取り調べの可視化だけでは、人権は守りえない | 社会の窓

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取り調べの可視化だけでは、人権は守りえない

 取り調べの可視化を求める市民団体、弁護士協会、人権団体のセミナーに参加して、取り調べの可視化はこの日本において早晩なんらかの形式で導入されるであろうという感想を持った。日本では法務省や法務大臣はまず積極的である。これは司法の監督業務をおう立場にあるので、取調べの可視化は、法務大臣と官僚にとっても現場の可視化であるのである。可視化に反対しているのは可視化される受身の立場である、検察と警察である。また一般市民の民意というものやマスメディアも可視化容認のほうに大勢はうごいている。一般市民の大多数、すなわち大衆は基本的に知りたがりやで覗き趣味である。犯罪や事件のことはとかく知りたがる話したがるものである。それを媒介して収益を得るマスメディアが、より得られる情報量がふえる可視化に賛成に回るのは当然である。テレビやネットの報道を介してこの課題を眺めると、可視化導入の賛成論がおおい。ただしこの可視化賛成論はマスメディアの一般大衆の知りたがるという性癖に応えることで、自分たちの利益も向上するということに過ぎず。知ったことに責任を持つか、もしくは責任を持ちなお果たせるのかということとは別問題である。この点が取り調べの可視化がはたして人権を擁護するという役割を果たせるか否かにかかってくる。

 警察も可視化に反対しているようであるが、可視化によって警察はその立場をより優位なものにできるかもしれないので、ここは彼らは要検討したほうがよい。業務が増えて煩雑になるかもしれないが、より正確とされる情報量をより多く扱うことで、検察にも弁護側に対しても切れる交渉のカードが多くなるのである。本来警察は刑事事件の全容を明らかにする実働部隊であって、検察に対しても弁護側に対してもまずは中立でありうるし、本来そう在るべきなのである。しかしながら、日本では警察は検察の下部組織であるかのように動き、検察に協力して検察に有利な情報をひたすら集めて提供するということになってしまっている。可視化導入と組織の体質改善で、より立場の強い組織になることができる。それでもなお可視化に反対するとなれば、なにかワルイコトをして隠しているに違いないとかんぐってしまう。

 取り調べが可視化されても、それでかなりの問題が解決されるわけではない。多くなった情報量を扱う組織や担当者個人に不正があった場合は可視化された情報も活用されない。たとえば午前と午後二回の取調べのうち、一回は不利な情報があるので破棄してしまい、取調べが行われたという記録も抹消することができてしまえば。その可視化された情報は活用されない。単純な理屈である。または取り調べの側はプロ、経験をつんだ玄人である、その技術、技量の差で情報を操作できる。さらには可視化されているから大丈夫だろうという過信がおこる可能性もある。この過信こそが警察への信頼が増すという警察の側からの可視化賛成の理論であるが。上述のように可視化されても可視化なりの情報操作は可能なので。それら細かいことまで知りえない一般大衆が可視化の過信に傾くとかえって危険である。

僕はもっと多方面での可視化及び情報の公開が必要に思える。可視化をいまはビデオカメラで撮影してテレビモニターでみんなでみる。という最も分り易い側面で捉えているが。ほかの場面での可視化、もしくは可聴化は、たとえば拘束された時点で、被拘束者は発言も情報伝達も困難になりそれらも拘束者が情報を管理するのが当たり前のようになっている。これでは拘束者側に不利な情報は表に伝わらない。現状では身柄の拘束さえしてしまえば、物理的にも情報も拘束者側が自由にコントロールできてしまう。

被拘束者は被疑者でもあり証拠の隠滅や脱走の計画を図るやかもしれぬ、という拘束者側の事情もあるだろう。では譲歩して秘密の相談プライバシーの保秘はべつにして、衆目の環境で自由に発言させてなにか刑事事件の捜査や被疑者の拘束に問題が生ずるであろうか?ラジオやテレビに出演して話をしてなにか問題が生ずるであろうか?ラジオやテレビ公共のメディアで脱走計画や証拠の隠滅を公表するとなにか問題があるであろうか?面会面談も拘束者がわが管理して、面会を禁止することも多いが、当事者同士があって話してよいといっていることを、拘束側がそれを強制的に制限もしくは禁じる必要があるであろうか?心配ならそれこそ可視化して記録しておけばよい。会話は記録と監視をしますがそれでもよいですかとたずねて、それでもよいということであれば、どんどん話でも面談でも、家族親族であろうが、ジャーナリストであろうが、弁護士であろうが、教誨師の宗教家、通りすがりセールスマンであっても一向に構わないはずではないだろうか。

刑務所から選挙に投票してもよいと僕は思う。刑務所に拘束されるという決定は司法権から決定される。日本は近代国家として三権分立の体制をとっていて、立法、行政、司法の三権は、お互いに監視、牽制、協力することによって成り立っている。行政権の不正は司法権が監視するのである。これは分り易いと思う、最近もよくある話である。して司法権が不正を働いた場合、その被害者はどこに訴えればよいのであろうか。しかもすでに拘束されてしまった場合。この司法権による拘束は理不尽で非合法であるという訴えは、立法権になされて法律の改正を求めることになる。その立法権へのアクセスは国政選挙への選挙権である。この刑務所への被拘束者の選挙権まで停止するという措置は、あまりだれも疑問を呈しないが、憲法の基本的人権にも、近代国家の三権分立の原則にも大きく違反しているのである。

このように、現代の日本では司法権への監視、情報公開が著しくかけているのである。

取り調べの可視化も重要なテーマである。ないよりあったほうがよい。本当の課題はまだまだこれからでそれがなければ、取調べの可視化だけではかえって悪用される可能性のほうが高いと考える。

福山克也  2012・4・24