4.2.2.3.1 第五章 E それから | 竹内芳郎の思想

4.2.2.3.1 第五章 E それから

 【近世の日本宗教】
 以上見てきたように、鎌倉仏教の始祖たちの偉大な宗教的諸営為とても、それらが秘める内面的弱点のゆえに、ついにわが国の宗教表象の伝統的特質を抜本的に変革するにはいたらなかった。以後、とりわけ近世の江戸時代に入ると、仏教は、良寛などごく少数の<出家内再出家>の脱俗層を除いて、「檀家制度」をつうじて権力の民衆支配に全面的にくみこまれ、葬式仏教にすぎなくなるか、でなければ「修験道」を中心とした密教的な呪術祈禱仏教となるか、以外に生きられなくなってしまった。その間にあって、近世のはじめと近代のはじめとの二度にわたって、あらたにキリスト教というまったく異質の宗教の渡来を見るが、前者はすばやくかつ苛酷きわまる弾圧によって前代未聞のおびただしい殉教者たちの血痕を残しただけで姿を没したし、後者は知識人のあいだでこそあたらしい貴重な精神的背骨を養成したものの、まだまだ民衆的次元にまで降り下ってこの国の宗教風土を変革する力をもつまでにはいたっていない。そこで、いまはそれについて論ずることは割愛し、ここでは最後に、土着の神道を基礎にしつつもその狭隘な民俗=または民族=宗教の枠をつき破ってついに普遍宗教とおなじ水準に達するを得た「教派神道」、わけてもそのうちでとくに傑出した民衆宗教たる「天理教」と「大本教」とをとりあげ、ごく簡単な考察を加えておくこととしよう。

 【明治維新期の新興宗教――天理教と大本教】
 一般に「新興宗教」と言われるものは、社会の急激な大変動によって伝統的な共同体の庇護を破壊されて一挙に不安定な状況につきおとされてしまったliminalityに生きる人びとのあいだから自生してくるもので、その場合、たいていは既存の普遍宗教を基盤とした宗教改革的性格をもってたちあらわれてくるものだ。ところがわが国の場合、普遍宗教の側にこうしたフィード・バックの力が微弱にしか残っていないせいか、たいていは土着の民族宗教がみずから直接に既成教団と権力とに対抗せざるを得なくなってしまう。それが富士講、黒住、天理、丸山、金光、大本などのいわゆる「教派神道」であって、それらは既成の神社神道や国家神道なぞ足もとにも及ばぬほどのすぐれた宗教的資質をもつ。とりわけこれら教派神道が<初心>における普遍宗教といちじるしく接近してゆく地点はといえば、それはイエの宗教、ムラの宗教、クニの宗教など既成ノモスのうえにのっかった惰性的信仰形態をことごとく否定し、どん底にある民衆を既成の社会的役割から裸にしてその裸形のままの個人として救済しようとしたこと、それゆえ、アニミズム的・多神教的なわが国の伝統的信仰風土に抗うて強力な一神教的最高神、しかも既成価値観からはむしろ負の価値を帯びている最高神を立て、それをうしろ楯にしつつ裸のままの万人の絶対的平等をうち出し、差別と抑圧の権力構造にたいして<世直し>の戈先きを向けたこと、しかも、しばしばわが国ではめずらしい強烈な終末観的<預言>によってその世直し運動が裏づけられたこと、などである。たとえば、天理教の教祖・中山みきにおける、「貧への落ちきり」をバネとした救済への飛躍、万人平等の楽園建設、祖先崇拝・家父長的家族道徳の否定、産褥タブーの否定、「世直し」願望、等々。大本教の教祖・出口なおにも相似た世界の価値転換の大いなるヴィジョンが浮上してきており、彼女のお筆先きの原文には天皇の退位を迫る文章さえ見られたらしい。それは、記紀神話から出でて記紀神話を否定する、実にみごとな逆転劇だったのである。しかしながら、なにぶんにも民族宗教を基盤としているため、そこには当然のこと、シャーマニズムの要素や病気なおしなどの現世利益追求の要素も見られるし、とりわけ大本教には、はげしい排外思想さえ見られる。けれども、シャーマニズムといえどもそれをつうじて世界の終末論的変革の預言が語られれば、これはもう民族宗教の域をはるかに超えて『旧約』や『コーラン』の世界に入りこむわけだし、また病気なおしといえどもそこに既成のタブーを打破して聖とケガレとの合体をもとめる反逆的意味がこめられれば、それは『福音書』のイエスに見られたように、全的救済と世直しへの貴重な一手段ともなる。とりわけ出口なおでは、病気なおしの自己目的化はきびしく戒められているし、また大本教独特の排外主義にしても、日本資本主義化への貧民の側からの反撃を本質としたものであって、そのはげしい反戦思想ともなんら矛盾するものではなかったのである。天皇制軍国主義に骨までしゃぶりつくされた当時の日本人のあいだにあって、これはまさに驚嘆すべき見識の高さであったというほかはない。しかしながら、民族宗教としての神道を基盤にしていることは、国家神道=天皇教からの攻撃にはやはりいちじるしい脆弱性を示すこととなるであろう。たび重なるはげしい弾圧のもとでも、さすがに教祖だけはそれに抵抗する気概を失わなかったものの、やがて男性助手が参加して確乎たる教団づくりがはじまると、どうしても教団の保持・発展が至上命令となり、まるで雪崩にあったように姿勢を崩してゆく。その屈服が完成するのは、天理教では明治三十六年に松村吉太郎のもとで作成された「明治教典」においてであり、また大本教では明治三十二年に出口王仁三郎の手で作成された「会則」においてであった。もちろん、この種の屈服は、すこしでも戦前の天皇制権力の苛酷な弾圧を垣間見た者には、ただ嘲笑してすまされるような単純な問題ではない。天皇教と最もきびしく対立するはずのキリスト教にあってさえ、わが国で節を全うし得た人はホーリネス教会の人びと、灯台社の明石順三、無教会派の矢内原忠雄などごく数えるほどしかなく、大勢は目もあてられぬほどの惨状だったし、まして仏教系となると、彼らと匹敵できる人を私はただ一人だに知らない。したがって、問題はむしろ、戦後における再出発にこそあったのである。

