社会性ゆえに追い詰められた社会成員が、反社会的な逸脱行動に及ぶケース1
公共機関のために準備中の文章です。誤りのご指摘やご意見をお待ちします。第1部
◯宮台真司さんの記事。↓
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=652
■近年「ニート」(NEET、not in education, employment and training、学生でないのに就業せず職業訓練も受けない成人)という英国政府が用い始めた言葉によって、我が国でも若者が社会性を失う現象--非社会性--が名指され、社会問題になっている。国レベルでも自治体レベルでも、政治や行政が「ニート対策」に取り組み始めている。
■だが、我が国における問題化のされ方と他国のそれとはかなり異なる。我が国では「自立」できない若者への「自立支援」という問題の立て方が専らだが、「ニート」という言葉を生み出した英国では、「個人の不全」personal imperfectionの問題より「社会の不全」social imperfectionの問題として議論され、各国の政策に大きな影響を与えてきた。
■ニート概念は、英国政府の社会的排除局の報告書『ギャップを埋める:教育・雇用・職業訓練に参加しない16-18歳の若者に対する新しい機会』の題名に由来する。社会的排除局はブレア政権発足直後97年に設置されたが、自治体レベルでは以前から社会的排除対策が議論されてきたものだ(サウスグラモーガン州職業訓練企業会議の94年報告書なと)。
■社会的排除social exclusionの概念自体は、フランスのルネ・ルノアールの著書『排除』(1974年)で初登場するが、今日では社会的排除の解消は欧州各国政府の共通政策となっており、97年のEU基本条約(アムステルダム条約)や2000年のニース条約に政策的重要性がすでに明記されている。後述する通り、日本ではこのことが殆ど理解されていない。
■社会的排除局の報告書によれば、働く気も訓練を受ける気も教育を受ける気もなくにブラブラする若者は、貧困の悪循環をもたらす社会的排除の結果だ。これを解消せずして積極的是正措置などで動機づけ支援を打ち出しても、効果が乏しい。貧困の悪循環とは、動機づけが乏しいので貧しくなり、貧しい育ちなので動機づけが乏しくなることを言う。
■かくして報告書は、悪循環を解消するには社会的包摂social inclusionの回復こそが必要だと結論づける。一口でいえば、「個人に問題が生じているので政治や行政が個人を支援せよ」ではなく、「個人に問題が生じているのは、社会的包摂が失われているのが原因だから、社会が包摂性を回復できるように政治や行政が支援せよ」という図式なのである。
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■日本でニート概念が誤解され、「社会の問題」というより「若者の問題」として理解された背景に、二つの要因を指摘できよう。第一は、日本においてはニート問題が議論される直前まで、フリーター問題がいわば「怠業批判」として議論されていたこと。第二は、「近代社会として望ましい社会の在り方」という観念が我が国に乏しいことである。
■英国がニートを問題化した背景には、新自由主義政策で知られるサッチャー政権の時代から人口に膾炙した「能動的市民社会性」active citizenshipの概念がある。今日のグローバル化をもたらした市場原理主義の、元凶として批判されがちな新自由主義だが、新自由主義はそもそも市場原理主義では全くない。能動的市民社会性の概念を軸に説明しよう。
■今日の欧州では、能動的市民社会性が社会的包摂と表裏一体だと解される。加えて、グローバル化の副作用を中和するには社会的包摂が不可欠だとも解される。新自由主義者の提起した能動的市民社会性は、社会的排除解消=社会的包摂がEUの共通理念である事実に象徴される通り、グローバル化時代における最も重要な政策理念の一つとなっている。
■能動的市民社会性の概念は、サッチャー政権とメイジャー政権で大臣を歴任した保守党のダグラス・ハードが、第3次サッチャー政権で内相を務めた際に提起する。政府外で活動する地域・家族・結社の相互扶助を「国家からの社会の自立」として擁護したものだ。サッチャー首相によって性別役割分業の擁護などと重ねられて、誤解されがちになった。
■ハードは能動的市民社会性を「過保護国家」nanny stateと対比する。これは第一に、財政を圧迫する福祉国家体制を批判して「小さな政府」を推奨し、第二に、能動的市民社会性をビクトリア朝的なボランタリズムに遡る社会的相続財産だと見做すものだ。日本で新自由主義というと専ら前者が注目されるだが、偏った理解だろう。
