3.2.3.1 Ⅰ 言語とメタ言語 | 竹内芳郎の思想

3.2.3.1 Ⅰ 言語とメタ言語

 ① 言語の階層性

 【<浄化的反省>の方法】
 ここでもまず、いままで私の一貫してとってきた方法としての<浄化的反省>によって、言語論をほかならぬ言語自身をもっておこなわねばならぬという、あの言語の自己循環現象から出発しよう。

 【言語の自己循環性と言語の階層化】
 コトバをもってコトバを規定しようとする言語論の矛盾は、言語が言語論をおこない得るように言語の構造自体を階層化する以外に、打開の途はないだろう。では、言語をどのように階層化するか。

 【言語の階層化の試み】
 イエルムスレウは、<表現>expression(=ソシュールの<能記>le signifiant)と<内容>contenu(=ソシュールの<所記>le signifié)というコトバの二相から<明示言語>・<含意言語>・<メタ言語>を区別したが、それをもう一歩踏み込んで明快に構造化したのがロラン・バルトであった。彼によれば、あらゆる意味体系には<表現相>(E)と<内容相>(C)とが含まれており、両者の関係(R)に意味が照応している(E・R・C)。ところが、この第一次の意味体系の総体をそれ自身己れの各相として含み込んだ第二次の意味体系を考えることができ、これにはまったく対蹠的な二通りの場合が、すなわち、第一に、文学にあらわれる含意言語E(E・R・C)・R・Cが、第二に、言語論にあらわれるようなメタ言語E・R・C(E・R・C)が、考えられる。

 【言語の本質的な階層性と現象的な混在可能性】
 以上をもう少し具体化する前に、あらかじめ断っておきたいことが二つある。第一に、言語は平面的な拡りではなく構造的に階層化されたものであるという点を明示するところに、以下の論述の核心があるということ。私見によれば、言語の階層の第一次層が<日常言語>であり、第二次層(広義のメタ言語)が<文学言語>ならびに(狭義の)<メタ言語>=<論理言語>であり、後者はさらに、<科学言語>と<哲学言語>とに大別される。従来の言語論は、こうした言語の階層構造を無視し、同一平面上での機能の相異としてのみ論じてきたために、はなはだしい混迷におちいったかに思われるのだ。第二に、日常言語、文学言語、メタ言語を峻別したからといって、具体的にはそれらが混在してあらわれることはいくらもあり得ること。要は、たとえ現象的には混和してあらわれることがあっても、それらは本質的に階層次元を異にした言語であることが、ここで明示できればよいのである。


 ② 言語の二つの機能

 【<明示性>と<含意性>】
 まず、階層上の相異をあきらかにするに先立って、機能上の相異をあきらかにしておこう。呼称は言語学者によってまちまちだが、どんな在り方をとる言語にも<明示性>dénotationと<含意性>connotationという二つの機能があることは、多くの言語学者(ランガー、ハヤカワ、ヤコブソン、サピーア、ブルームフィールド、ギロー、オグデンとリチャーズなど)の認めるところである。要するに、コトバというものは、かならずその記号としての有体性(能記)とは異る何ものか(所記)を指示すると同時に、また多少ともかならずその有体性(能記)それ自身において或る表情をもつものであって、両作用が合わさってコトバは私たちにはたらきかけてくる――能記の側は共感的に、所記の側は説得的に。そこで、前者に注目してコトバの機能を考えれば、それが<含意性>なのであり、後者に注目してコトバの機能を考えれば、それが<明示性>なのである。

 【コトバの二つの機能と二つの相】
 以上のことから、コトバのこの両機能が、さきに見たコトバの二つの相――ソシュールの<所記>と<能記>、イエルムスレウの<内容>と<表現>とにそれぞれ連関してくるかも解るはずで、実際、私たちは、コトバの明示機能をつうじてそのコトバの指示内容へと注意を向け、コトバの含意機能をつうじてそのコトバ自体の内在的表情を感受するのだ。ところで、この両機能は、どんな次元のコトバにも程度の差はあれ附着しているものであって、含意性は日常言語や文学言語で重要な働きをするだけではなく、もっとも抽象的な論理言語にも随伴するし、逆に、明示性も論理言語で支配的になるだけではなく、詩的言語においてさえも機能を停止するわけにはゆかないのだ。或る発言において、いずれの機能が支配的であるかは、オグデンとリチャーズが言うように、「それはふつうの厳密に科学的な意味で、真なりや偽なりや」と問うことであろうが、その両機能の量比ばかりに目を奪われていたのでは言語の構造的階層性はあきらかにならないのであって、むしろ、両機能の働き方自体の質的相異に着目しなければならないのである。


