一人二役 (幻冬舎よしもと文庫 14-1)/河本 準一
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アメブロの検索ワードに『顔も知らない 扶養義務』というものがありました。
扶養義務を求めている生き別れた親が、DV(家庭内暴力・児童虐待)加害者であった場合、その親の暴力を自分で体感した子どもは、親自身の過去からの行いを考えれば、そんな親、面倒なんか絶対に看るものか!どこで野たれ死にしようが因果応報、自業自得という想いにもなるかもしれない。
けれども乳飲み子の時に生き別れていた場合はどうでしょうか? 面会交流もしない養育費もない、まったく音信不通になっていた顔も知らない親の扶養義務を突然に求められても、子どもはどうしたらよいのか、どう思えばいいのか!? 本当に途方に暮れてしまう・・・
東京都で面会交流の仲介支援を始めたけれど、これは実に画期的だと思います。
・養育費の確保。
・DV問題の防止。
・児童虐待の防止。
・社会的養護者の軽減。
・貧困層(生活保護受給)の軽減。
・孤独死の予防。
・扶養義務者の確保。
・遺産相続問題の迅速な解決。
ざっと挙げただけでも、公共機関が面会交流の仲介支援を行えば、これだけの事柄が解決できるかもしれない・・・
無責任な親を無くせるかもしれない。
まあ、そう思ったからこそ私は面会交流仲介支援を始めたんだけど。
【我々はどこから来たのか? 我々は何者か? 我々はどこへ行くのか? 生き別れた親に会いたい。】でも触れましたが、子どもには自分の命の源を知る権利はあります。
0歳だから何も解らない、というのは、大人の勝手な言い分にすぎないように思えてなりません。
父母が離婚する際に、子どもとの面会交流は絶対に決めてほしい。
将来、子どもたちが父母の扶養義務について、何の違和感も疑問も持たずにいられるように。
父母の老後の面倒を看るのは、子どもとして当然だと思えるのは、育ててもらったことを恩として感じることができるからで、それは自分が父母から愛されていたと感じているからで、本当に幸せなことなのかもしれないと、この頃思います。
別に自分たちの老後の面倒を看てもらうために子どもを育てるわけではないと言うかもしれない。
だが、子どもは、親の立ち居振る舞いを、よく見ている。
果たして、自分たちは人生の先達として、子どもの良き手本となりえているだろうか?
子どもの父母として、恥ずかしくはないだろうか?
自分たちは子どもと向かい合えているか?
自分たちの葛藤に子どもを巻き込んでしまってはいないか?
子どもたちの前で自分たちは父母として、どうあるべきかを常に考えています。
面会交流は『育児』であり、『育自』でもある
面会交流仲介支援の
NPOびじっと・離婚と子ども問題支援センター