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■能動的市民社会性の概念は、労働党に近い政治思想家デビッド・グリーンや保守党に近い政治思想家バーナード・クリックらによって彫琢され、労働党ブレア政権下のブレインを勤めた社会学者アンソニー・ギデンズにおいても中核的な政策目標に据えられた。能動的市民社会性への動機形成と期待形成を支えることこそが政治の役割だというのである。
■就任後の所信表明演説でブレア首相が「一に教育、二に教育、三に教育」と述べたのは有名だ。これは「社会を国家に依存させるのでなく、逆に社会を国家から自立させるためにこそ、国家が社会を支援する」という政策目標を噛み砕いたものだ。こうした政策目標を、ギデンズが「社会投資国家」social investiment stateという言葉で表現している。
■ここにはグローバル化の下では国家が社会を支えない限り社会が空洞化するとの問題意識がある。これはEUの基本理念「補完性原理」the principle of subsediarityに合致する。大切なのは社会で、国家は社会を補完する装置だとする観念だ。ここに、グローバル化に耐える厚みのある社会を支えることが政治や行政の機能だとする共通の見識がある。
■ブレア政権下で社会的排除局がニート対策を打ち出したのも、能動的市民社会性の維持・回復にこそ主眼がある。家族・地域・結社など社会の相互扶助メカニズムからこぼれ落ちた者が、そのことで社会の相互扶助メカニズムに能動的に関わる動機づけを持たず、それゆえ社会の相互扶助メカニズムがますます空洞化するという「悪循環」に照準する。
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■我が国の「ニート対策」を見ると、国レベル・自治体レベルの双方ともこうした問題意識に乏しい。それは「自立支援」という言葉に象徴される。若者が個人として経済的に自立できればそれで良いか。経済的に自立した若者が、自立したがゆえに社会的な相互扶助を軽視するなら、社会は分厚さを失い、個人がグローバル化に直接に晒されがちになる。
■国家予算80兆円のうち、20兆円が利払いを含めた借金返済、20兆円が自治体への配分、20兆円が社会保障費に充てられる。残り20兆円で、教育、防衛、公共事業を、人件費を含めて賄う。だが税収は40兆円。毎年40兆円の借金が増える。グローバル化の下で個人が酷薄な環境に晒される事態が増えても、福祉国家体制や公共事業体制に戻れない。
■福祉国家体制の時代に比した「小さな政府」は、グローバル化によって、単なる一イデオロギーであることを越えて、中長期的には選択の余地のない現実となった。困窮した個人を政治や行政が直接助けることは、短期の緊急避難的措置として当然だが、中長期的には、個人が社会に包摂されることにで困窮しないで済むような社会投資こそが不可欠だ。
■ニート問題へのかかる理解は、単に先進国の標準であるに留まらず、福祉国家体制によって始まりグローバル化によって加速された「社会の空洞化=社会的包摂の崩壊」に、政治や行政として如何に対処すべきか、という政策課題に結びついている。本質的な問題は、個人の自立ではなく、社会の自立を、政治や行政が如何に支援できるか、なのだ。
◯
■英国の社会的排除局が着目した「ニート」も含めて、「従来の社会システムが明に暗に前提としてきた社会性を、社会成員が持っていない事態」を、「非社会性」non-socialityという言葉で指し示すことにしよう。加えて、社会成員がそうした状態に立ちいたる過程を、「脱社会化」de-socializationという言葉で指し示すことにしよう。
■社会システムが前提とする社会性を社会成員が持たない事態は多様な仕方で現れる。働く意欲を持たない現象。就職しても短期離職が膨大な割合に及ぶ現象。家族外で社会関係を構築できない現象。長期の性愛関係や友人関係を構築しにくい現象。社会関係の維持に不可欠な感情の制御ができない現象。社会関係の維持に不可欠な感情が働かない現象…。
■非社会性を示す各種の現象の共通項は「反社会性」anti-socialityという概念との対比で明らかになる。反社会的な犯罪が社会への怨念や敵意を背景にすると解されるのに対し、非社会的な犯罪はそうした感情を背景せず、「動機不可解な犯罪」として現れる。80年代以降の先進国で「人格障害」の概念が受容されたのも、そうした犯罪の拡がりが背景だ。
■人格障害とは、精神障害(心の病気)でも発達障害(脳障害)でもないのに周囲や本人がまともな社会生活を送れないと訴えるケースに適用されるカテゴリーである。かつて性格異常と呼ばれていたケースに重なる。ただし「まともな性格」と「異常な性格」を先験的に分けることはできない。「何がまともか」は時代や文化ごとに変動するからである。
