2.2.1 概観 | 竹内芳郎の思想

2.2.1 概観

 次に、論文集『文化と革命』に収められた文学論と中国革命論を見ておきたい。
 この文化革命の探求は、後の第4章で述べる時期においておおむね完成を見るものであるが、この時期において、まずは<文学>を切り口として取り組み始められていた。その問題関心は以下のようなものだ。「たしかに、現代革命の際立った特徴として、革命が単に経済制度や社会構造、あるいは政治権力の奪取だけにかかわるのではなく、<人間の全体性>を包括するトータルな文化革命とならざるを得ぬ」。そして、「<文化革命>とは、決して単に革命が土台から上部構造の先端にまで全人間的につき進むということを意味するだけではなく、より根源的には、革命そのものが不断に革命されねばならぬという、或る重層的な構造を意味する」。「そのとき、もろもろの文化のなかで、とくに<文学>が特別の意義を帯びてたちあらわれてくるのであって」、というのも、「まことに<文学>の独自性は、すべてのポジティヴな文化のなかにあって、ひとりNegativitätをもって特徴づけられる」からだ。したがって、「たとえ文学が革命とかかわるとしても、それはまず、何よりもその否定性の性格によってであり、否定的に革命にかかわることによって、それは革命に無限進行する或る反省的次元を与えてゆくのである。」「それゆえ本書では、否定性を介しての<革命の中の文学>と<文学の中の革命>との切点、あるいは<政治的前衛>と<芸術的前衛>との切点の問題が特に追求され」るだろう、と(盛田書店版の「まえがき」)。彼は、1968年に書いたこの「まえがき」の最後に、「こうした問題は、あらかじめ見取図を描いておくにはあまりにも複雑に錯綜しており、したがって私は、真正面から問題をすぐさま概念化して体系的に論ずるよりは、個別的な諸問題をとり上げながら『からめ手から』徐々に問題の核心に肉迫してゆくという方法を取らざるを得なかった。いつ目的地に到りつくのか皆目わからないけれども、今後ともおなじテーマのもとに、問題追求をやめないつもりでいる」と記したが、この企ては、1972年の『言語・その解体と創造』を経て、1981年の『文化の理論のために』、さらには、1988年の『意味への渇き』で成就されることになるであろう。
 ところで、この論文集は、1969年に盛田書店から出版され、その後絶版になっていたが、10年後の1979年に第三文明社のレグルス文庫の一冊として復刻されている。その際、新書版のレグルス文庫としての復刻であったために、収録論文が大きく変更されている。いずれの版にも収録されているのが、「敗北の中の勝利――トロツキー『文学と革命』について」(1966年)、「魯迅――その文学と革命」(1967年)、「<文化大革命>の思想的意義」(1967年)の三篇であり、盛田書店版に収録されていた「魯迅における文学と革命」(1967年)、「マルクス主義と中国革命」(1967年)、二編のサルトル文学論(1968年)が削除され、レグルス文庫版には新たに「変貌するサルトル―― 一九六八年<五月>以後」(1978年)が加えられた(レグルス文庫版の「まえがき」参照)。
 本章では、トロツキー論および魯迅論の要約と、文革論の抜粋ノートを後に掲載するが、その前に各論文を簡単に紹介しておこう。


 まず「敗北の中の勝利――トロツキー『文学と革命』について」(1966年)であるが、この論文は、今日においても十分に明らかになっているとは言えない芸術と政治や社会との関係をいかに理解するか、という問題を論じているという点において、古典的マルクス主義の理論的枠組みにもとづくものでありながら、今日読んでみても実に興味深い内容となっている。また、次の時期における言語論との関連という点でも(すでにここには彼の「言語階層化理論」の原型が見出される)、重要な意味をもつものだと言えよう。


 続く「魯迅――その文学と革命」は、トロツキー文学論と同じように「文学と革命との内的連関」の問題を、やはり革命者であり文学者である魯迅を通じて究明しようとしたもので、その理論的な水準は抽象的であるにもかかわらず、革命家または思想家の実存を深く問うものとなっている。そのような意味で、まさに竹内芳郎らしい作品であると言えよう。なお、先述したように、盛田書店版の『文化と革命』には、この魯迅論の次に「魯迅における文学と革命」が収められていた。これは、1967年4月15日の新日本文学会主催「魯迅没後三十周年記念特別連続講座」での講演をまとめたものであるが、著者自身が上記の魯迅論の補論ないし補註にあたるようなものだと述べられており、詳しく紹介する必要はあるまい。


