風は爆発する。
 それは容器の破砕であり、原爆投下であり、災厄であり、ノヴァである。
 それは通過する。
 横断し、頭上を過越すB29の
 或いは寧ろステルス爆撃機の機影であるといえる。

 純粋な出来事としての風はそれが起こるとき、
 すでに爆撃機(速度)と原子爆弾(強度)への核分裂=爆発なのである。

 速度と強度へと風は裂ける。
 強度はその爆発によって〈この〉を創造する。
 速度はその発散によって過ぎ去りつつ〈その〉を反創造する。

 風は破壊触発である。始まりとしての始まりの切断でそれはある。
 それは実は〈差異〉であるとはいえない。〈切断〉なのだ。

 純粋な出来事としての形而上学的風。
 それはどのような微風であっても
 爆発的な爆風であって、
 無限の風力と風速への分裂の様相を呈するものである。
 それは、爆発する差異であり、その差異自体を切断する。
 それは破壊的な切断である。

  *  *  *

 強度と速度への風の分裂=切断は差異に先行している。
 しかし強度とか速度とか
 それを〈度〉の概念のもとで考察するのはよくない。
 〈度〉は尺度(modus)に発するからだ。
 それはモード(風=流儀としての法-この最悪の下らぬ法)を、
 つまり風の抜殻を前提しているに過ぎない。

 流儀化した〈風〉、
 飼い慣らされた風であるニューモードを着ることで
 偽りの新時代を捏造する
 ロラン・バルト化された我が国の
 ソフトドゥルージアンたちをわたしは最も軽蔑している。
 それこそ風を隠し、風を防ぎ、風から遁げ、
 風から命を奪う最悪の聡明な反動思想であり、
 最もドゥルーズが憎み蔑んだ態度である筈である。

 わたしはドゥルーズの読者ではない。
 しかし、ドゥルーズがどういう人間であるかを風を通して知っている。
 モードの表層的様態変容
 (我が国でのそんな安手の〈表層〉の切端の相場は
  単に厭味な〈皮肉〉程度の価値にまで値切られている)
 などよりも重要で核心的なのは態度変更である。

  *  *  *

 〈度〉というものは結局、〈態=度〉の問題であるに過ぎない。
 そして〈度〉の以前に
 〈態〉の問われるべき次元が断固として先行している。

 それは〈modus〉よりも〈pathos〉の方こそが
 様相ないし様態の概念として絶対的に先行するということを告知している。

 風の強度とか速度とかという
 尺取虫=点取虫的様態の
 このだらけた訳語を更に飜さねばならない。
 それは測定され得ない風の衝撃であり風速であるからだ。
 風の強度は〈風力〉と呼ばれ風の速度は〈風速〉と呼ばれねばならない。
 モードとはもはや吹かない風、命をもたぬ風の形骸だ。

 ルーリアは破砕された容器の砕片から、
 穢れた悪の世界が生じたと教えている。
 そしてこの悪を生み出す砕けた欠片を〈殻〉〔ケリーム〕といっている。
 このヘブライ語の複数形が訛って西欧魔術の世界に伝わり
 一般に〈クリフォト〉と呼ばれ、
 形而上学的な悪を意味する用語として広く用いられている。

 二つは別に違う語ではないから、
 わたしは無用な煩瑣さを避けるために
 平明にこれをクリフォトと書くことに統一する。

  *  *  *

 クリフォトはまさしく破壊触発の風の抜殻、その命なき形骸を意味する。
 そこには風力はなく風速はない。
 風は既にそれが起こった爆心地から撤退=脱去しており、
 残るのは出来事の破壊触発に打ち砕かれ、
 打ちのめされた人間たちのストーカー的かつバベル的な混乱の世界である。

 愚者はそこで命なき出来事の形骸を、
 ベルリンのうすぎたない壁の欠片を、
 まるで御利益のある宝物のように探し漁って、
 物神=呪物化する。それは偶像崇拝の起源である。

 モードとはこのようなクリフォトであるに過ぎない。
 それは死せる風であり、いわば風の化石である。
 そこには真の意味での問いがない、
 あるのは下らない子供騙しのトーイ(玩具)だけだ。

 しかし、子供は風の子である。
 窓を開け放ち、外へ表へと飛び出さねば元気な子にはなれない。
 ウラナリどもは皮肉な玩具を弄び、
 遊戯の次元の朧ろな鏡映(映画)の断片=模像を、
 真の表層・外・シミュラークルだと思い違いしている。

 こういう奴は莫迦である。
 彼らは単に表層・外・シミュラークルを
 本物(原典/オリジナル)から取ってきた
 由緒正しいコピーであるといって見せびらかし、
 そのことによってつまらぬ深層・内・オリジナルを
 再生産しているだけである。
 頭がおかしいのである。そんなものこそ神話作用でしかない。

  *  *  *

 シミュラークルの精神にとって最もよくない敵は、
 オリジナリティのないこのテのオタク的コピーライターなのだ。
 コピーがオリジナルを作るという
 この安っぽい転倒=倒錯は何ら反体制的なインパクトをもたない。
 単に余計に反動的に体制を補強するだけである。

 レプリカントとシミュラクラを混同してはならない。
 それはアンドロイドと人間を混同するのと同じくらい莫迦げたことだ。

 われらの友フィリップ・K・ディックは、
 アンドロイド(レプリカント)と人間を識別するのが、
 他の生命への愛と尊重の感情の有無にあるのであって、
 その身体組織にあるのではないということを
 あの極めて倫理的な名作
 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』で示している。