■むしろ非社会性の問題は以下のように解される。社会成員には、連続的な肉体的年齢とは別に、不連続な社会的年齢があてがわれる。乳児期、幼児期、学童期、青少年期といった区別がそうである。社会的年齢を同じくする者には、それなりに均質な社会的期待がなされ、おおむね社会的期待に見合う社会成員が育ち上がることが通常的な事態であった。
■だが福祉国家体制化やグローバル化を背景として(具体的には後述の「2段階の郊外化」を経て)、地域や家族や結社(会社を含む)の相互扶助メカニズムの崩壊(後述の〈生活世界〉の空洞化)により、社会成員の心理的発達に大きな個人差が生じ始めたのである。その結果、年齢に応じた社会的期待に応えられない子供や若者が増えたのだろう。
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■フロイトやエリクソン以来、人間のパーソナリティ(性格傾向の組合せ)が段階的に発達することは通説となった。加えてピアジェやコールバーグの発達的構造化仮説以降、現段階から次の段階に進むためには現段階での欲求や課題が概ね満たされる必要があることも通説化した。およそ社会は成育環境を通じて欲求満足や課題満足を与えてきている。
■だが社会の相互扶助メカニズムが空洞化すると、かかる欲求満足や課題満足を与える成育環境が保証されなくなる。すると肉体的・社会的年齢が同じでも心理的年齢がばらばらの子供や若者が育ち上がらざるを得ない。にもかかわらず、現行では肉体的・社会的年齢に照準するばかりで、心理的年齢--発達的構造化段階--に応じた育児や教育が不足する。
■その結果、「社会化の不全」imperfection of socializationが蔓延する。社会化とは何か。非社会性や脱社会化という概念のベースにもなっている社会化の概念は、1930年代に社会学者タルコット・パーソンズによって提唱された。彼は大恐慌の混乱を目撃したことが契機で、人間が社会的存在になるには一定の条件が必要だと見做すようになった。
■社会の秩序は如何にして可能か。ゲバルトへの恐れ(への期待)による秩序維持を答えとするホッブズ的秩序と、人々に宿る内発性(への期待)による秩序維持を答えとするロック的秩序があるとパーソンズは考える。だが、人間が生まれつき社会的だとするロックの議論は科学的に却けられざるを得ない。ならば、内発性を社会が埋め込むしかない。
■同時代の教育学者ジョン・デューイは、内発性を埋め込む営みが「教育」だとした。だが社会学者パーソンズは、そうした「教育」を試みる教員や親の存在を含めた成育環境の全体が、社会成員に内発性を埋め込むのだと考えた。それが、彼の「価値の内面化としての社会化」socializaton as internalization of valuesという中核的概念の意味である。
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■価値や規範の伝達を試みる道徳教育が推奨されるのではない。そうした道徳教師の存在を含めた多要素から成り立つ社会環境の全体が、感情や意志の働きを方向づける事態が注目されている。こうした議論を踏まえて、デューイの後継者を自称するリチャード・ローティは、そうした方向づけの全体を「感情教育」sentimental educationと呼んでいる。
■ローティは、民主制を健全に機能させるには、誰を「仲間」だと感じられるかを巡る感情教育が不可欠だと見做す。先に紹介した社会学者ギデンズも、社会成員の感情に左右されがちな民主政治を健全化するには「感情の民主化」--非社会的な存在として育ち上がらないこと--が必要だと見做す。同種の議論が学問の最前線では90年代以降目立ち始める。
■これは先に紹介したパーソンズに似る。パーソンズによれば、かつては社会に感情教育を含めた社会化の機能が内蔵されると信じられたので、国家の介入は最小限にして社会に任せよというリバタリニズム(自由至上主義)やアナキズム(無政府主義)があり得た。だが大恐慌が示すのは、もはやそういう時代ではなくなったということだということだ。
■だから彼は、いわゆる「教育」を越え、社会環境の全体を大規模に作り変えることを企図するニューディール政策を支持した。それゆえに彼の議論は全体主義的だと批判された。ところが、90年代以降の政治思想や、現実のEU的な政治理念の流れは、「社会を放っておけば包摂性を失う」との危機意識において、大恐慌後のパーソンズと響き合う。
■ただし全体主義的なパーソンズや福祉国家体制を築いたニューディーラーへの反省もあって、「社会が社会らしくあるために国家が投資する」「国家が社会を支援するのは社会が国家から自立するため」といった社会投資国家の観念や、「民主主義の目的は合意ではなく合意への異議申立てだ」とするラディカルデモクラシーの観念が拡がった。
