時間は「お金」ではなくて「人の命」そのもの | 訪問看護師はミタ

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訪問看護師MINAの頭の中をのぞいてみたら、こんな感じです。

 時は金なりっていうのは違う。時は命だ。お金よりはるかに尊い。枯れてゆく命は介護する誰かの人生時間を奪う。あなたは彼(彼女)の命を助けて満足かもしれないけれど、その彼(彼女)をめぐる介護者(職業的介護者ではない家族など)の人生時間、すなわち「命」を奪っているという事には気付かない。

 医療者のあなたが「自分が助けたんだ!」と思う命。でも、その助けた命に身近に寄り添う人の人生時間を奪っているんだよ。その負担は重く、経済的な困窮とも隣り合わせ。そして、いつまで続くかわからない不安に覆われる。

 医療者のあなたはわかっているよね。命を延ばす技術が公費でまかないえるようになるとき、その機械や器具を扱う会社と施術者は永遠に利権を獲得した事も同じ。一度そのサイクルさえ作ってしまえば、誰も「もうやめましょう」とは言えない。

 少子化で財政難でも言えない、誰も言い出せない。なぜならそれは、訓練を受けた医療者が心を尽くして技術を駆使する。そのおかげでやっと生きれている人がいる。そうやって命をやっとの思いで繋いできた方々への死の宣告となるから、倫理的に誰もが許されない。システムが出来上がってからでは誰も声をあげられない。

 キーワードになるのは高齢化社会への対策ではない。むしろ少子化をどうにかすることの方が将来を見据えたときの、収入の大前提であることに気がついている人もいる。でも、まったく対策は空を廻り、実態に即した対策はなされない。いくら高齢者対策にお金を落としても国の収入は増えない。でも、少子化対策を抜本的に本気で取り組む政治家はいない。
 
少子化は切り口を変えていけば必ず改善されるものなのに、「個人の趣向」のような形で据え置かれたまま。それって人間をみくびっている。なんで痴漢がなくならないのかわかっているのか?生殖が生存の継承を司る絶対条件だからなのだよ。切り口を変えれば、絶対道は開けるのに誰も開こうとしない。