頂門の一針 「大脱走が始まった」「謎の多い人民解放軍」 | 日本のお姉さん

頂門の一針 「大脱走が始まった」「謎の多い人民解放軍」

「大脱走」が始まった
━━━━━━━━━━

★1説では500万人の民族大移動が開始された!と

中国沿岸部では、流入してくる無職の農民の乞食化した

流民との摩擦も懸念され始めてるようです。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
    平成20年(2008年)5月21日(水曜日)弐
     通巻第2194号  

 成都から地震被災者の「大脱走」が始まった
       107元の汽車賃が1200元に大暴騰しても
************************


被災地から逃げ出す動きが加速した。阪神淡路大地震のときに富裕層は大阪のホテルへ避難した。親戚を頼って他府県への移住も多く見られた。四川省大地震で機能を停止していた鉄道、バス、空港が再開されるや、20日あたりから数万、数十万が駅を取り巻いた。とくに鉄道の成都駅には数万人が屯している。親戚をたよって他省へ移動する群である。

貴州省貴陽までの料金は107元。ダフ屋がはびこり、1200元をふっかけて
も、争うように切符を手に入れようと阿鼻叫喚。
成都空港も同じで、北京へ帰るジャーナリストたちもチケットが取れないという。おなじ現象は重慶でも起きている(多維新聞網、5月21日付け)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


(読者の声1)『竹島』について、文部科学省が中学校社会科の新学習
指導要領の解説書で「わが国固有の領土」と2012年度から明記するよう
検討しているが、「解説書に法的拘束力はない」とか。
えっ、どういうこと?「わが国固有の領土」なら検討等と悠長なことを言わずに法的拘束力を持たせるのは当然だろう、と思えるのに「法的拘束力はない」とは何とお粗末。隣から苦情が出たら「それは出版社の意志です、『日本国』では政府が教科書作成に介入することはできませんので」、と体面を繕うつもりでしょうか。いじましいですね。そんな姑息な教育をしたら教わる生徒は可哀想ですし、日本国を軽蔑する様な育ち方をするかも知れません。独立国家なら、毅然とした態度で将来の日本国を担う青少年の教育に当ってもらいたいものです

ところで、「北京オリンピックを支援する議員の会」には衆参合わせて228名の国会議員がいますが、「えっ、何で此人達が」と目を疑いたくなる様な保守系の議員がいます。此連中の心意が解りません。それにしてもアルピニストの野口氏が「チョモランマ」を汚したらきっと禍が起こる、と予言しておられましたが、真逆チベット族の多い四川省でその禍が起きようとは。チベット族女性の顔の引き攣った、恐怖を予感させる様な征服シ-ンは印象的でした。10年位前迄は、今時は、在所の空は「紺碧の空に輝くはぐれ雲」で、平野は花咲き乱れ小鳥の囀る長閑な田園風景でしたが、「黄砂」のお蔭で連日どんよりとして見通しの悪い薄曇。車は「黄砂」で汚されるし、鼻は「黄砂」が運ぶ公害で多くの人が悩まされている。『奸国』(中国)には心底腹が立ちますが、そんな『奸国』にこびている宦官議員達にはもっと腹が立ちます。(九州素浪人)

(宮崎正弘のコメント)前に出した拙著『崩壊する中国、逃げ遅れる日 本』というタイトルですが、小生の企画段階での仮題は、『黄砂に埋ま る北京、泥海に沈む上海』だったのです。あまりの比喩ですので改題しましたが、いまとなっては元の題名で良いかも。
━━━━━━━━━
謎の多い人民解放軍
━━━━━━━━━古澤 襄

今冬の華南を襲った大雪被害でも中国人民解放軍が出動して復旧工事に 当たったが、その行動を米国の偵察衛星が克明に追跡していたという。
四川大地震で動員された人民解放軍は10万以上、北京軍区 、成都軍区 、広州軍区などからの動員とみられている。人民解放軍陸軍の総兵力は140万、7大軍区制(瀋陽軍区、北京軍区、蘭州軍区、済南軍区、南京軍区、広州軍区、成都軍区)をとる世界でも有数の陸軍国。

