に対して徹底抗戦をしました。最終的には神武の勝利に終わり、長髄彦は日本史上最初の「朝敵」とされ滅ぼされた・・・

と「正史(古事記・日本書紀等)」ではされているのですが、なんと長髄彦は滅ぼされてはいなかったのです。彼は神武軍に敗退し大和国を放棄すると、その足で北へと向かったのです。

神武に敗れた長髄彦が亡命した地こそ、後世「BANDOY」としてヨーロッパにまで名を轟かせることになる国-古代津軽だったのです。当時の津軽には、既にアソベ王朝(17代)・ツボケ王朝(29代)と続く古代王国がありました。この王国に長髄彦は、一族共々亡命共存したのです。

そしていつしか、アソベ族・ツボケ族・長髄彦一族は混血し、新たに「荒吐族(アラハバキ族)」となり、王位も長髄彦の一族が継承することとなりました。

さて、長髄彦一族を加え強大となった「荒吐王国」ですが、幾度となく大和へと侵攻し、崇神帝即位まで次々に荒吐系の天皇を擁立したのです。「孝○」の諸帝と開化帝。

そして長髄彦の子孫は連綿と続き、前九年の役(1051~1062)で源(八幡太郎)義家に滅ぼされた安倍氏、ーーー後三年の役(1083~1087)で古代東北に覇権を築いた奥州藤原氏=安倍氏の血を汲む)を輩出したのです。

   古代から近世まで連綿と続く「東北王朝」の血脈

アソベ族───┐
       │
      ツボケ族───┐
             │
        長髄彦──安倍氏─┬─安東氏─秋田氏
                      │
                      ├─奥州藤原氏
                      │
                 羽州清原氏┘

さて「BANDOY」に話を戻しましょう。安倍氏(頼時・貞任父子)は源義家によって滅ぼされたと書きました。しかし安倍氏もまた長髄彦同様、決して滅び去ってはいなかったのです。

棟梁・安倍貞任[さだとう]は戦死しましたが、嫡男・高星丸[たかあきまる]は密かに宮城から津軽十三湊[とさみなと]=現・十三湖)へと逃れ、安東氏として復活したのです。

安東氏。この一族こそ「津軽の王」であり、その所領こそ「BANDOY(安東国)」だったのです。当時の有力氏族が互いの所領拡大に力を注いでいた時、安東氏は十三湊を「首都」に、中国・朝鮮・沿海州から東南アジア・アラビア、遠くヨーロッパとまで交易し、莫大な収益を上げていました。

当時の十三湊は、「津軽三千坊」と呼ばれる程多くの神社仏閣が建ち並び、港には中国人は元より、インド人・アラビア人・ヨーロッパ人等が、多数の異人館を営み、さながら幕末の横浜の様相を呈していました。また港には日本全国から常に200隻以上の商船が停泊し、ヨーロッパ人の為にカトリック教会ま
で建っていました。

更に安東氏は、日本海を隔てた沿海州の至る処に「安東浦(租界)」や「安東館(領事館)」を持ち、樺太・千島列島・カムチャツカ半島まで「領土」として支配していました。しかしその栄華も、興国2(1341)年、終焉を迎えます。

十三湊を、余波を含め18回にも及ぶ大津波が襲ったのです。

その被害は、犠牲者12万人・埋没家屋3200戸・牛馬5000頭・流失米6万俵・沈没船270隻・埋没田600町(595ヘクタール)・埋沈黄金30万貫(1125トン)・埋没神社仏閣270棟を数え、二度と往時の栄華を取り戻すことはなかったのです。

ーーー現在、十三湊は十三湖と呼ばれ、静かに佇んでいます。

さて最後に、冒頭でも紹介した「日本中央」の謎を解いてみましょう。

その為には、当時(奈良・平安時代)の「領土観」を知る必要があります。その資料として、宮城県多賀城市高崎にかつてあった朝廷の東北における軍事拠点多賀城跡に残されている、高さ2m・幅94cmの石碑「多賀城碑」を見てみましょう。

