1.1 原体験または基礎経験としての戦争体験 | 竹内芳郎の思想

1.1 原体験または基礎経験としての戦争体験

 小熊英二は、太平洋戦争期の日本を、特にその末期を、「モラルの焦土」と呼んだ。それは、政府や軍の幹部だけではなく、多くの兵士、軍需工場、住民組織、子どもたち、そして知識人など、社会全体を覆った道徳性の荒廃であった。
 政府と軍は、「まったく勝算がないまま」日米戦争を開始した。そして、そこを支配していたのは唖然とするほどの「無責任」と「セクショナリズム」であった。海軍も陸軍も互いの情報を伝えることなく無意味な作戦を試み、多くの兵士と現地住民が死んだ。そんな状況のなかで兵士たちの士気は否応なしに低下していった。
 軍需工場においても陸海軍のセクショナリズムは著しく、それが費用を無駄に増大させ、増産を妨げさせた。長時間労働や食料の不足、不合理な精神主義の押しつけなどによって、生産の現場は失望し、生産の能率と質は低下した。さらに、職制による横流しや横領、企業と官僚との癒着は現場の人々を落胆させ、面従腹背が人びとの習い性となった。
 こうした面従腹背、嫉妬、憎悪、いじめは、組織生活と統制経済のもとで一般国民にまで広がっていった。隣組や町内会などの公認組織は、住民の生殺与奪を握る強大な権力となり、政府の政策に人々を動員しただけではなく、国民どうしの相互監視や密告を横行させた。集団疎開の児童たちが直面した状況も、まさにそうした大人社会の縮図であり、仲間はずれ、いじめ、集団リンチ、班長への色目使いなどが常態となった。
 知識人たちのモラルも崩壊した。1930年代後半までに共産主義運動は徹底的に弾圧され、多くの共産主義者が転向していった。激しい弾圧の恐怖は、知識人たちのあいだに、孤立感と疑心暗鬼を生み、さらにその疑心暗鬼は、作家や知識人の勢力争いによって拍車をかけられ、醜悪な密告、裏切り、偽証を生んだ。こうして「恐怖と疑心暗鬼に突き動かされながら」、多くの知識人が「競いあうように戦争に協力していった」のであり、まさに小熊が言うように、「これは知識人の戦争体験のなかでも、もっとも醜悪な部分であった」だろう。「便乗によって最後まで利益を得られたごく一部の者を除けば、多くの知識人にとって、戦争はまさに悪夢であった。それは、崇高な理念が表面的に賛美されていたのと裏腹に、恐怖と保身、疑心暗鬼と裏切り、幻滅と虚偽がないまぜになったものであった。他者への信頼と、自分自身の誇りが根こそぎにされるようなその体験は、しばしば屈辱感と自己嫌悪なしに回想できない、お互いに二度と触れたくない傷痕として封印された。」
 学徒兵たち――そこには竹内芳郎も含まれていた――もまた、この「モラルの焦土」のなかで苦悩した。彼らの多くは、「ほとんど死と同義」である軍隊入営に際して、それでも己れの死に意味を見出そうとしたのであり、それゆえに、京都学派の哲学者たちの『世界史の哲学』は、その愚劣な戦争賛美の思想にもかかわらず、彼らに爆発的な人気を得たのであろう。ところが、そんな彼らが入営後に体験したのは、「理念や理想などとはまったく無縁の、不合理極まりない生活であった。」すなわち、下士官や古兵による新入り学徒兵へのリンチ、無益な精神主義などに代表される軍の組織や訓練の非合理さ、食料や物資の横流しに見られる軍隊内の腐敗、情実にもとづく不明瞭で不公正な人事や人選、著しい階級格差のもとでの上官の不正や贅沢や無責任、抑圧された兵士たちの占領地住民への残虐行為、農民や下層出身の兵士たちの卑しさや学徒兵への憎悪、他方では同じ下層出身兵士たちのやさしさや思いやり、自分たちが学んできた学問や知識の無力さと日本社会に関する無知についての自覚、といったものであった。
 こうして道徳的な腐敗と荒廃を増大させながら、日本は敗戦に向かって突き進んでいった。1945年2月に近衛文麿が天皇に降伏交渉を上奏したが、昭和天皇はそれを拒否し、結果として、それから終戦までの半年間に日本の戦死者、特に民間犠牲者が集中することとなった。しかも、敗戦後の極度のインフレと住居の焼失、絶望的なまでの衣料や食料の不足に国民が苦しむなか、高い地位の軍人や為政者は物資の横流しや横領によって蓄財さえしていた。また、「徹底抗戦や『一億玉砕』を唱え、部下に特攻を命じていた高級軍人のうち、敗戦時に自決した者はごく少数だった。『生きて虜囚の辱を受けず』という戦陣訓を示達した東条英機陸軍大将が、自決に失敗して米軍に捕らわれたことは、多くの人々の軽蔑と憤激を呼び起こした。」さらに東京裁判においては、「アジア解放」の名のもとに日本軍が多くの残虐行為をしていたこと、そして、日本の為政者がいずれも自己の戦争責任を否定したことが、人々に大きな衝撃を与えた。これが戦争の現実だった。「虚偽と保身、無責任と頽廃、面従腹背の裏にあったエゴイズムの蔓延。物理的な敗北だけでなく、精神的な崩壊がそこにはあった。」(以上の記述は小熊『民主と愛国』による。)
 竹内芳郎の思索もこのような戦争体験を「基礎経験」として始められたのだった。

