2.4.4 『サルトルとマルクス主義』以後のサルトル論 | 竹内芳郎の思想

2.4.4 『サルトルとマルクス主義』以後のサルトル論

 すでに述べたように、『サルトルとマルクス主義』の出版(1965年)以降、竹内芳郎がサルトルについて語る機会は著しく減少することになる。そのうち比較的まとまったものとしては、先述した野間宏『サルトル論』をめぐる論争(1968年)のほかに、「アンガジュマン文学の言語論的再検討」(1971年、『思想』誌1971年11月号~1972年1月号に三回にわたって掲載、『言語・その解体と創造』(初版1972年、増補版1985年)所収)と、②「変貌するサルトル―― 一九六八年<五月>以後」(1978年、『第三文明』誌1978年10月号所載、第三文明社版『文化と革命』所収)、③サルトル『自我の超越/情動論粗描』の「解説」(2000年)を挙げることができるだろう。また、「現象学・構造主義・ポスト=構造主義――現代フランス哲学思潮への一発言――」(1984年、『思想』誌1984年4月号所載、『具体的経験の哲学』(1985年)所収)において、現象学についての包括的な論評をするなかで、サルトルにも言及している。

 この時期以降における彼のサルトルへの態度については、②「変貌するサルトル―― 一九六八年<五月>以後」の冒頭に率直な告白がなされているので、まずはそれを紹介しよう。

 わたしは『弁証法的理性批判』〔1960年刊〕以後のサルトル、とりわけ<五月革命>〔1968年〕以後のサルトルについては、これまでおよそ熱心な研究者としては対処してこなかった。したがってまた、それについて語る機会もほとんど皆無だった。季節社版『実存的自由の冒険』解題2「わが思索のあと」を読んでくださればおわかりのように、サルトルはニーチェとともに、一時期のわたしの思想形成にとって、たしかに或る決定的な意義をもった思想家であり、ために二つの著作をはじめとして、わたしはいままで多くの論考を彼のため献げてきたのだった。それがここ十年来、彼について語ることがほとんどなくなったのは、端的に言ってサルトル研究者たることを廃業したからであり、それを廃業したのは、老齢と半失明の最近の彼にあらたな思想形成を期待するのは無理だと判断したからでもあるが、それ以上に、サルトルとは別個にはじまっている自分自身の理論形成の仕事にすっかり忙殺されてきたからだといえる。ところがこのたび、『第三文明』誌の需めに応じて、<五月>以降の彼の書きまた語った諸文献をそれだけまとめて通覧してみて見いだしたものは、やはり十年まえまでわたしが不断に接して親しんできたあのサルトルの相貌――なるほどこんどは、当然のことながらもうかつてのようなあらたな思想形成の壮大な躍動は見られないものの、歴史としての現代のこの複雑怪奇な転変に渾身の力をもって体当たりし、そこから己れの思想態度をそのつど決定してゆこうとする、<現代の証人>としてのあの彼独特の形姿にほかならなかった。わたしがサルトルに魅せられる最大の点はまさにここにあり、この点に関するかぎり、わたしの知る現代のどの思想家も、いまだかつてわたしを満足させてくれたことはいちどもなかったのだ。現在の彼からはもうあらたな思想を汲み出すことがほとんどできないにもかかわらず、<五月>以降の彼の思想的変貌をここに解明し定着しておこうという気になったのは、ひとえにこの<現代の証人>としての彼の真摯な態度にたいする敬意からにほかならない。

 こうして「サルトル研究者たることを廃業した」彼は、書評において(野間宏『サルトル論』をめぐる論争)、彼自身の言語論の一環として(「アンガジュマン文学の言語論的再検討」)、あるいは、現象学への論評にともなって(「現象学・構造主義・ポスト=構造主義――現代フランス哲学思潮への一発言――」)、といったように、付随的なかたちでサルトルを論じることが多くなった。その意味で、上で部分的に引用した②「変貌するサルトル」③サルトル『自我の超越/情動論粗描』の「解説」は貴重な論考となっている。

