カリタス学園スクールバスへの襲撃事件は | 社会の窓

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カリタス学園スクールバスへの襲撃事件は 
その背景や経過からも 
子どもの安全はじめ、精神保健の福祉や医療の課題、それにだれでもよい通り魔的な拡大自殺のけっかではなく、カリタス学園を標的としたものであったとするなら。カリタスというキリスト教の教育機関に、なぜ強い殺意を向けるようになったのか、カリタス学園やキリスト教がこの社会に、一部の人々にとって強い殺意を抱かせるほどのに異質なもの映ったのかという様々な課題を考えさせられる。 
結論はでないけど。 
 精神保健の課題で、福祉や医療はなんとか支援をできなかったのかとおもうのだけど。様々な支援の中で、このひきこもりという課題には今の制度では非常に支援しにくい。アプローチしてくれれば応えようもあるけど、接触を拒否されたら、強制処置をとる理由も発生していなければ、こちらからアプローチすることは難しい。インテークからアセスメントそれから支援という過程をとる今の相談援助の限界でもある。 
 子どもを守る、安全を守るということには、特殊な武器なら流通や製造を取り締まることもできるけど、また危険場所にはちかづかないというのも基本だけど。朝のバス停に包丁ということでは事前に防ぎようもない。こういう時はとにかく逃げるしかないでしょう。誰かをかばうとか取り押さえることを素人が考えると被害を大きくしかねない。せめて「大変だ逃げろー」と大声で呼びかけながらみんな我先に逃げることを考えるしかないかな。逃げる練習をしておきましょう。 
 キリスト教が、標的なったとすれば。それはキリスト者がこの社会での生き方を考えることでしょう。実はキリスト教は信者の数が最も多い宗教でありながら、宗教として非常に特異で極端な一面があります。そもそも成立当初から、教祖が政治犯として死刑になりその幹部のほとんどもその社会に危険な存在として処刑や弾圧迫害にあっています。それでも人々に伝わり今でも拡大しているということは、そこに真実があるから感じられるからでもあるのでしょうが。こういった問題を殉教として美化している一面がありますが。社会との軋轢、殉教、迫害といった問題を、それがキリスト教というものよ、と放置せず。すこしでも問題を解消する努力も一方では必要ではないかとおもわせる事件でもありました。