日本の社会は、管理社会へと進んでいるような気がする。

 管理社会どうのということは、よく言説されて久しいが、特にここ十年くらいの間に、その傾向が強まっている感がある。

 管理社会とは、当然閉塞的で息苦しい社会ではあるが、現在の日本で進行している管理社会は少し特長的なものでもろう。


 一般的に言われるところの「管理社会」と対比して、現代の日本の管理社会とは、どこが違うのであろうか。


 管理社会というものが想定される場合の多くは、支配者層による一般大衆への管理という意味合いが多い。

 管理する側の支配者層は、その時代時代によって、封建領主であったり、資本家であったり、はては独裁者であったりする。

 現代における途上国の軍事政権や北朝鮮のような共産主義国家においても、支配層が国家、そして国民を管理しているからこそ、その歪な体制は維持されているのだ。

 彼らは自分たちの社会的な立場が優位に保たれるように、その他大勢の一般大衆を管理する。


 それに対して、日本では「格差社会」とかは言われるが、明確な固定化された支配層などは存在しない。もちろんのこと、戦前のような国家による過度な統制もないし、秘密警察なんてものも存在しない。

 では、この現代の息苦しい管理社会において、誰が何を管理しているのだろうか。

 それは一般の人々それぞれが、お互いにお互いのことを管理しているのだ。

 管理という言葉がふさわしくないのならば、監視して、無言の雰囲気のうちに締め付けあっているのだ。

 これは、何か少しでも世間の価値観の枠から外れると、強烈なバッシングが、お互いの人々から交わされることを見ても明白である。まさに「村八分」。

 まさに江戸時代のムラ社会。閉塞したドン百姓の社会ではないか!

 戦前にあった隣組的な社会ではないか!


 当然、現代社会においては地域コミュニティーは崩壊の一途をたどっているので、厳密にはかつての閉じた狭い社会のありようはないだろう。

 むしろ、狭いムラ社会による管理社会ではなく、すべての広い社会における管理社会になっているのだ。だから逃げ場がない。


 そして現在の日本において、唯一残された狭いムラ社会である「学校」の場において、この傾向は顕著に表れてくる。

 子どもたちは、かつてのように親や先生によって管理されているのではなく、子供たち同士の相互作用の磁場によって管理されてしまっている。

 それは仲間うちでの様々なルールやヒエラルキーとして表出し、それらを無視すれば(相互管理を拒否すれば)、それは「仲間はずれ」や、酷い場合は「いじめ」へとつながっていくのだ。


 よく現代の教育現場では、「個性」と「多様性」がキーワードとか呑気に語られているが、現実の状況は正反対のベクトルのもとに突き進んでいるような気がする。


 何とも生きずらい世の中だ。自らで自由を押し殺して、どうするというのだろうか。


 人のことを気にするのは、いい加減やめよう。

 人のことをむやみに批判するのは、いい加減やめよう。