 ③ 日常言語

 【日常言語からの出発】
 言語の起源がどうであれ、また幼児の初期言語の使用法がどうであれ、およそメタ言語が問題となるときにその基底言語となるものは、日常生活で一般に話されている<日常言語>であることに疑いはないのだから、まずそこから出発しよう。もちろん、日常言語のさらに基底に何か別の言語系が存在するという可能性もあるが、それは何らかの抽象作業=メタ言語的操作を介してはじめて発掘し得るものであり、それを前提とするわけにはゆかないからだ。

 【日常言語の特質】
 一般にコトバが意味をもつためには、かならず<言語場>が必要であり、コトバをとりまく状況を多少とも会得しているのでなければ、どんなコトバも理解できないのであるが、<日常言語>に特徴的なことは、そこではコトバがすっかり言語場のなかに吸収されていてそこから自立し得ず、単に現実的実践の消過的契機としてのみあわわれる、ということだ。そのことは、第一に、コトバの明示性が含意性に従属するというかたちで現象し、第二に、しかもその含意性のなかでも、つうじょうは言語学の対象とならない主観的・個人的な言語事実(発言者の声の抑揚や語気や身振りなど)が圧倒的優位を占めるというかたちで現象してくるのだ。日常言語のなかでもっとも日常言語的な特徴を示すのは<挨拶語>であるが、そこではコトバの明示的意味よりも、挨拶したかどうかという事実と発話にさいしての発言者の態度の方がはるかに有意味的なのである。つまり、発言内容自体の正否がそのまま素直に検討されないで、その発言を誰がどんな魂胆でおこなったのか等々ばかり詮索されるのが、日常性における言語の宿命なのである。そうして、日常言語は徹底して<自己表出>的言語なのであり、ここではコトバの指示性は完全に表現性のなかに包摂されてしまっている。また、日常言語ではコトバが言語場に埋没しているため、そこで「この」とか「あの」などの<実物直示語>が圧倒的な比率を占めていることからもわかるように、言語の根本的特徴たる非現実性=代替性が完全に現実性のなかに抱きこまれてしまっている。

 【日常言語と時枝国語学】
 日常言語の特質を以上のように見てくるとき、時枝国語学の示した言語観は、まさにこの水準における言語に適合するものであることが解るのであって、彼の基本的視点は、言語場のなかに埋没した日常言語のありのままの姿を実に的確に把えている(コトバの明示的要素としての<詞>と含意的要素としての<辞>の峻別、両者の包摂関係の指摘、有名な<入子型構造形式>の造型など)。

 【日本語の<日常言語>的特性】
 ところが、この時枝式の言語観は、日本語を母胎としてのみ生まれ、日本語に関するかぎり興味深い分析を示しながらも、ひとたび印欧語に場を移すと、ほとんどものの用に立ち得ないのであって、その理由はおそらく、言語としての日本語もまた<日常言語>としての特質をきわめて鮮明に示すからではないだろうか。これに反して印欧語は、第二次言語の特性を己れの深い体質と化しており、その結果として、時枝言語学ほどに<日常言語>の姿を把えることに成功しなかったが、はるかにすぐれた文学理論を産み出す母胎となり得たのだろう(逆に、時枝言語学は、第二次言語については素朴で幼稚な見解しか産み出せなかった)。

 【<政治言語>の特質】
 最後に<政治言語>の特性について一言しておくと、政治言語もまた言語場への埋没という点で、日常言語と同一次元にあるものと言え、そこでは、コトバの明示性よりも含意性が、発言の正しさよりも政治的効果が優位となる(ただし、匿名的で集列的な社会関係を言語場とするという点で日常言語とは異る)。こうした両言語の次元的同一性に着目するとき、日常言語として豊かな資質をもつ日本語が、政治言語としても有効であることは、国会での政府の答弁一つを考えても容易に推測がつくだろう。


