北方文化博物館の金庫 | アジアクラフトリンク

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数十年ぶりに北方文化博物館の金庫が開けられたそうですね~!
中には
会津八一が7代目伊藤文吉さんに宛てた書簡数百点や株券が入っていたとか。
数十年もよく開けないでいられたものですね。
さすが豪農、太っ腹です ふとっぱら

それにしても、会津八一の書簡数百点はすごいですキラキラ
当時の交友関係を探る貴重な書簡となるようです。
金庫の中でひっそりと息をひそめていたのですね。

現在の館長のお父さんである七代文吉さんは
当時では大変珍しいアメリカ合衆国のペンシルバニア大学に留学経験がありました。

太平洋戦争敗戦後の農地改革、一連の民主化政策によって地主制度は解体され
代々が営々として築いて来た城は進駐軍によって
危うくアパートとして壊されかねない運命にありました。
その時の進駐軍調査員がライト中尉。

偶然にも七代文吉さんが、ライト中尉の同校先輩にあたることがわかり
中尉は屋敷を解体せず
伊藤家に代々伝わる生活や文化を
地域のために残す博物館とすることを進駐軍上層部に進言し
それが戦後民間博物館第一号となった北方文化博物館の始まりとなったそうです。

博物館として生まれ変わって60余年です。
現館長・八代文吉さんは
「戦争は国の文化も人の命もなくしてしまうが、その歴史をまた作り上げるのも人間。
殺し合った日米の若者が分かち合い、日本人が大事にしていた食生活や文化を伝える博物館にすることになったのは宿命のようなつながりを感じます。
親父とライトさんが夢見たものを大切に伝えて行きたい。」

と話しておられたようです。

集古館
集古館

集古館は、博物館の西北にある白壁と瓦の土蔵造りの建物で
昔は飯米蔵として、多い時で2,000俵の米俵が積まれていたと言われています。
現在は、歴代の当主達が収集した書・画・古美術品などが展示されていて
伊藤家の優雅な暮らしぶりを知ることができます。
会津八一の書簡もここに展示されるのでしょうね俳句

会津八一は、歌人で書家でもありました。
雅号は、秋艸道人。
1951年に新潟市の名誉市民になりました。
万葉調を基調としながら、近代感覚を歌い上げた独自な歌風を樹立しました。
書家としても一家をなしました。
新潟古町の老舗料理店では、会津八一の書を見ることができます。

タイミングよく
会津八一記念館がメディアシップに移転する記念の
「会津八一記念館移転特別展」が8月1日から始まります。

   かすみたつ はまのまさごを ふみさくみ 
   かゆきかくゆき おもひぞわがする

     (春の霞が立ち込める砂浜を踏付けて
     行きつ戻りつして物思いに耽っている。)


八一が東京に住んでいた頃に故郷・新潟で過ごした少年時代を懐かしんで詠んだ歌です