 まず、②「変貌するサルトル」の要旨を簡単に紹介しておこう。
 序論部分では、上記のような執筆の経緯を述べた後で、フランスの<五月>が現代史のなかでもつ意義に触れる。つまりそれは、中国における<文化大革命>と同様に、「今後の革命の在り方そのものを根柢的に規定してしまうような」性格をもっていたのであり、そこで多くの知識人たちが自己肯定自己否定との奇妙な屈折を味わうことになる、そうした性格をもっていたと言う。そして、それを踏まえて、この論考の課題が示されるのであるが、それはすなわち、「第一に、サルトルは<五月>のなかに、己れの過去の思想のどの側面をもってつよい共鳴を感じたのであるか、第二に、彼はそのおなじ<五月>のなかに、己れの過去の思想のどの側面における自己否定の必要を痛感したのであるか」、である。
 続く第1章では、<五月>におけるサルトルの自己肯定の側面が解説される。つまり、この時期の彼の態度もそれまでの彼の思索と活動の延長線上にあることが述べられる。具体的には、サルトルの政治活動の三つの段階(これについては、先に「<アンガジュマン>の深化過程としてのサルトルの政治活動について」の解説と「サルトルにおける<全体性>思想の形成について」の要約を参照)を振り返りながら、この新しい段階が一見したところは第一段階にもっとも近く、一種の<祖先がえり>をしているかに見えること、しかし、それは単なる<祖先がえり>ではないこと、すなわち、ア・プリオリな道徳的価値や形而上学的原理からマルクス主義を批判しているのではなく、あくまで歴史のなかでの現代の状況からの切迫した要請として主張されていること、そしてそのような主張の背景には、かつてとは異なっていまや共産党の左に「まだ無定型だが将来性を担ったいくつもの革命的諸集団が簇生しはじめた」という認識と、「既成社会主義国および既成左翼政党が革命運動にたいして敵対し旧権力体制を擁護する勢力に堕してしまった」という認識があったであろう、と述べられている。また、そこでの彼の政治思想も、単なる第一段階の復活ではなく、『批判』の集団論を踏まえた<直接民主主義>の熾烈な強調となってあらわれているとされる。
 第2章では、<五月>によるサルトルの自己否定の側面が叙述される。つまり、サルトルの実存主義は「たえず理論を人間の生きている次元にまでつれもどし、たえず客観的理論とこの生きる主体的次元との関係を問題にしてゆく」ものであるかぎり、思想的には、深い次元で<五月>を準備するものであったとさえ言えるのに、現実の<五月>の異議申し立てにあっては、既成アカデミズム内に安居する<知識人>のみならず、在野の理論家でありノーベル賞を受賞拒否したサルトルまでもが、<知識人のスター性>ゆえに無用だと宣告された、ということが論じられている。それまでのサルトルは、知識人というものを<不幸な意識>と否定的にとらえながらも、そのような<不幸な意識>自体を、階級なき社会をめざす革命運動にとって不可欠な契機として、むしろ積極的に評価してゆこうと考えていたのであるが、<五月>以後にあっては、知識人はもはや<不幸な意識>の段階にとどまるべきではなく、「いまや知識人的契機を自己否定してあらたに人民的資格を獲得するように努力すべきだということ」、彼ら知識人の憧憬する普遍主義社会では「客観的に知識人のための居場所なぞない」ということを覚悟しなければならないということ、知識人は自己の存在の矛盾性を自分自身の内部で抹殺すべきものと感じなければならないということ、を理解するようになった、というわけだ。
 最後の第3章では、上記の自己肯定の側面と自己否定の側面について、第三者の眼から「重大な疑問」を呈する、とされる。第一に、「サルトルの政治思想は、そのときどきの状況に密着して発想され理論化されているため、実に目まぐるしく変貌してきた。そして場合によっては、<五月>以降のように、隔世遺伝的な祖先がえりの概観すら呈することもある。そこで、これは要するに一種の<状況追随主義>ではないのか、という疑念が当然おこってもこよう」、と。この疑問に関して竹内は、政治的態度決定と理論内容とを区別すべきこと、また、反対者にたいする政治的対処の仕方の問題と政治的態度決定における<状況追随主義>の問題とを峻別すべきこと、そして、政治的な問題に関しては判断時点によってその評価がつねに変わり得ることから、決定的な断罪は慎むべきこと、といった点を指摘して、基本的にはサルトルの態度を肯定している。第二の疑問は、「サルトルが<五月>の経験から古典的知識人の擁護→自己否定の大転換をひき出してきた、その論拠はまこと明快だ。だが、それでは彼自身、この大転換を具体的にどのように生きているのだろうか――当然、それが問題となろう」、ということだ。この疑問に関しては、①フローベール論の執筆態度における知的傲慢さ、②ガリマール書店のプレイヤード叢書に自著が加えられることを承諾し、それを<古典作家>への仲間入りとして無邪気に欣ぶさま、③無名の人民のひとりとして実践しようとした彼の政治活動も、実は古典的知識人として彼がもつスター性に依拠していたこと、などを挙げ、「けっきょく彼自身としては、<知識人の自己否定>という己れの主張をみずから文字どおりに実践することは不可能だったようだ」と竹内は評している。しかしまた竹内は、それを一方的・外面的に断罪して終わるのではなく、サルトルが考えたような直線的で性急な<知識人の自己否定>は階級社会にあってはそもそも不可能なのであって、「絶対に自己を肯定することなくしかも自己自身に忠実であること」こそがめざされるべきだと主張する。「けだし、一口に<知識人の自己否定>と言っても、それは単純に知識人が大衆の一員となることではなく、大衆のなかに入りながらもその固有の機能を鋭く大衆につきつけることによって、知識人が大衆にはげしく反撥され否定されながらも、逆に大衆の方もあるがままの(つまりブルジョア的に愚昧化された)大衆の原像をのり超えて進む――そうした双方の弁証法的な同時超克こそが、真の<文化革命>の課題だからである。」