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■近年「ニート」(NEET、not in education, employment and training、学生でないのに就業せず職業訓練も受けない成人)という英国政府が用い始めた言葉によって、我が国でも若者が社会性を失う現象--非社会性--が名指され、社会問題になっている。国レベルでも自治体レベルでも、政治や行政が「ニート対策」に取り組み始めている。
■だが、我が国における問題化のされ方と他国のそれとはかなり異なる。我が国では「自立」できない若者への「自立支援」という問題の立て方が専らだが、「ニート」という言葉を生み出した英国では、「個人の不全」personal imperfectionの問題より「社会の不全」social imperfectionの問題として議論され、各国の政策に大きな影響を与えてきた。
■ニート概念は、英国政府の社会的排除局の報告書『ギャップを埋める:教育・雇用・職業訓練に参加しない16-18歳の若者に対する新しい機会』の題名に由来する。社会的排除局はブレア政権発足直後97年に設置されたが、自治体レベルでは以前から社会的排除対策が議論されてきたものだ(サウスグラモーガン州職業訓練企業会議の94年報告書なと)。
■社会的排除social exclusionの概念自体は、フランスのルネ・ルノアールの著書『排除』(1974年)で初登場するが、今日では社会的排除の解消は欧州各国政府の共通政策となっており、97年のEU基本条約(アムステルダム条約)や2000年のニース条約に政策的重要性がすでに明記されている。後述する通り、日本ではこのことが殆ど理解されていない。
■社会的排除局の報告書によれば、働く気も訓練を受ける気も教育を受ける気もなくにブラブラする若者は、貧困の悪循環をもたらす社会的排除の結果だ。これを解消せずして積極的是正措置などで動機づけ支援を打ち出しても、効果が乏しい。貧困の悪循環とは、動機づけが乏しいので貧しくなり、貧しい育ちなので動機づけが乏しくなることを言う。
■かくして報告書は、悪循環を解消するには社会的包摂social inclusionの回復こそが必要だと結論づける。一口でいえば、「個人に問題が生じているので政治や行政が個人を支援せよ」ではなく、「個人に問題が生じているのは、社会的包摂が失われているのが原因だから、社会が包摂性を回復できるように政治や行政が支援せよ」という図式なのである。
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■日本でニート概念が誤解され、「社会の問題」というより「若者の問題」として理解された背景に、二つの要因を指摘できよう。第一は、日本においてはニート問題が議論される直前まで、フリーター問題がいわば「怠業批判」として議論されていたこと。第二は、「近代社会として望ましい社会の在り方」という観念が我が国に乏しいことである。
■英国がニートを問題化した背景には、新自由主義政策で知られるサッチャー政権の時代から人口に膾炙した「能動的市民社会性」active citizenshipの概念がある。今日のグローバル化をもたらした市場原理主義の、元凶として批判されがちな新自由主義だが、新自由主義はそもそも市場原理主義では全くない。能動的市民社会性の概念を軸に説明しよう。
■今日の欧州では、能動的市民社会性が社会的包摂と表裏一体だと解される。加えて、グローバル化の副作用を中和するには社会的包摂が不可欠だとも解される。新自由主義者の提起した能動的市民社会性は、社会的排除解消=社会的包摂がEUの共通理念である事実に象徴される通り、グローバル化時代における最も重要な政策理念の一つとなっている。
■能動的市民社会性の概念は、サッチャー政権とメイジャー政権で大臣を歴任した保守党のダグラス・ハードが、第3次サッチャー政権で内相を務めた際に提起する。政府外で活動する地域・家族・結社の相互扶助を「国家からの社会の自立」として擁護したものだ。サッチャー首相によって性別役割分業の擁護などと重ねられて、誤解されがちになった。
■ハードは能動的市民社会性を「過保護国家」nanny stateと対比する。これは第一に、財政を圧迫する福祉国家体制を批判して「小さな政府」を推奨し、第二に、能動的市民社会性をビクトリア朝的なボランタリズムに遡る社会的相続財産だと見做すものだ。日本で新自由主義というと専ら前者が注目されるだが、偏った理解だろう。
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■能動的市民社会性の概念は、労働党に近い政治思想家デビッド・グリーンや保守党に近い政治思想家バーナード・クリックらによって彫琢され、労働党ブレア政権下のブレインを勤めた社会学者アンソニー・ギデンズにおいても中核的な政策目標に据えられた。能動的市民社会性への動機形成と期待形成を支えることこそが政治の役割だというのである。