 ④ 文学言語

 【文学言語の特質】
 次に、第二次言語に移るが、まずは<文学言語>から考察しよう。文学言語にあっては、含意性が明示性を能うかぎり吸収し、前者が後者にたいして圧倒的優位に立つのであり、したがってまた、ここでは能記(表現)が所記(内容)を吸収し、前者が後者を完全に支配しようとする。尤も、文学言語も言語であるかぎり、明示性が完全に消失することはないのであって、ただ、ここでは明示性は、含意性に奉仕するために存在するのであるから、ヤコブソンの言うように、つねに<両義化>されてあらわれるのである。そして、ヤコブソンの指摘でさらに重要なのは、文学作品にあっては、作家も読者も両義化される、つまり誰でもないものとして空無化される、ということであって、この点にこそ、文学言語の本質があるのだ。

 【文学言語と日常言語の相違】
 実際、明示性が含意性に吸収されるというだけなら、これは日常言語にも当てはまるはずで、両者の相違はそこには見出されない。さきのバルトの構図(E(E・R・C)・R・Cという構図)を見ればわかるように、日常言語と文学言語の相異は、単に含意性の量的増大といったところにあるのではなく、日常言語の明示性と含意性との総体をあらためて己れの含意性にまで転化しつつ、二次的に成立してくるという点にこそあるのだ。一旦、日常言語を空無化し、それを否定的媒介とするのでなければ、文学言語は生まれないのであって、それゆえに文学は、多くの場合に<文書態(エクリチュール)>という<記号の記号>を用いるのであるし、詩の朗読や演劇の科白のような場合でも、一定の芸術的型の介在によってその音声が日常世界から画然と距てられるのだ。したがって、日常言語と文学言語における「含意性による明示性の吸収」とは、まったくの異次元で生起する、まったく別種の意味を帯びた出来事なのであって、日常言語におけるそれが、コトバの非現実性を言語場の現実性に、あるいは発話者の人格の自己表出に還元するための作業であるのにたいして、文学言語におけるそれは、猥雑な日常的言語場の現実性から能うかぎり非現実的なコトバの世界を自立させようとする、そしてそのためには、生ま身の自分を完全に殺すことも辞さぬ必死の営為にほかならないのだ。

 【文学作品の作家からの自立性】
 M・ブランショが「生ま身の詩人は、作品の圧力のもとで消滅する――自然的現実を消滅せしめたそのおなじ運動によって」、等々と述べているように、文学作品は作者から自立的に存在するのであり、だからこそ作品は、幾度も反復して読まれなければならぬ――よりよく理解するためにではなく、そのつど新たな文学的経験と出会うために。総じて、バルト、フーコー、デリダ等々の現代フランスの文学理論家たちが、ソシュールの<価値>論から出発しつつ、文学言語を言語外的諸要素から完全に自立させ、ひたすら言語の客観的諸関係のなかだけに文学的価値を収斂して考えようとする志向を示しているのも、こうした第二次言語としての文学言語の根本性格によるものと考えられる。その一方で、彼らは、言語の階層性を総体としてあきらかにしないまま議論しているために、この世に文学言語以外の言語が存在しないかのような誤解や、そのような誤解のうちに奇矯な言辞を弄することがまるで高尚なことであるかのような風潮を産み出しているのではあるが、ともあれ、言語の文学的価値を自己表出性などにもとめる通念の誤りはあきらかであろう。

 【文学言語における明示性の両義化】
 このようにして、文学言語は、日常言語を土台としてその空無化のうえに築かれた第二次言語(広義のメタ言語)なのであるが、と同時に、それは論理言語(狭義のメタ言語)とは対蹠的に、基底言語のすべてを能うかぎり己れの能記=含意性へと吸収してしまおうとする。にもかかわらず、文学言語もまた言語であるかぎり、一切の明示性を消去することは不可能であって、それは作品全体としては「何も言わない」ために、個々のコトバの明示性を両義化するのであるし、両義化するためにも個々のコトバ自体は明示性を失っていてはならぬのだ(異化効果のはげしい詩的言語や日本短歌における枕詞や懸詞の効果を考えよ)。また、一般に詩的言語で各種の<比喩>的表現が重視されるのも、指示の重層化=両義化の原理から理解されるべきであり、サンボリズムいらい詩が「音楽の富を奪還しよう」としてきたことは事実だとしても、詩が明示性を宿命的にもつコトバの芸術である以上、そんなことが文字どおりに実現できないことは自明なのだ。この両義化された明示性こそ、サルトルやH・ルフェーヴルの言うところの、significationにたいするsensなるものの真意なのであり、バルトがさきの構図で、文学言語を単にE(E・R・C)とは表示せず、E(E・R・C)・R・Cと表示せざるを得なかった所以なのである。