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 1924年生まれの竹内芳郎は、21歳となる年に終戦を迎えた。彼は、鶴見俊輔、梅原猛、吉本隆明、三島由紀夫、橋川文三などとともに「敗戦時に一〇代後半から二〇代前半の青春期だった世代」としての<戦中派>に属する。なお、丸山眞男や竹内好などの敗戦時に三〇歳前後だった世代は<戦前派>、江藤淳や大江健三郎や小田実などの敗戦時に一〇歳前後の世代は<戦後派>または<小国民世代>と呼ばれた。
 彼ら<戦中派>の知識人たちは、「戦前に一定の人格形成を終えていた丸山らの世代とは異なり、ものごころついたときから戦争のなかにいた。」「さらにこの『戦中派』は、戦中に最大の動員対象にされ、もっとも戦死者が多かっただけでなく、中等・高等教育をまともにうける機会をもてなかった。また彼らの幼少期は皇国教育が激化した時期であり、しかも極度の言論弾圧のため、マルクス主義や自由主義に接することも不可能だった。そのためこの世代は、幼少期から注ぎこまれた皇国思想を相対化する経験も知識もなく、敗戦まで戦争に批判的な視点をもたない者が多かった。」「生まれたときから戦争状態だった彼らには、戦争に批判的な思想をもっている人間がいたことも、戦争以外の状態が存在することも、想像できにくいものだった。」(小熊同上書)
 しかし、このような環境のなかにあっても、竹内芳郎はこの戦争の醜悪さについて鋭敏な感性をもち続けていたようである。そろそろ彼自身の言葉を聞こう。

 <精神>の最初の目覚めを体験した旧制高校の時代を、ぼくは戦争末期の動乱のなかですごした。当時はもう社会科学的知識は完全に弾圧され、死滅していたので、戦争に関する社会科学的分析なぞ、到底ぼくらの手の届かないものとなっていた。でもぼくは、何もわからぬままに、この戦争を人間精神にたいする理不尽な暴行だと感じて、戦争と軍人とそれを合理化し神聖化する文化人(つまり当時の殆どすべての知識人)を烈しく憎んだ。当時のぼくの精神的姿勢を最初に支えてくれていたものは、おそらく新カント派的な人格主義――この大正デモクラシーの淡い残照であったのだろう。だが、こんなものでこの時代を抵抗的に生きぬくことが不可能なことはあきらかであって、時代へのぼくの憎しみは、まもなく底のないニヒリズムと化した。そしてこのニヒリズムが思想的な型をとってきたとき、ぼくは<生哲学>に、すでに実存主義的色彩を濃厚に帯びた生哲学に、つよく惹きつけられて行った。だが、それもまことに混沌としたもので、<生の哲学>なのか<死の哲学>なのかのけじめもつかぬほどのものであり、最後にぼくは『歎異抄』から書き抜いた一文を身につけて、すでに敗戦の色濃い戦場に赴くより方途がなかった。(季節社版『実存的自由の冒険』解題2「ニーチェと私」1965年)

 戦争と敗戦の事実は、ぼくらの世代を根本的に規定した。一切の観念・一切のイデオロギーがことごとく曖昧なものとして疑われようとも、なお残る唯一の絶対的に確実な現実として、ぼくらは銘々が内的に経験した戦争という「基礎経験」をもっている。それにたいして各自がどんな解釈を施し、そんな解決を試み、ないしはどんな自己欺瞞を企もうと勝手だが、その現実そのものは微動だにせず依然としてつねにそこに在る。愛する学友たちが叫び残した「わだつみの声」は、一生ぼくらの耳底を離れまい。(『実存的自由の冒険』解題2「新しく哲学に志す者の一つの独白」1952年)

 そうして彼は、この「独白」を、さらに次のように続けている。

 このとき、ぼくらの背後に聳えていた哲学の殿堂は、たちまち一変してことごとくのり越えられるべき累々たる屍の堆積となる。ドイツ哲学の強靭な伝統を継承し、すでにわが国独特の哲学を育成しつつあるかにみえた優れた先輩たちが、その難解な論理の鎧の下に実は「ホメロス以前」の思惟しか秘めていなかったという事実は、何と無慙な幻滅であったことか。ぼくらはここに、己れみずからをレヴォルテとして確実に意識する。しかも変革は単に学問の専門分野内にとどまることはできない。哲学者の在り方自体が根底から問われているのだ。何故なら、ここでの批判の焦点は、進歩とか反動とかいう学説の如何に在るのではなく、哲学する態度そのものに深く関わっているのだから。……
 かくして戦争を経過した若い世代の哲学の第一歩は、生活と思索との緊密な結合から始まる。蒼白な体系病患者から徹底的に回癒し、具体的な生に息づく真摯な生活者の思索こそ、ぼくらの希いだ。ぼくらにとって、哲学するとはそのまま現存するということだ。現実の苦悩に身を挺して生き、その生のいぶきにのみ一切のフィロゾフィーレンの源泉を求めること、現実にぶつかって傷つき、みずから流した己れの血だけに哲学の確実さの保証を求めて一歩もゆるがぬこと――その覚悟は苦い、だが他にどんな術があり得よう。


 彼のこの戦争体験と、それを受けて彼が戦後まもない時期に心に刻んだこの決意とが、半世紀以上に及ぶ彼の思索の歩みにおいて、その方向性を決定したことを、私たちはこれから幾度も確認することになるだろう。
 そう、竹内芳郎の思想の際立った特質は、そのゆるぎない一貫性にこそある。もちろん、彼の理論や思想は、半世紀を超える年月のなかで少しずつその内容を変えている。しかし、この「哲学する態度」に関してはまったく変わっていないように見える。それは時に頑迷でさえあり、そのゆえに彼はほとんど孤立した存在となった。しかしながら、私はそれを現代の日本においてなお価値あることだと思う。