4.2.2.1 序論 | 竹内芳郎の思想

4.2.2.1 序論

 【宗教と狂気】
 ヒマラヤ山中に、カイラーサ山という五千メートル級のひとつの壮大な高峰がある。バラモン系の古インド神話にもシヴァ神の神座として見える太古からの信仰の山だが、各地からこの霊山に辿りついたヒンドゥー教、仏教、ラマ教、ボン教などの多様な巡礼者たちの生々しい姿を、三年ほどまえ、或るテレビ局が放送しているのを目にしたことがある。隻脚で松葉杖を突きながら十二年かけて巡礼に来たヒンドゥー教の老人や、この山の周囲を「五体投地」の方法で何年もかけて周遊するチベット仏教徒の姿。彼らはみな、来世の保証を得んがためにこのような行動をとっているようだが、それにしても、ここに見られる宗教的狂気のすさまじさには、おもわず絶句せずにはおられなかった。むろん、これはほんの一例にすぎない。古来、人類がその宗教的情熱のもとにおこなってきたところは、その偉大と愚劣との双方をふくめて、まことに狂気に充ち満ちており、人間とは根源的にhomo demens¬=「狂気を賦与された動物」にほかならぬことを、それは端的に証している。そのような立場にもとづくわたしの文化論と宗教論については、『文化の理論のために』を一読していただきたいと思う。

 【本書の課題と方法】
 そこで述べたように、人間の第一次的象徴体系の基本的な論理は、カオスのコスモス化であった。ところがこのコスモスは、他の生物の場合のように自然によってあたえられたものではなく、所詮は人間自身のつくった恣意的なものでしかないのだから、その形成のあとでも、たえずカオスの方からの侵入の脅威にさらされざるを得ない。それにそなえて、コスモスの秩序はくりかえしくりかえし、その創造の時のミメーシスをつうじて再確認されつづけられねばならず、そうして、カオスの襲来からコスモスをまもるためにかえってみずから原初のカオスにたちかえるという奇怪な逆説的運動が、ここに必須のものとして要請されるわけだ。そして、このような原初のカオスへの回帰の時こそ<聖なるもの>の儀礼としての<祭り>であり、こうして聖・俗の分離・対立、および聖による俗の維持・更新を本質とする宗教なるものが、<カオスとコスモスとの弁証法>のドラマのなかに位置づけられるのである。そして、この弁証法をあきらかにしてゆくところに<文化記号学>の使命があったのであり、宗教論としての本書も、必然に「宗教表象の記号学的考察」とならざるを得なかった次第である。しかしながら、このように宗教表象に内在しつつその構造的論理を文化記号学的に追求して行ってみると、この論理が(基本的には同一であっても)各宗教によってその表出の仕方において実にさまざまであることに、やがて気づかざるを得なくなる。大きく分けて、宗教には①原始宗教、②国家(または民族)宗教、③普遍宗教に三つが区分され、そのそれぞれにおいて、<カオスとコスモスとの弁証法>の表出仕方が大きく異なることがわかってくるのだ。ところがこの宗教の三区分がどうして生まれてきたかを追求して行ってみると、それはけっきょく、宗教がそれぞれの社会構成体のなかで果す社会的機能が異なるためだということがわかってくる。このようにして、はじめは宗教表象の構造についての純粋に記号学的な分析から出発した宗教研究も、己れに忠実なままで実はいつしか<構造>分析の枠を超え出て、ついに<構造転換>をも己れの研究対象のなかにひき入れてこざるを得なくなり、そしてそうなってくると、一旦は排除しておいたマルクス主義の<唯物史観>が、そのままのかたちではなくこんどは文化記号学の不可欠の補助理論として、記号学自体の内部であらためて賦活させられるようになるわけだ。宗教表象の内的構造と同時にその<社会的身体性>をも考察にひき入れるこの宗教論の方法論的装備は、このようにして成立したのである。

 【構造主義的宗教論の欠陥①――歴史の捨象】
 ところが、このような方法での宗教論は、現代の思想流行のなかではかなり異様にみえるかもしれない。マルクス主義宗教論が退潮したあと、さすがにレヴィ=ストロース流の純形式主義的な構造分析はその華やかなデヴュほどにはそのご継承されなかったものの、デュメジルと近親性をもつM・エリアーデの解釈学的構造主義の方が、今日の宗教理論をリードしているようで、これまた構造主義の一変種として、歴史を撥無してすべての宗教構造を単純な原型神話に還元してしまうつよい傾向をもっている。けれども、このような方法での宗教論が、人類の産み出したさまざまな宗教の重要な側面を看過することになるのは、あまりにも目にみえているのではないか? どのような宗教でも、それぞれの社会のなかで果すべき固有の使命をもっているはずであって、その社会的使命の固有性を無視してあらゆる宗教を同一のイエロファニー(聖顕現)に還元してしまうのは、あまりにも一面的な宗教研究だと言わねばなるまい。エリアーデはこのような歴史捨象の構造主義的方法によってはじめて進化論的または西欧中心主義的視点からくる偏見を克服できるとしているが、これもとんでもない誤りであって、そういう偏見を打破するのに構造主義が唯一の方法である根拠はどこにもないばかりか、大体、構造主義自体、近代西欧的知性の一所産でしかないことに無自覚でありすぎるだろう。

 【構造主義的宗教論の欠陥②――宗教への批判的視点の欠如】
 さらに重要なことは、レヴィ=ストロース式にしろエリアーデ式にしろ、一般に構造主義的な宗教理論では、宗教にたいする批判的視点がすっかり盲目化されてしまう、という問題である。その一例として、わが国近代の「国家神道」を挙げることができるだろう。それは、<普遍宗教>のみを宗教としてかんがえる近代的常識をたくみに利用しつつ、「神道は宗教に非ず」という欺瞞的イデオロギーを成立させたわけであるが、このような欺瞞を的確に暴露し批判してゆくためにも、宗教の類別を明確化する宗教理論がぜひ必要であって、あらゆる宗教の構造的同一性だけに目を奪われている構造主義的理論なぞ、ここでは何の役にも立たぬのである。

 【流行宗教論者の欺瞞性】
 だが、欺瞞をおこなっているのは、なにも国家権力だけではない。体制に媚びを売る流行宗教論者たちもまたおなじであって、「日本古来のアニミズムの復権によってキリスト教的人間至上主義の超克を」と叫んでいる人たちなどは、さしずめその典型であろう。日本的アニミズムなぞ、いまさら復権しなくとも、原始から現代にいたる日本人大多数の信教パターンを一貫して支配してきたものであって、こんなものでは人間至上主義の克服など不可能であるばかりか、原始共同体から遠く離れた現代社会における原始宗教の復権などがろくな結果を産むはずのないことを、わたしたちは後の章で確認することになるであろう。ただ、そのことを真に納得するためにもあらかじめ、宗教表象の三類別とそれらのあいだの構造転換が、明確に把握されていなければならず、あらゆる宗教をゴッチャにしたまま構造の恒常性のみを追求する構造主義的宗教理論は、この点でもまったく有害無益と言わねばならない。私はこれまで、世の構造主義者とも流行宗教論者とも旧来の専門宗教学者とも異なって、理論の問題を単に理論のレヴェルだけにおしとどめてそれと戯れるような態度には我慢できず、どんな場合にもかならずその理論のもたらす実践的帰結まで見届けることをもって信条としてきたのであり、この宗教論、とりわけその終章は、そのような私の基本的姿勢を明示するものとなっているはずである。