4.3.4 A 序論『盗まれた自由』――教育問題・エコロジー・天皇教 | 竹内芳郎の思想

4.3.4 A 序論『盗まれた自由』――教育問題・エコロジー・天皇教

 最後に、『ポスト=モダンと天皇教の現在』に収められた論考を収載順に見てゆこう。

 ⑦「序論『盗まれた自由』――教育問題・エコロジー・天皇教」(1988年12月)は、1988年10月9日に開催された「我孫子哲学研究会」主催の講演草稿を土台にして成ったもので、「盗まれた自由」という題名は上記研究会の主宰者・武田康弘氏が付したものだとされている。

 その副題が示すように、ここでは教育問題・エコロジー・天皇教という三つの問題が主題化されている。

 教育問題については、まず「管理教育」と「つめ込み教育」とが批判され、それを克服する第一歩として、「文化」についての考え方を根本的に改変すべきだと主張される。文化や文明をひたすらプラス価値のものと思い込んでいるからこそ、教育が「つめ込み教育」になってしまうのだ、と。そこで『文化の理論のために』の所説をふりかえりながら、学校教育による日本の学生からの好奇心の剥奪を批判している。そこから人間における知的柔軟性の基をつくり出している<想像力>または<構想力>の重要性が指摘され、エコロジー問題へと主題を転換している。

 エコロジー問題では、最初に、チェルノブイリ原発事故いらいの反原発運動が採り上げられ、現代のエコロジー運動にとって「人類文明についての総体的な構想力」の構築が不可欠である所以が力説されている。また、それに関連して、住民運動が地域エゴを脱却するためには「第三世界」との関係を視野に入れなければならないことを指摘したうえで、公害や環境汚染の不可視の構造を隠蔽した梅原猛や日本の言論界のデマゴーグ性を批判する。そうして、このような総体的な構想力の拡がりを妨げるものとしての、日本人の「集団帰属主義」、「集団同調主義」に話題を移し、天皇教の問題に踏み込んでゆく。

 ここではまず、近代原理にたいする態度について欧米社会と日本との違いに着目し、なぜ日本では近代原理が何の抵抗もなく徹底的に貫徹しているのか、と問う。そして、「日本的経営」や日本社会の背後にある日本人の集団同調主義が暴露され、その非人間性と害悪が批判される。

 続いて、それを克服する方向性について考察されている。そこでは、「個人の自立性」の重要性を指摘する見解に一定の同意を示しつつも、個人の自立だけでは決定的に不十分であること、それに加えて「超越性の原理」ないし「普遍的原理」が必要であること、が強調されている。「普遍的原理を伴わぬ個人の自立だったら、それはエゴイズムにも堕しかねない。……事実、戦時下日本の国家的エゴイズムと、戦後日本の私的エゴイズムとは、ともに普遍的原理を完全に欠如している点で、たがいに通底している」、と。

 そこで、この普遍的原理なるものの思想的起源としての「普遍宗教」に論が及び、『意味への渇き』で展開された宗教論を敷衍している。その際、キリスト教における自己批判精神・自己否定能力と、それに対する日本仏教のだらしなさや弱点とを、鋭く対照させている。

 最後に、こうした日本仏教の限界を規定している「天皇教」の集団帰属意識の無類の強さについて、以下の二点が指摘されている。第一に、天皇個人からさえ責任能力を奪っている「制度としての天皇制」の総体的無責任性と、日本人が「民族的責任」を果すための天皇制廃棄の不可欠性。第二に、そうした「制度としての天皇制」を支える宗教表象としての天皇制的心性の特質(集団同調主義的支配と強烈な異分子排除意識)と、その克服の重要性と困難性。かくして、「めざす方向性は、理不尽な集団的圧力に断乎抵抗できる個々人の自立と、それを支えかつ自己批判をも可能にする普遍的原理の内なる確立。これに失敗すれば、そして相変わらず独りよがりの路線を突っ走れば、こんどこそ破滅以外にはないかもしれません」という文章で、この講演文は締めくくられている。