 最後に、「<文化大革命>の思想的意義」に移ろう。これは、1967年7月10日の筑摩講座『中国』第一巻シンポジウムの報告をまとめたものである。この論文の成立事情はやや複雑なのであるが、結果だけを言えば、このシンポジウム報告を構成する四つの部分のうち、「(A)革命中国を見る基本的態度」と「(B)日本マルクス主義者の中国批判の批判」の二つの部分が、盛田書店版の『文化と革命』に収められていた「マルクス主義と中国革命」に相当し、「(C)<文化大革命>の意義」と「(D)残された疑問」の二つの部分が、この「<文化大革命>の思想的意義」に当たっている。そして、前者が第三文明社版で削除されたのは既述のとおりである。
 ところで、この論文は、その表題から推測されるような文化大革命の盲目的礼賛の作品ではない。それは、論文の冒頭で次のように述べられていることからも明らかであろう。「ここで私にふり当てられた役割とは、マルクス主義の観点から見て、革命中国は一体何を意味するかを、検討してみることでありました。」「われわれ自身がわれわれ独自で日本をどうするかという主体的立場をあくまで堅持しつつも、この立場に革命中国が一体何を教え寄与してくれるかを虚心に検討してみること、私たちが近代社会のなかで近代主義的発想に馴らされてきたためにわからなくなってしまった貴重な問題点を、革命中国の苦悩と激動の息吹きとを通じてもう一度発掘し直すことであります。」「私は現在の時点で革命中国について断定的な判断を下すことは、どんな判断を下すにしろ、それ自体が誤った態度だと考えます。革命的現実というものはつねに新しいものでありまして、つねに既成の知識の枠をのり越えるところにその本領があります。それゆえ革命ロシアについても、私たちは今まで実に多くの誤った判断を下してきたのでした。革命中国についても事情はおなじであるはずで、きわめて不十分かつ不確実な情報と資料とに基いて、目下進行のさなかにある革命中国の現実にたいして勝手な判断を下しているくらいなら、いっそ、もっと抽象的な思想的次元にはじめから身を置いて、われわれのマルクス主義に革命中国はどのような新しい思想的課題をつきつけているのか、それをじっくり検討して行った方がよいと思うのです。」このように、何を研究の対象とする場合にも、つねに自己の実存のあり方を問い質しながら進めようとする彼の思索方法は、ここでもはっきりと表明されており、それがこの文革論の大きな特徴をなしている。
 にもかかわらず、私は、これをそのまま要約する意欲が湧かないのも事実だ。それは、第一に、「現代マルクス主義に対する中国革命の意義についての考察」が意義をもつのは、マルクス主義それ自体に大きな思想的意義があるかぎりにおいてのことであるが、まさにこの前提が今日では疑念に晒されているからだ。第二に、それがたとえ「あえて」選択された立場であるとしても、この論文は、全体としては文化大革命の思想的意義を高く評価する論調が支配しており、それがもたらした甚大な惨禍を知る今日の私たちの目からすると、そこに大きな違和感を感じないではいられないからだ(約10年後に書かれた第三文明社版の「まえがき」では、当然のことながら、その評価はある程度まで見直されている)。
 以上のことから、ここでは、この論文全体を紹介するよりも、彼が中国革命を論じるなかで提示している、当時のマルクス主義ないしマルクス主義者に対する批判的視点に的を絞って、それをまとめてみようと思う。つまり、彼の文化大革命への評価の部分は捨象して、文化大革命の受け止め方と当時のマルクス主義の状況に対する批判を中心に、これを抜粋してゆこうと思う。それと言うのも、その視点がそのまま、次節で紹介する彼のマルクス主義研究の背景をなすものとなるからだ(もちろん、執筆時期は前後するわけだが、その視点はほぼ一貫していると思う)。