 ⑤ 論理言語(狭義のメタ言語)

 【第一次言語とメタ言語】
 つづいて、おなじく第二次言語の水準にありながら文学言語とは対極をなす論理言語(狭義のメタ言語)に移ろう。メタ言語の特質を精密化したのは分析哲学者たちであるが、専門の言語学者たちのうちでは、ヤコブソンがもっとも注目すべき考察をおこなっている。とりわけ彼は、メタ言語がメッセージをコードへと集中化するものとして第一次言語とはっきり区画され、<失語症>にあってもメタ言語の喪失が特別な症状を示すことを明示したのである。つまり、同じ語でも、第一次言語として用いられる場合とメタ言語として用いられる場合、メルロ=ポンティの表現によれば<行動の道具としての語>と<生活の関心からはなれた命名の手段としての語>とが截然と区別されるわけだ。

 【メタ言語とフッサール言語論】
 このようなメタ言語の在りようを、まさにメタ言語=論理言語を行使する主体の立場にたって、きわめて精力的に論じたのが初期フッサールの「表現と意味」であった。ここで彼は、<記号>における<指標>と<表現>、<指示>機能と<意味>機能とを対比させ、伝達的会話(第一次言語)においては、あらゆる<表現>が<指標>としてしか働かなくなるために、何らの真理性も対応せぬ<外的>知覚しか得られないが、孤独な心的生活においては、記号の物質性が不在となるために表現が指標に汚されずに純粋にその意味機能を発揮し得るとした。それは、デリダが誤解したように<自己への現前>に真理の保証を求めたからではなく、表現の意味の超状況的な同一性を確保するためだったのであり、だからこそ彼は、常識とは真向から対立して、言語の<表現>から表情や身振りなどをすべて卻け、さらに表現には<意味志向>さえあれば<意味充実>は不要だとして、記号自体の現存のみならず記号対象の現前化さえも無用のものとして切って捨てたのだ。こうして彼は次のように言う――表現の意味というものは、ここでいま(hic et nunc)なされたそのつど一回かぎりの表現行為などを超越した、<スペチエス的>in specieなものである、意味とは意味附与経験のことなどではなく、言表の意味は、誰がどんな時どんな状況で言表しようともつねに同一のものである、云々。

 【フッサールにおける論理言語の超越性】
 このようにして、フッサールにおける論理言語の超越性のきびしさは、カフカやブランショにおける文学言語の超越性のきびしさとまったく等質のものであり、論理のスペチエス的同一性が存在するためには、志向する人間なぞ不必要なのだ(これは皮肉にも、フッサールを批判したデリダが、<文書態(エクリチュール)>を自立させようと腐心しているのと、そう違ったことではない)。こうしたフッサールの論理言語のきびしい超越性を解さずして、孤独な心的生活における<自己への現前>を云々することは、フッサールの言語論の意図を誤解するばかりか、現象学一般をも誤解するものであり、デリダのフッサール批判は、解釈として不正確であるばかりか、許しがたい自己欺瞞におちいっているように思われる。

 【山元一郎の言語階層化論】
 しかし、フッサールの所論では日常言語と論路言語との階層的異次元性はあきらかになるものの、総体としての言語の階層性一般と、そのなかでの論理言語の位置づけはあきらかではないので、つぎに山元一郎『コトバの哲学』なる著作を検討しよう。山元は、条件反射学と分析哲学とに依拠しつつ、動物と人間とが共有する<第一信号系>と、日常言語がぞくする<第二信号系>(第一信号系を信号する言語の使用)とを区別するとともに、日常言語のなかにも第二信号系を信号するような要素が存在することを指摘してみせた。比喩的記述や数的信号などがそれであり、それは第一信号系にも第二信号系にも含まれぬ、<第三信号系>とでも呼ぶべきものだ。一般に、対象を信号する<対象語>は対象なしには成立し得ぬのにたいして、ものごとの論理的諸関係を信号する<論理語>は、対象語なしには成立し得ないが対象なしに成立し得るのであり、かくして、三つの次元による信号系の階層性を想定できる、というわけだ。

