3.3.2.2 序 | 竹内芳郎の思想

3.3.2.2 序

 【エンゲルスにおける<階級国家論>と<分業国家論>】
 周知のように『起源』のエンゲルスは、<私的所有>の発展こそが氏族社会から政治的社会(国家)への推転の源泉だとなし、私有財産の擁護と階級的支配の保証のための機関として<国家>を見てゆく<階級国家論>を全的に展開した。しかし、実はこれだけがエンゲルスの国家論だったわけではなく、『反デューリング論』(あるいは、晩年のC・シュミットあて書簡)では、社会的・公共的諸機能の分化と特定個人によるその簒奪にもとづく国家の形成過程を示す<分業国家論>をも主張していたのであった。これまで述べてきたわたしたちの立場からすれば、この『反デューリング論』における国家形成の<二つの道>論にもどることを主張することとなるわけだが、そのためにはまず、『起源』の国家論それ自体のはらむ自己矛盾を抉り出すことから出発せねばなるまい。

 【『起源』の国家論の自己矛盾】
 実際、『起源』における<国家>の規定には、どうにもうまく溶け合わぬ二つの思想が奇妙に混淆していた。すなわち、彼は一方で、国家を「経済的に支配するもっとも有力な階級が他の階級を支配する」ための抑圧機関であるとしながら、他方では、国家を「階級闘争を一定の秩序のなかに保つ」ための調停機関であるとしているのだ。しかも、エンゲルスの記述においては、前者がどこまでも国家の本質規定だったはずなのに、後者は「例外的におとずれる」諸事例だとしており、両規定がなんら論理的な連関をつけられないまま放置されてしまっている。私的所有の発生と発展とに国家の起源を見る『起源』の立場からすれば、第一の規定だけで十分なはずなのに、にもかかわらず第二の機影をすべりこませざるを得なくなったのは、要するに、国家の本質そのものが――その<公共性>が――それを要請したからであろう。その公共性は仮面にすぎないにせよ、そういう仮面をつけないでは国家は国家として自己を主張し得ないのだ。そこで、この問題をかんがえるために、わたしたちはまず原始共同体における国家の萌芽を見いだしてゆくことからはじめよう。