関が原の戦場は大いなる幣懸 | パオンのブログ

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最初から続いている不思議な話です。
読まれていない方は、ブログのテーマ・「まとめ」から
読んで見て下さい。

5月6日に、妻とドライブに行きました。昨年もこの時期に、


シャクナゲ群生地を見に行ったので、今年も行こうと、新


しい群生地を地図で探しました。


関が原の南へ行った養老山脈の西側に見つけ、行きました


が、現地に到着した時は、雨が強く降っていたので、この地


域を散策する事にしました。最初に訪れた所は、多良峡とい


う良く整備された景色のの良い渓谷でした。トイレもきれい


にしてあり、妻はとても気に入ったようで、ご満悦でした。



パオンのブログ 多良峡

しかし、次に行った、裏養老の上石津町の唯願寺あたりか


ら、少々、気分が良くないのが感じられました。


この寺は、800年もの歴史を持ち、カヤの数百年の古木が


あり、大垣市の景観遺産として観光パンフにも載っていまし


た。何故、妻の気分が悪くなったかと言うと、ここの由緒書き


を見てからでした。この寺は、藤原秀郷の曾孫が、天台宗の


道場として開いたのが始まりでした。



パオンのブログ 唯願寺


秀郷の伝説は以前の記事でも書きましたが、ここにも、それ


と繋がる、大蛇の伝説が有りました。


ここに有る井戸は、琵琶湖、瀬田の唐橋に有る、秀郷の祭


られている竜宮神社に、正体を見られた竜の化身が、この


井戸を使って、帰って行ったとされています。竜宮神社の井


戸は、日光とも繋がっているとされてもいます。つい私は、


秀郷の説明をしてしまったのです。平将門を討伐した事をで


す。



パオンのブログ 唯願寺の井戸

次に向かったのは、日本昭和音楽村という、竜が爪でひっ


かいたような形の水嶺湖の湖畔に有る、おしゃれな施設。


イタリアレストランも併設されていて、湖畔を眺めながらラン


チは、さしずめ、リゾート気分。



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妻も機嫌が直って、次に向かいました。次は、上石津温泉と


書いた看板が有ったので、車を走らせると、その途中に、


「安倍清明の折り石」と書かれた案内板が有り、妻は、ま


た、怪訝な表情を浮かべていました。


清明神社が有り、白山神社もナビに映し出されていました。


極めつけは、「大神神社」(おおみわ)が、有ったのです。


もう、ビックリして、これには、さすがの私も、辛抱たまらず、


ここに行きたいと、妻に訴えました。


パオンのブログ 大神(おおみわ)神社


上石津温泉は、温泉スタンドしかなく、ガックリきていたとこ


ろに、追い討ちをかけた形になってしまいました。


観光パンフには、先回のブログにも書いた「易」の名前を持


つ友人の、日本での戸籍上の名前がこの地に有りました。




上石津をネットで調べたら、面白い繋がりが有りました。そ


れは、和泉市唐国町に山車を大正三年に、大阪の鍛冶


屋の銘が有るものを送っているのです。


唯願寺の伝説でも「唐」の文字が見られます。以前、唐橋の


事を知った時、何故「唐」の文字が有るのか疑問を持ってい


ました。最澄と空海が804年に中国の唐に渡って、帰国し


たら直に延暦寺、高野山を創建した事からも、中国と密教と


のつながりは、表面上の歴史よりも、深く繋がっていたよう


に思われます。そして、上石津も古文書には表れていない


が、私が見つけた痕跡は、かなりの確率で、繋がっていたと


思われます。


この地の大神神社は、三輪の姓を持つ右大臣が、天皇に、


この地に建立するように進言したとされています。


「折り石」は、北陸で清明が修行した時にも使っています。


「折念石」と言われていて、「日置盤」の原型と思われます。


紀内でも、修行したとされますが、この地でも「折り石」が有


るという事は、修行した地であるはずです。


この石は、隕石の落ちた時にできた、特殊な石とも言われま


す。やはり、星が落ちた場所には、鍛冶屋が関係していると


言われ、山車の製作にも関わっている事を見ても、大正時


代になっても、平安時代からの何かを、かたくなに、守って


いると感じます。



地名にも、「時」と言う名が使われていている所が有り、


だ、友人に確かめてはいないが、「易」、「中国」、「友人の名


前」、「竜」、「三輪」、「陰陽道」と、小さな村に凝縮されてい


る私との不思議な繋がりを持っています。



大神神社は、最澄が、比叡山延暦寺を開く時に、日吉神社


をもっと強力な鎮護の社にするために、わざわざ、大和の三


輪の地に出かけ、要請されたとされています。その時の伝


説では、最澄の頭上に三つの光る輪が現れたとされていま


す。やはり、三輪の血を引く私は、天から来た人種との混血


と言う事になるのかも知れません。それは、竜の血でもあり


ます。


この神社をこの地に持ってきた事は、むしろ、この地は、桜


井市の社より、もっと大きなパワーの持った場所である事の


ように思われます。


それは、次の事に、現れています。



高蔵神社の旗屋町は、昔、幣懸町と言いました。幣懸の話


は、以前に書きましたが、意味は、「首を逆さに吊り下げて、


神の道しるべとして、掲げる」です。


幣懸は、猿田彦の神が降りた地の北に有ります。荒子観音


や、洞戸の北にも印が見て取れます。この地にも有るはず


だと思った時、直に思いついたのが、この地の北に有る「関


が原」です。首塚が幾つもあり、戦勝の印として、敵の首を


跳ね、首通した様は、正に、幣懸です。


これだけの神への生贄は、そうはないでしょう。戦っている


人達は、幣懸の意味の為に、殺しあっていたわけではない


でしょう。そうすると、人を造った者が、遺伝子に物語を埋め


込んだと言う事ではないでしょうか。


それを、証明するかのような、御首神社が、上石津の北北


東の大垣市に有ります。将門の首を崇め祀った神社です。



何故、世界中に、生贄を供える風習が有るのでしょうか?


私は、こう考えます。生き物が死んだ時に、魂が、天と繋げ


るシステムが有るのではないかと最近思います。悪い魂


は、地の蔵に残って、消滅し、有る条件を満たしている者だ


けが、空に有る魂のサーバーへ行き、魂が、天の仏様のエ


ネルギーになっているのではないかと思います。車で言え


ば、スターターの役割でのようなもので、ここの地の持つエ


ンジンを駆動させ、天の識と、死んだ人間の知識とのやり


取りを可能にするのでしょう。



5月6日の出会いから、将門、そして、家族、勢至菩薩と竜、


三輪(大神)神社が繋がる印、私の一族に付いた、虚空蔵菩


薩と地蔵菩薩の印、これらの繋がりが一気に解ってきまし


た。それについては、次回にします。