 【山元理論の欠点】
 以上のような山元氏の所論にたいして、私の立場から納得し得ない点を二つ挙げると、第一に、氏は文学言語を「第一信号化された第二信号系」と特徴づけたが、それを第三信号系のなかに位置づけたうえでの議論でないため、上記の全信号系のなかで文学言語の占める位置が宙に浮いてしまっていること、第二に、氏は科学と異る哲学の特徴を全体的認識とか主体的自覚とか価値と実践の立場とかにもとめているが、これもおなじ第三信号系のなかで占める科学との位置の相異を言語論的にあきらかにしていないこと、である。


 ⑥ 文学言語と哲学言語の階層的位置

 【文学言語の階層的位置】
 山元氏の所論の第一の問題点、文学言語の階層的位置の問題であるが、基本的には既述のなかで解決ずみなので、ここでは多少の補足にとどめよう。それは、ヤコブソンが「詩的機能とは、選択軸の等価性原理を連結軸にまで投影するところにある」と述べている点である。つまり、すくなくとも第二次言語の次元では、含意性は(「まどろむ」「寝る」「休む」などの)等価諸語のあいだの差異によって生まれ(この点で文学言語の含意性は日常言語のそれと根本的に異る)、明示性はコンテクストのあいだの諸語の連結(「AはBである」と言う場合のAとBの連結)の論理性によって生まれる(この点で論理言語の明示性は日常言語つまり対象語のそれと根本的に異る)のであるから、詩的言語とは含意性に変貌した明示性(等価性が連結性を構成するために利用される)、メタ言語とは明示性に変貌した含意性(連結が等価を構成するために利用される)、ということになるのである。ところで、H・ルフェーヴルも言うように、明示性と含意性とは、或るコトバにおいて一方が増大すれば他方が減少するという具合に、明確な反比例関係にあるものだから、文学言語と論理言語とではきびしい相反関係をつくるのも当然である。しかし、論理言語といえども、それがコトバであるかぎり、含意性を完全に消去してしまうことはできないのであり、明示性がどこまで厳密に含意性を統制下に置くことができるかによって論理言語の論理性の優劣がきまるのであって、しかも、その統制の仕方に応じて<科学言語>と<哲学言語>との差異が生まれてくるようにおもわれるのだ。

 【哲学言語の階層的位置】
 こうして、山元氏の所論の第二の問題点、哲学言語の階層的位置の問題に移るのであるが、すくなくとも従来の言語論は、科学言語と哲学言語の区別を言語構造そのものにおいてあきらかにする努力を怠ってきたのであり、メタ言語としての論理言語と言えば、すぐさま科学言語をモデルとしてこれを考える、という次第であった。私たちの言語論が、文化の全般的危機に根ざし、それを再編するための最深の基盤を準備しようとするものである以上、たとえいつかは哲学が科学のなかに吸収されると仮定したとしても、そのためには科学がどのようなコトバをもちいるべきであるか、真剣に問われるべきなのだ。従来のかたちで科学をかんがえるかぎり、科学の究極のコトバは数学記号だと言えようが、こうした数学記号をもって哲学問題をすべて扱おうとするならば、分析哲学の一部がそうしているように、全コトバの機能的合理化=テクノロジー化をつうじた<管理社会>への奉仕以外のことは何もなし得なくなってしまうだろう。

 【科学言語と哲学言語の相異点】
 はじめに簡単に定式化するならば、おなじ論理言語として明示性による含意性の統制をめざすものでありながら、<科学言語>の方は含意性の消去による明示性の純化の方向性をめざし、<哲学言語>の方は含意性それ自体をまるごと明示化してしまう包括の方向をめざす、ということになるだろう。ハイゼンベルクも言うように、事象を科学的に明確化するという過程から生まれてくる第一の言語は、つうじょう数学言語つまり数式の体系であって、けっきょく自然法則は、数学的記号間の方程式であらわされるほかはないのだ。したがって、もしもメタ言語(論理言語)の理想をただ科学言語にのみ求める立場に立つならば、己れの行使するコトバを能うかぎり数学的記号に近づけようと努力するのは当然であり、これが一部の論理実証主義者または分析哲学者の歩んだ道なのである。もちろん、この派の人たちにもいろいろニュアンスの違いがあって、オクスフォード学派のようにコトバの論理記号化には断乎反対する人たちもいるが、もしメタ言語の理想を<科学言語>にのみ求めるならば、記号論理学にまでゆきつかないのは不徹底のそしりをまぬがれまい。

