皆さまの反応が私の想像以上にあってびっくりな我が故郷(ど田舎)の古墳壁画。

コレね。

日夏詩





センターで配布していたいくつかの資料から抜粋してご紹介します。



まず、古墳壁画としてはあまりにも有名な奈良高松塚古墳とのつながりは、まずないと考えていいそうです。

虎塚古墳が造られたのは7世紀前半ごろと想定されてますので、時期的には高松塚古墳よりやや昔といったところでしょうか。

高松塚は大陸(唐)の文化の影響を多大に受けて造られたようで、埋葬者も皇族と推定されてますね。
近くに天武・持統陵があったり、吉野地方に近いことを鑑みると、やはり言われてるとおり天武系の皇子さまなのでしょうか?


壁画の損傷の原因は何と言ってもカビ!
カビは現代の一般家庭でも問題児ですね(笑)。

虎塚古墳の調査に際しては、世界で初めて科学的調査の後に発掘調査を始めた古墳だそうです。

そのおかげで、今でも一定の温度と湿度を保ち、鮮やかな色彩を残す古墳となってるようです。
ただ、高松塚の劣化の原因は、ある種人的被害と言ってもいいですよね。知らなかったとは言え、何とももったいない…。


彩色に使われたのはベンガラ。
先日復興された北茨城市の六角堂の外壁を彩る赤色。
科学的に見ても、劣化損傷を防ぐ機能を持ち合わせた色(材料)なようです。


そんな虎塚古墳壁画の図柄は、大和を通り越して九州有明海地域の壁画と類似点が多いらしい。
(Blog仲間のAkioさんご指摘の通り!)

海を来たのなら、大和を通らずとも九州から直接伝わる可能性はなくはない。。。かな?
儀礼的な部分?技術的な部分?どちらがどうやって渡って来たかは謎だけど。


壁画の上部には連続する三角形の図。
これが魔除けの意味合いを含んだ図とされていて、その下には、槍や剣などの武具や首飾りなどの装飾品。左の壁画の丸は太陽かな?

やっぱり“まじない”の香りがプンプンしますね。



文献資料をひも解くと、『日本書紀』の中に中央から造(ミヤツコ)を派遣した記録があるそうで、埋葬者をその人とする考えもあるようです。


そうなると、やっぱり気になるのは「被葬者は誰か?」って話ですよね。

川崎純徳氏の話によると、この被葬者は那賀郡のミヤツコだった“建借間命(タテカシマノカミ)”ではないかと言うのです。


カシマ?!
カシマって、鹿島神宮のカシマ???


建借間命は『常陸国風土記』に出てくる人物で、神八井耳命の子孫だとか…。


って、この方、神武天皇の皇子ですよね?
ヒメタタライスズヒメノミコトの子供?
お祖父ちゃんは大物主神?


で、この建借間命を検索かけたら多氏だとか壬生氏だとか宇治部氏だとか、はては中臣氏だとか出てきて、やっぱり何処を通っても鹿島神宮に行きついちゃうんですよ!


わぁ~ぉ!

やっぱりそこに行っちゃうの?


鹿島神宮、この古墳からかなり遠いよ(車で一時間ちょっと)。


もともと、多くの説の中には中臣鎌足はここ鹿島の出身とするものもありますからね。
那珂郡の臣(オミ)だった⇒那珂⇒仲+臣=中臣???


でもね、水戸市にある愛宕山古墳っていう国指定史跡があるんですけど、これも建借間命の墓だって考えられてるんですよ…。

建借間命はこの古墳近くにある大井神社のご祭神。

この大井神社を鹿島神宮の分社としてたり、タケミカヅチノミコトと同体としてたり…。


しまいには、もしかすると・・・ウチのご先祖様?みたいな事を書かれてる方もいらっしゃるようで(私の姓は地方色が強いのです)。


もぉ~~っ!

容量オーバーです(;一_一)




郷土史にはまる人の気持ち、今ならものすごくわかりますね(笑)。
奈良の郷土史だと、それはほとんど日本の歴史に匹敵することだからさらにドツボですよ(;´▽`A``


常陸も調べる価値大有りです!
先ずは、掻い摘んでしか読んでない『常陸国風土記』をちゃんと読破しようかな(笑)。