だが、その実態は竹のカーテンで包まれている。大規模災害で動員がか けられると、偵察衛星でその軍事力を探る動きが活発化する。それだけに手のうちを知られたくない人民解放軍の首脳たちは、四川大地震で国際的な支援を名目にして情報スパイが入国することに警戒感を 示している。とくに災害地の四川省は毛沢東時代にソ連軍の侵攻を恐れて、軍需工場を疎開させた地域。いまでも航空宇宙、核兵器などの施設が、擬装を施されて存在しているといわれている。その噂はあるのだが、情報統制が厳しい北京にいては実情が分からない。宇宙からの偵察衛星だけでなく、擬装を施された軍事施設を地上から調査したいと米国やソ連の軍事関係者が考えるのは常識であろう。

人海戦術だった人民解放軍陸軍が近代化されつつあると伝えられている が、災害出動した姿をみるかぎり移動手段がさほど近代化された様にも みえない。軍用機に救助物資を積み込む作業も人力が主体。印象としては海洋海軍の近代化、空軍力の整備に中国は力を注いでいて、陸軍は二の次となっているのではないか。日本の陸上自衛官1人の給与金額で中国兵20人を雇用が可能というデータもある。

7大軍区制はトウ小平が軍の近代化を進める過程で1985年に従来の11大 軍区制を縮小し100万人の兵力削減とともに実施された。当然のように人 民解放軍陸軍の抵抗があったので妥協が行われている。

本来なら7大軍区制によって軍近代化が一本化で進められる筈だが、こ の組織とは別に集団軍という軍制があって、むしろこの集団軍の存在に よって人民解放軍陸軍の構成がわかり難くなっている。

集団軍はまた第1野戦軍系、第2野戦軍系、第3野戦軍系、第4野戦軍 系に分かれているが、興味があるのは陳毅の影響下にあった第3野戦軍 系の集団軍が隠然たる力を保持している点である。

第1野戦軍系(彭徳懐=1959年失脚・ソ連派)
第1集団軍     - 南京軍区
第40集団軍・予備 - 瀋陽軍区
第41集団軍    - 広州軍区
第42集団軍    - 広州軍区
第46集団軍・予備 - 瀋陽軍区
第47集団軍    - 蘭州軍区

第2野戦軍系(劉伯承=抗日戦線では同郷のトウ小平と組み、国民党との 戦いにたびたび勝利。しかし林彪と対立して1958年失脚)
第12集団軍    - 南京軍区 (司令部・徐州)
第13集団軍    - 成都軍区
第14集団軍    - 成都軍区
第16集団軍    - 瀋陽軍区
第54集団軍    - 済南軍区

第3野戦軍系(陳毅=林彪ら文革派の批判を受けたが、1972年死去に際し て、毛沢東は葬儀で張茜未亡人ら遺族に哀悼の意を伝え「彼は立派な男 だった。」と評価)
第20集団軍    - 済南軍区
第21集団軍    - 蘭州軍区
第23集団軍    - 瀋陽軍区
第24集団軍    - 北京軍区 (司令部・承徳)
第26集団軍    - 済南軍区 (司令部・煙台)
第27集団軍    - 北京軍区 (司令部・石家荘=中ソ国境警備)
第63集団軍    - 北京軍区 (司令部・太原)
第64集団軍・予備 - 瀋陽軍区
第65集団軍    - 北京軍区 (司令部・張家口)

第4野戦軍系(林彪=彭徳懐失脚後、軍の実権を掌握するが、毛沢東から 「極右」批判を受け、1971年飛行機事故で死亡)
第31集団軍    - 南京軍区
第38集団軍    - 北京軍区 (首都警備の精鋭部隊・万歳軍)
第39集団軍    - 瀋陽軍区 (司令部・営口)

1989年の天安門事件に際して、トウ小平は人民解放軍陸軍10万の兵力を 動員して鎮圧に当たったといわれる。この時に首都警備の精鋭部隊であ った第38集団軍(第4野戦軍系)に代わって中ソ国境警備についてい た第27集団軍(第3野戦軍系)が動員されている。人民解放軍陸軍は対日戦争、国共内戦、中ソ対立などで指導的立場にあった10大元帥(彭徳懐・劉伯承・陳毅・林彪・羅栄桓・聶栄臻・賀竜・朱徳・徐向前・葉剣英)といわれる軍の長老が君臨してきた歴史がある。