 【哲学言語の記号化の限界】
 以上のような<科学言語>型の論理言語の立場からすれば、ヘーゲルやハイデッガーのような言語使用をする哲学が真先きに槍玉にあがるわけで、ここでは哲学の価値は、ひたすら言語使用の形式論理的合理性に収斂してくる。しかし、このような立場は、自然言語の形式的論理記号化にまつわるさまざまな無理もさることながら、特定の型の言語使用のみを有意味だとする命題自体の有意味性が根拠づけられていないという点で、根本的に道を誤ったといわざるを得まい。科学がそのような言語使用を許されてきたのは、科学には自己の立場の選択を問題にする義務が免責されていたからであり、つまり自己の研究対象を厳密に個別化(個別科学への自己限定)してきからなのであって、そのことを無視してメタ言語の一切を科学言語の型にはめこもうとする科学主義の哲学は、それ自体途方もない非合理性におちいること必定なのだ。後期ヴィトゲンシュタインの「きめの粗い大地へ戻れ」との言は示唆的であり、自然言語というものは人間の思考にとって思ったよりはるかに根深いものであって、数学的記号が言語総体のメタ言語となることはできないのだ。数学的記号がメタ言語となるかわりに、自然言語の方が数学的記号に現実との接触を可能にするのである(ルフェーヴル)。

 【哲学言語のめざすべき方向性】
 もちろん、思想の論理的浄化に努めた分析哲学の業績のすべてを否認するつもりはないし、ヘーゲルやハイデッガーの言語行使の在り方をそのまま肯定しようとは思わないが、ここで問題なのは、コトバの二機能の一方を捨てることではなく、その総体をまるごと論理化する道を探求することだ。それは、<無意味命題>に対立する意味での<有意味命題>を作成することではなく、むしろ、<無意味命題>についてのメタ言語としての<有意味命題>を作成することだ。もちろん、こんな道がそう簡単に成功するはずはなく、事実、従来の哲学言語の歴史は、挫折の歴史でしかなかった。しかし今日において、科学の<部分合理性>とは異る<全体合理性>をめざして、コトバの両機能の総体をまるごと明示化し得る道を見いだすことは、哲学の喫緊の課題であるはずで、後期ヴィトゲンシュタインが語っていたような、新たな言語論理化の道を模索せねばならないのである。


 ⑦ まとめ

 【言語の階層性から<深層構造>へ】
 以上のような言語の階層性は、ラッセルにはじまる分析哲学の一部ですでに気づかれていたが、しかしそこでは文学言語のメタ言語的性格も、メタ言語のなかでの科学言語と哲学言語との相違もあきらかになっていなかった。しかし、文化革命の課題に応えるべく構想された私たちの言語階層化理論の課題は、言語の階層性の自覚と言語のきびしい自己限定との要請にとどまるわけにはゆかない。むしろ、文化革命は、こうした階層性の自覚化によって自己欺瞞にもとづく現代言語の混乱を救抜せねばならぬと同時に、階層間のあらたな流動化をも要請するのであり、ラッセルとヴィトゲンシュタインとの論争からもあきらかなように、言語の論理化には言語の階層化が不可欠であると同時に、階層間を貫く論理の単一性の確認もまた必要だからだ。したがって、メタ言語とは、言語の上部構造であると同時にまた言語総体の基底論理でもなければならないのであり、だとすれば私たちも、言語の表層にあらわれた顕在的な論理構造からさらに深くわけ入って、言語のいわば<深層構造>を探求せねばならないだろう。そうした先駆的な業績として、構造主義言語学(ブルームフィールドに代表されるアメリカのそれではなく、ソシュールからトゥルベツコイ、ヤコブソンを経てレヴィ=ストロースならびに現代フランス文学理論の流れ)とチョムスキーの変換生成文法という二つの試みを見いだすのであるが、それらの批判検討のまえに、私たちはまず一旦下降して、上述のような階層化をみずから可能にするような言語とはそもそもどのような本質的性格をもつものであるのか――そのことをあきらかにしてかからなければならないだろう。それが第Ⅱ章の課題である。