 【戦後の日本宗教】
 折口信夫は戦後まもなく、神道を天皇制権力との癒着(つまり国家神道)から切断し、記紀神話以前の<原始宗教>の姿にもどすと同時に、そのように民族的土着性に根ざしつつしかも普遍人類的なものをめざす神道の<普遍宗教>化の道をひそかに模索していたようだ。この壮大な夢を実現し得る条件を当時そなえていたのは、さしずめ教派神道中の最もすぐれたもの、つまり天理教と大本教ぐらいのものだったであろう。しかし、両教団とも戦後すこしもその任を担うことができなかったのは、むろんそのすぐれた始祖の真精神を継承するあらたな人材にめぐまれなかったせいもあろうが、なによりもまず、戦前に弾圧されたことに甘えてしまって、天皇教へのみずからの屈服についての責任をあっさり自分で免責してしまったところにあったとおもわれる。けれども、そうした自己批判を怠ったのは、なにも両教団だけではない。仏教系だけでなくキリスト教系までもが、戦後の社会常識たる「平和と民主主義」の大合唱に唱和するだけで能事おわれりとしてきたのである。この間にあって、プロテスタント系の「日本キリスト教団」と浄土真宗系の「東本願寺」とが侵略戦争加担の責任を自己批判したことは、たしかに異例事であり、ともかくも異彩を放つ快挙であった。けれども、それがなされたのは、前者では敗戦後二十二年も経った六七年のこと、後者にいたってはそれからさらに二十年もおくれた今年八七年のことでしかなかった。第二次大戦中、おなじくナチの暴虐に屈服を余儀なくされたドイツの教会が、敗戦とおなじ四五年にはやくも「シュトゥットガルト罪責告白」を、つづいて四七年にはさらに「ダルムシュタット宣言」を発表したのと比較するとき、あまりにも大きい彼我の逕庭に思わず絶句するほかはなく、わが国宗教界すべてに通ずる無責任体質――それは天皇制的心性のそれと確実に通じ合っているものだ――の奥深さに、いまさらのごとく慄然とならずにはいられない。それでも、たった二教団でもそれをおこなったことは、私たちのせめてもの慰みではある。私の知るかぎり、他の何百ともしれぬ教団は一切頬かぶりしたままであり、頬かぶりしたままあるいは「世界平和」を説教し祈願し、あるいは近代の諸悪を超えるポスト・モダーンだとしゃれこみ、それをまた世の「識者」たちがマスコミをつうじてしきりにもてはやしているのが現状だ。彼らの言うことを、たった一言でも信ずることができるであろうか。けだし、己れの過去を率直に検証する能力のない者に、己れのあらたな未来を設計する能力なぞあるはずのないことは、あまりにあきらかであるからだ。