 そして最後に、③サルトル『自我の超越/情動論粗描』の解説であるが、ここで彼は、改訳したサルトルの二つの論文について、それぞれに解説を寄せている。
 「情動論粗描」の解説「『情動論粗描』の三つの注目点」はごくごく短いものであり、この論文の理論的な意義ないし「注目点」として、第一に、心理学に現象学的方法を適用することの意味、第二に、意識自身の全体的な変容または<魔術的>な世界の出現としての<情動>、第三に、<決定論の世界>と<魔術の世界>という二項対立のサルトル哲学における意義、を挙げている。
 一方、「自我の超越」の解説「『自我の超越』における<近代的自我>超克の試みとその現代的意義」は、分量的にも「情動論粗描」の解説よりもはるかに長く、内容的にも人類史的な視点からサルトル哲学を総括するようなものとなっている。その前半部分は、これまで彼が何度も述べてきたサルトル現象学の特徴(自我論と他者論)を反復しているもので(西田幾多郎の<純粋経験>論との比較などが新たに加わってはいるものの)、特にここで紹介する必要はないだろう。ただ、その後半部分は、1970年代末以降の文化論や宗教論の成果を踏まえつつ、<人権思想>との関わりにおいてサルトルの<近代的自我>超克の試みを論ずるものとなっているので、少し長くなるがそこを引用しておきたい。これで、彼の永年のサルトル研究についての記述に一区切りをつけようと思う。