■就任後の所信表明演説でブレア首相が「一に教育、二に教育、三に教育」と述べたのは有名だ。これは「社会を国家に依存させるのでなく、逆に社会を国家から自立させるためにこそ、国家が社会を支援する」という政策目標を噛み砕いたものだ。こうした政策目標を、ギデンズが「社会投資国家」social investiment stateという言葉で表現している。
■ここにはグローバル化の下では国家が社会を支えない限り社会が空洞化するとの問題意識がある。これはEUの基本理念「補完性原理」the principle of subsediarityに合致する。大切なのは社会で、国家は社会を補完する装置だとする観念だ。ここに、グローバル化に耐える厚みのある社会を支えることが政治や行政の機能だとする共通の見識がある。
■ブレア政権下で社会的排除局がニート対策を打ち出したのも、能動的市民社会性の維持・回復にこそ主眼がある。家族・地域・結社など社会の相互扶助メカニズムからこぼれ落ちた者が、そのことで社会の相互扶助メカニズムに能動的に関わる動機づけを持たず、それゆえ社会の相互扶助メカニズムがますます空洞化するという「悪循環」に照準する。
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■我が国の「ニート対策」を見ると、国レベル・自治体レベルの双方ともこうした問題意識に乏しい。それは「自立支援」という言葉に象徴される。若者が個人として経済的に自立できればそれで良いか。経済的に自立した若者が、自立したがゆえに社会的な相互扶助を軽視するなら、社会は分厚さを失い、個人がグローバル化に直接に晒されがちになる。
■国家予算80兆円のうち、20兆円が利払いを含めた借金返済、20兆円が自治体への配分、20兆円が社会保障費に充てられる。残り20兆円で、教育、防衛、公共事業を、人件費を含めて賄う。だが税収は40兆円。毎年40兆円の借金が増える。グローバル化の下で個人が酷薄な環境に晒される事態が増えても、福祉国家体制や公共事業体制に戻れない。
■福祉国家体制の時代に比した「小さな政府」は、グローバル化によって、単なる一イデオロギーであることを越えて、中長期的には選択の余地のない現実となった。困窮した個人を政治や行政が直接助けることは、短期の緊急避難的措置として当然だが、中長期的には、個人が社会に包摂されることにで困窮しないで済むような社会投資こそが不可欠だ。
■ニート問題へのかかる理解は、単に先進国の標準であるに留まらず、福祉国家体制によって始まりグローバル化によって加速された「社会の空洞化=社会的包摂の崩壊」に、政治や行政として如何に対処すべきか、という政策課題に結びついている。本質的な問題は、個人の自立ではなく、社会の自立を、政治や行政が如何に支援できるか、なのだ。
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■英国の社会的排除局が着目した「ニート」も含めて、「従来の社会システムが明に暗に前提としてきた社会性を、社会成員が持っていない事態」を、「非社会性」non-socialityという言葉で指し示すことにしよう。加えて、社会成員がそうした状態に立ちいたる過程を、「脱社会化」de-socializationという言葉で指し示すことにしよう。
■社会システムが前提とする社会性を社会成員が持たない事態は多様な仕方で現れる。働く意欲を持たない現象。就職しても短期離職が膨大な割合に及ぶ現象。家族外で社会関係を構築できない現象。長期の性愛関係や友人関係を構築しにくい現象。社会関係の維持に不可欠な感情の制御ができない現象。社会関係の維持に不可欠な感情が働かない現象…。
■非社会性を示す各種の現象の共通項は「反社会性」anti-socialityという概念との対比で明らかになる。反社会的な犯罪が社会への怨念や敵意を背景にすると解されるのに対し、非社会的な犯罪はそうした感情を背景せず、「動機不可解な犯罪」として現れる。80年代以降の先進国で「人格障害」の概念が受容されたのも、そうした犯罪の拡がりが背景だ。
■人格障害とは、精神障害(心の病気)でも発達障害(脳障害)でもないのに周囲や本人がまともな社会生活を送れないと訴えるケースに適用されるカテゴリーである。かつて性格異常と呼ばれていたケースに重なる。ただし「まともな性格」と「異常な性格」を先験的に分けることはできない。「何がまともか」は時代や文化ごとに変動するからである。