(天平年間建立)多賀城碑--この石碑の文は右から左へ読む

        ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
        ┃         西         ┃
        ┃ ―――――――――――――――― ┃
        ┃                  ┃
        ┃   将 節 也 軍 此    多    ┃
        ┃   軍 度 天 從 城         ┃
        ┃   藤 使 平 四 神    賀    ┃
        ┃   原 從 寶 位 龜         ┃
        ┃   恵 四 字 上 元    城    ┃
        ┃   美 位 六 勲 年         ┃
        ┃   朝 上 年 四 歳         ┃
        ┃ 天 臣 仁 歳 等 次 去 去 去 去 去 ┃
        ┃ 平 朝 部 次 大 甲 靺 下 常 蝦 京 ┃
        ┃ 寶 ○ 省 壬 野 子 鞨 野 陸 夷 一 ┃
        ┃ 字 ○ ○ 寅 朝 按 国 国 国 国 千 ┃
        ┃ 六 造 ○ 恭 臣 察 界 界 界 界 五 ┃
        ┃ 年 也 按 誠 東 使 三 二 四 一 百 ┃
        ┃ 十  察 東 人 ○ 千 百 百 百 里 ┃
        ┃ 二  使 海 之 鎮 里 七 十 廿   ┃
        ┃ 月  鎮 東 所 守  十 二 里   ┃
        ┃ 一  守 山 ○ 将  四 里    ┃
        ┃ 日          里      ┃
        ┃                  ┃
        ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
この中に、

「多賀城は京(平城京)を去ること1500里。蝦夷国[えぞ]=現・青森県及び岩手県北部)の国界[くにざかい]迄120里。常陸国[ひたち]=現・茨城県)の国界迄412里。下野国[しもつけ]=現・栃木県及び福島県白河市周辺)の国界迄274里。そして靺鞨国[まっかつ]=満州)の国界迄3000里なり」

とあります。この中で特に目に付くのが「靺鞨国」です。

靺鞨国(この場合は黒龍江流域の黒水靺鞨?)の名がなぜ登場するのでしょう?
考えられるのは只一つ。朝廷(日本国)が「BANDOY(津軽=安東国)」をとおして靺鞨国の存在を知っていたからではないでしょうか。

後世、安東氏の時代でさえ、樺太・千島列島・カムチャツカ半島を「領土」として支配したぐらいです。だとすれば、天平年間の「BANDOY」が靺鞨国と既に国交をもっていたとしても何ら不思議ではありません。

そして「都母の碑」の謎。

もし、当時の朝廷が蝦夷地(現・北海道)を越え、より北方=樺太や千島列島まで領土観の中に入れていたとしたら、津軽は距離的にも正に「日本中央」となり得るのです。

ーーー余談(つれづれ)

栄耀栄華を誇った北の王者・奥州藤原氏(以下「藤原氏」と略)。

4代泰衡の時、源頼朝によって滅ぼされた訳ですが、不思議なことに、藤原氏を滅ぼし奥羽(東北)を征服したにも関わらず、鎌倉幕府の産金量は飛躍的に増えていないのです。

平安時代、文字通り「湯水」のように黄金を使って中尊寺金色堂に代表される絢爛豪華な建物を数多く建立し、外国から仏典や陶磁器、はては象牙に至るまで、ありとあらゆる文物を輸入した割には、滅亡後その黄金が幕府に相続された節がありません。

また、東北地方の金山の全産出量をしても、藤原氏の消費量を補えない事実。

しかし、

もし、藤原氏の黄金が「国産」だけではなく「海外産」も含めてだとしたら、

安東氏と血縁関係にあった藤原氏が、安東氏の協力を得て大陸=シベリアの資源開発を経営していたとしたら・・・藤原氏滅亡後、幕府が莫大な黄金を継承できなかった謎も説明がつくのです。