老総(ラオゾン)とも呼ばれる長老たちの栄枯盛衰はすざまじいが、そ こで生き残った軍の政治人脈は陳毅の第3野戦軍系だという説もある。
トウ小平が一番信頼したのは第3野戦軍系だったのかもしれない。それと劉伯承とともに戦った第2野戦軍系。トウ小平の出身地である四川省の成都軍区・第13集団軍と第14集団軍がある。の人民解放軍陸軍は謎が多くて実態が掴めない。それだけに大事件や大災害で各集団軍の動きが出ると世界の軍事関係者は中国の軍の動きに注目を集める。
━━━━━━━━━━━
「従軍記者」事始(6)
━━━━━━━━━━━平井 修一
小生の自宅のPCが2日間壊れた。ソフトの不具合かなと思っていろいろ いじくったが治らない。社会からアイソレーション(隔絶)されたよう で、とても不安な気分だ。メールもできない、ヤフーの天気予報も調べ られない。情報から遮断された。

「どうもこれは物理的なトラブルではないか」と回線を(地べたをたど って)遡っていったら、なんか、怪しいところがあった。2本の回線が4 本に変るところが、カバーを外すと接続箇所が黒ずんでいる。線が外れ ているようでもある。すこぶる怪しい。

あれこれ試行錯誤で繋いでみたら、あららら、ネットにようやく繋がっ た。ネットがなければ己のいる場所も分からない、コミュニケーション もできないという、なにやら恐ろしい時代である。今や戦争はサイバー戦争の時代だが、日露戦争の頃はどうだったのだろう。振り返れば隔世の感がある。

日露戦争に従軍している「東京日日新聞」(現・毎日新聞)の記者、岡 本綺堂。32歳の中堅だ。気力、体力、知力、場数も踏んでいる、好奇心 にあふれたバリバリの記者で、満洲の戦場を駆け回っている。パナバ帽をかぶり、カーキ服、半長靴にゲートル。腰にピストル、背中に背嚢(はいのう、リュック)を背負っている。その中には筆と墨、巻紙、飯盒、水筒、望遠鏡、雨具、手ぬぐい、薬などが入っている。それにしても商売道具の筆記用具が筆か?

<万年筆は広く行われない時代で、万年筆を持っているものは1人もあ りませんでした。鉛筆は折れやすく不便であるので、どの人も小さい毛 筆を用いていました。・・・今から思えば随分不便でした>しかし、毛筆は理にかなってもいたという。

<我々は机に向かって通信を書く場合はほとんどない。支那家屋のアン ペラ(むしろ)の上にうつ伏して書くか、あるいは地面に腹這いながら 書くのですから、ペンや鉛筆ではかえって不便で、むしろ柔らかい毛筆 を用いたほうが便利だという場合もありました。紙は原稿用紙などを用 いず、巻紙に細かく書き続けるのが普通でした>

写真は普及してきたとはいえ、写真専門雑誌以外の一般紙は画家を雇っ てスケッチさせ、文字原稿とともに野戦郵便で本社に送った。電信はあったが報道管制と傍受を防ぐために民間は利用できなかった模様だ(これは後に書くが外国通信社との間で大問題となる)。

<いずれにしても野戦郵便で内地まで送って、スケッチを木版にして紙 上に掲載するのであるから、10日も15日も遅れてしまうことは珍しくな い>当時は航空便はない。部隊とともに移動する野戦郵便で、原稿は戦場から陸送で朝鮮の仁川あるいは釜山港へ送られ、それから船で日本の多分、広島県宇品まで運び、それから鉄道で東京へ運んだから早くて10日はかかったろう。まあ、それが当たり前だったから、それでも「速報」だった。従軍記者の宿舎は部隊の指定した農家などだが、戦闘継続中は部隊がそんな世話を焼いてくれるはずもなく、記者は勝手に宿所を探す。空き家や古廟、時には野宿。

<草原や畑に野宿していると、夜半から寒い雨がびしょびしょ降り出し てきて、あわてて雨具をかぶって寝る>病気にならないわけはない。

<この戦争が始まると、雨は毎日降り続いた。満州の秋は寒い。8月の 末でも夜は焚き火がほしいくらいである。その寒い雨に夜も昼も濡れて いたために、一行のうちに風邪を引くものが多かった。私もその一人で、時には39度2分の熱になってしまった>

小生、先日9度8分になって、初めて朦朧とした。ふらふらして、もの につかまらないと倒れそうだった。やたらと冗舌になったのは精神に異 常をきたしたのだろう。温暖な日本でもこうだから、寒い満洲の原野で雨に打たれて発熱したら肺炎になりそうだ。岡本綺堂は苦力(現地雇いの下働き)の看病で回復した。(つづく)