■むしろ非社会性の問題は以下のように解される。社会成員には、連続的な肉体的年齢とは別に、不連続な社会的年齢があてがわれる。乳児期、幼児期、学童期、青少年期といった区別がそうである。社会的年齢を同じくする者には、それなりに均質な社会的期待がなされ、おおむね社会的期待に見合う社会成員が育ち上がることが通常的な事態であった。
■だが福祉国家体制化やグローバル化を背景として(具体的には後述の「2段階の郊外化」を経て)、地域や家族や結社(会社を含む)の相互扶助メカニズムの崩壊(後述の〈生活世界〉の空洞化)により、社会成員の心理的発達に大きな個人差が生じ始めたのである。その結果、年齢に応じた社会的期待に応えられない子供や若者が増えたのだろう。
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■フロイトやエリクソン以来、人間のパーソナリティ(性格傾向の組合せ)が段階的に発達することは通説となった。加えてピアジェやコールバーグの発達的構造化仮説以降、現段階から次の段階に進むためには現段階での欲求や課題が概ね満たされる必要があることも通説化した。およそ社会は成育環境を通じて欲求満足や課題満足を与えてきている。
■だが社会の相互扶助メカニズムが空洞化すると、かかる欲求満足や課題満足を与える成育環境が保証されなくなる。すると肉体的・社会的年齢が同じでも心理的年齢がばらばらの子供や若者が育ち上がらざるを得ない。にもかかわらず、現行では肉体的・社会的年齢に照準するばかりで、心理的年齢--発達的構造化段階--に応じた育児や教育が不足する。
■その結果、「社会化の不全」imperfection of socializationが蔓延する。社会化とは何か。非社会性や脱社会化という概念のベースにもなっている社会化の概念は、1930年代に社会学者タルコット・パーソンズによって提唱された。彼は大恐慌の混乱を目撃したことが契機で、人間が社会的存在になるには一定の条件が必要だと見做すようになった。
■社会の秩序は如何にして可能か。ゲバルトへの恐れ(への期待)による秩序維持を答えとするホッブズ的秩序と、人々に宿る内発性(への期待)による秩序維持を答えとするロック的秩序があるとパーソンズは考える。だが、人間が生まれつき社会的だとするロックの議論は科学的に却けられざるを得ない。ならば、内発性を社会が埋め込むしかない。
■同時代の教育学者ジョン・デューイは、内発性を埋め込む営みが「教育」だとした。だが社会学者パーソンズは、そうした「教育」を試みる教員や親の存在を含めた成育環境の全体が、社会成員に内発性を埋め込むのだと考えた。それが、彼の「価値の内面化としての社会化」socializaton as internalization of valuesという中核的概念の意味である。
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■価値や規範の伝達を試みる道徳教育が推奨されるのではない。そうした道徳教師の存在を含めた多要素から成り立つ社会環境の全体が、感情や意志の働きを方向づける事態が注目されている。こうした議論を踏まえて、デューイの後継者を自称するリチャード・ローティは、そうした方向づけの全体を「感情教育」sentimental educationと呼んでいる。
■ローティは、民主制を健全に機能させるには、誰を「仲間」だと感じられるかを巡る感情教育が不可欠だと見做す。先に紹介した社会学者ギデンズも、社会成員の感情に左右されがちな民主政治を健全化するには「感情の民主化」--非社会的な存在として育ち上がらないこと--が必要だと見做す。同種の議論が学問の最前線では90年代以降目立ち始める。
■これは先に紹介したパーソンズに似る。パーソンズによれば、かつては社会に感情教育を含めた社会化の機能が内蔵されると信じられたので、国家の介入は最小限にして社会に任せよというリバタリニズム(自由至上主義)やアナキズム(無政府主義)があり得た。だが大恐慌が示すのは、もはやそういう時代ではなくなったということだということだ。
■だから彼は、いわゆる「教育」を越え、社会環境の全体を大規模に作り変えることを企図するニューディール政策を支持した。それゆえに彼の議論は全体主義的だと批判された。ところが、90年代以降の政治思想や、現実のEU的な政治理念の流れは、「社会を放っておけば包摂性を失う」との危機意識において、大恐慌後のパーソンズと響き合う。
■ただし全体主義的なパーソンズや福祉国家体制を築いたニューディーラーへの反省もあって、「社会が社会らしくあるために国家が投資する」「国家が社会を支援するのは社会が国家から自立するため」といった社会投資国家の観念や、「民主主義の目的は合意ではなく合意への異議申立てだ」とするラディカルデモクラシーの観念が拡がった。
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