 以上のような新たな《自我論》と《他者論》との合同によって地平を拓かれたサルトルの《近代的自我》超克の試みのもつ現代的意義について、最後に論ずることにしよう。一般にわが国で《近代的自我》の超克と言うと、すぐさま《共生》とか《共同主観性》とかがもち出され、そのようなconformism的方向にしか道がないかのように錯覚されている。如上のサルトルの企てなぞほとんど理解された形跡はなく、むしろもっぱら、メルロ=ポンティ流の、《超越論的主観性》をただちに《相互主観性》ととらえてしまう傾向が支配的であって、この思潮には右翼も左翼も何ら区別がない。例えば和辻哲郎は戦前にはやくも《間柄的存在》をもって人間存在をすっかり既成の閉じた社会関係のなかに還元して因習にまみれた人倫体系の正当化に貢献していたし、一方、戦後マルクス主義者の代表的人物の一人たる広松渉も、「人間の本質とは社会的諸関係の総体である」というマルクスの言から出発しつつやはり同じく人間存在を社会的役割に還元してしまった。両者に共通しているのは、世界の普遍宗教が人類史上はじめて発掘した《裸の個人》なるものへの視点をまったく欠如していることであって、したがって、一方は日本の伝統的な集団同調主義(私のいわゆる《天皇教》)、他方はスターリン主義の根強い個の抹殺の伝統という相違はあれ、両者ともに、《裸の個人》への視点あって初めて可能となる《人権》思想への道を完全に塞いでしまっていることだ。だが、現代世界において、《人権》思想を欠く《近代の超克》ほど有害無益なものは、他に考えられないのではなかろうか?
 実際、私たちが生息してきたこの二十世紀という世紀ほど、大規模かつ徹底的に《人権》が冒されつづけてきた世紀はなく、またそれだけに、今世紀ほど声高に《人権》の重要性が国際的規模で強調されつづけてきた世紀もかつてなかったかに思われる。とりわけ私たちの胸をしめつけてやまぬ事実は、人類の《前史》を終らせるとまで豪語しつつ全面的な人間解放をめざして驀進していたマルクス主義に依拠した共産主義運動が、ひとつの例外もなく、悉く甚しい《人権》侵害のゆえをもって世界的に壊滅して行ったことであって、その侵害のすさまじさたるや、かつてのナチ全体主義や日本軍国主義のそれに比しても何ら遜色がない。人間存在を完全に社会関係に還元してしまう思想が、どんなにすばらしい社会変革を約束しようと、結局は陰惨きわまる結末を迎える他はなかったことを、私たちは身をもって体験したわけだ。一方、戦時中、ナチ全体主義と結託して思うざま人権侵害に狂奔してきた天皇制軍国主義日本は、敗戦後、欧米民主主義を猿真似して上辺だけは人権尊重を装ってはいるものの、一皮剥けば依然たる集団同調主義に支配されたままであって、《閉じた社会》の仲間意識としての《思いやり》をそのまま延長拡大するだけで《開いた社会》の《裸の個人》としてもつべき人権思想にまで辿りつけると錯覚してしまっている。この愚かな錯覚に気づかなければ、わが国で真の意味での人権思想が定着することはないであろう。それというのも、わが国で人権が定着しないのは、他人への《思いやり》がなさすぎるからでなく逆にありすぎるからなのだから。
 ところで、人権思想が社会全体の形成原理となったのは、たしかに近代欧米市民社会においてではあったが、人権思想そのものの根は、もっとはるかに古く、うち続く大戦乱のなかで旧来の共同体社会から裸のまま放り出された諸個人を裸のままに救済しようとして生まれた《普遍宗教》(BC七世紀のゾロアスター教からAD七世紀のイスラム教にいたる)の成立期まで遡ることができる。そして世界各地で誕生した普遍宗教は、その多様な形態にもかかわらず一つの例外もなく、その根底に自我主義からの自己解放我欲の滅却の思想を秘めていることが注目される。ところが近代市民社会は、普遍宗教から人権思想を継承し社会的に定着させることに成功した点では偉大だったが、そうするに当って、この側面を不当に軽視し、むしろその資本主義経営のあくなき利潤追求の要請から、人権思想を自我主義の異常肥大の形態のもとに実現したにすぎなかったのである。青年マルクスが、「近代社会では市民社会と政治国家とが分裂し、したがって《人権》と《公民権》とが分裂し、こうして分裂したかぎりでの《人権》とは、けっきょく、利己的人間の、人間と共同体との結合から切り離された人間の権利、つまり《私有財産》擁護の権利でしかなくなってしまった」と嘆じた所以である。とすれば、近代哲学の主流が、一貫して自我主義(実質上の《独我論》)に支配され続けてきたのも当然だろう。ただ、だからと言ってその反動のあまり、闇雲に《共生》だの《共同主観性》だのの復興を称えたところで、またも《個》の存在を無視することで《人権》の成立基盤そのものを奪ってしまう、左右を問わぬ全体主義国家を現出させておわること必定だろう(いわゆる全体主義国家とは、個人のegoの代りに国家のegoをもってきただけの、いわば《拡大されたegoism》にすぎぬことに注意)。どうあっても《個》の存在にこだわりつつ、しかも近代的自我主義の泥沼からも脱却できるあらたな《人権》思想の形成が求められねばなるまい。そのような要請を心に秘めつつこのサルトルの思想的営為に対面するとき、そこに自我主義から脱却した個の意識(具体的経験)の尊重と、自我からの類推に依らぬ、自分から完全に自立した他者の存在の確認の理論を目にして、深い共感を覚えることができるのではないかと思う。