 映画『ブレードランナー』の方は
 原作のもっている厳しい問いのエッジをかなり損なって了っているものの、
 基本思想は共通している。
 要はハートなのだ。

 迫りくる機能停止(死)を恐れるレプリカントは、
 己れがレプリカントであるという宿命を呪って
 人間を冷酷に殺し続ける限り、
 レプリカントであって人間ではない。
 しかしその彼が、
 自分を狩ろうと追いかけてきたブレードランナー(人間)の命を
 戦いの果て、その機能停止の間際になって救うとき、
 彼はレプリカントから人間になる。
 他方、人間である癖にレプリカントを追い詰め殺そうとする
 ブレードランナーは人間であってもレプリカントになってしまっている。

 識別の問いの刃がこのとき
 グルリとブレードランナーの心臓を突き刺すのだ。
 おまえは本当に人間なのか、
 人間ならば何故レプリカントを追い詰めて殺そうとするのか、と。
 ブレードランナーという職業は不可能な職業なのだ。

  *  *  *

 ディックにおけるシミュラクルのエチカは
 まさにこの〈汝殺す勿れ〉というレヴィナス的な思想が、
 他者の貌においてではなく
 自己の心臓において啓示された瞬間に誕生している。

 胸を撃つパトスの倫理学。
 人間はレプリカントを否定することによって人間であるのではない。
 寧ろレプリカントを否定することによってレプリカントになってしまう。

 人間であることは不可能である。
 しかし、だからといってレプリカントになってしまってはいけないのだ。
 レプリカントがレプリカントでなくなるためには
 彼はシミュラクルにならなければならない。

 シミュラクルとは本物そっくりの偽物ではなくて
 本物そっくりの本物のことである。
 そこにこそディックの偉大なヒューモアがある。

 差異(人間かレプリカントかの種差)が問題なのではない。
 〈この私〉〈このあなた〉
 似た者同士(シミュラクル)への切断が問題なのだ。
 それは種差からは演繹されない。
 最低種と個体の間の小さな溝は種差によっては飛び越せない。
 個体は単に飛躍的な差異ならざる切断によらなければ誕生しえない。

 そして個体は個体であるからこそ唯一の本物なのだ。
 命は種差によって類から分割されたものではない。
 命は個体にしか宿らず、それは唯一の命なのである。

  *  *  *

 人間とは類ではない、それは個体のことなのだ。

 電気羊であってもそれを本物だと思って、
 心から愛するならそれには命が宿る。
 非現実と現実の境界は消えうせ、
 愛の心のなかに美しく愚かしく偉大に融合するのである。

 エマニュエル・レヴィナスはメシア的実存の核崩壊について語った。
 それは砕けた心である。

 これに対し、神の子イマヌエル=ヤハウェを
 あの忘れ難い可愛い少女ジナ・パラス
 (ハギア=ソフィア/シェキナー)の導きによって
 欺瞞と空虚と感傷の悪魔ベリアルの世界から教育的に救出してのけた、
 驚嘆すべき、神をも恐れぬ錬金術的ビルドゥングスロマン
 『聖なる侵入』の著者ディックが語るのは、エデン的実存の核融合である。

  *  *  *

 いじけた心は、しかし、逆に本物の羊をすら電気羊に変えてしまう。
 村上春樹の初期の文学はこのブラックユーモアの上に成立している。
 しかしこのブラックユーモアは
 余りよくできたパロディだったとはいえない。
 村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』にあるような
 溌剌としたカタルシスを与えないからである。

 最高のヒューモアとはブラックなものであるが、
 それは必ずや過激で凄絶な輝きを放つ。

 春樹の『風の歌を聴け』には風がない。あるのは風の化石だけである。
 しかし龍の『限りなく透明に近いブルー』には
 爽快な疾風怒涛の風が吹き抜けている。

 わたしはこの爆風の精神、
 風力と風速をもったインテンシティとヴェロシティの高い
 暴風の美意識を真の意味での〈風流〉と名付ける。

 ヒューモアとは〈風流〉であることである。
 〈風流〉であるものだけが洒脱だ。
 洒脱なものとは流儀に反して創造的に風を起こすことである。

 そこには切断がなければならない。
 切断は生粋であることである。
 生粋であるものは懐古的ではない。
 生粋であるとは真に〈いき〉であること、
 過激に猛々しく打ち砕くように生きていることである。
 常に己れの誕生のときの真紅の産声であることである。

 〈風流〉とはパトスのパトスに他ならない。
 それはモードを目的とはしない自己流儀の風の切断的創造なのである。

 〈風流〉に反する精神は〈皮肉〉の精神である。
 しかしそれは飜して云うならば〈恥〉の精神である。

 風は己れを恥じることなく、気取ることなく、
 その素裸であるがままに童心を吹き抜ける純粋で爽快な感情である。
 〈風流〉の内にこそ真の〈我あり〉は帝王切開的に誕生する。
 それはパトスとしてのパトスの〈華〉であり、〈結晶〉である。

  *  *  *

 天然の水晶の原石はどれひとつとして同じものはない。
 真の自然は個性を好み、個性をのみ創造する。
 そしてこの原石は尖っている。
 決して水晶球のように角が取れてはいない。
 原石に磨きを掛けて洗練し、
 そこから水晶球の形相を掘り出そうとする者は、
 原石のもつそれ自体完璧で比類のない独自の形相を破壊している。

 磨くことは擦り減らしてしまうことである。
 擦り減った揚げ句に具体化されるような丸い個性は、
 ただ無色透明な空虚な完全性をしか実現しない。

 確かに水晶球は美しい。
 しかしそれを見るときに、わたしは痛みを覚える。
 そして不安を覚える。本当にそれはそこにあるものであるのかと。

 わたしはその水晶球に触れる。すると安心する。
 握り締める。するとそれは実在している。
 だが、この実在は球の形相から来たものではなく、
 球の形相に破壊されながら
 尚そこに断固として自己主張している
 その個性ある形相から出来してきているのだ。

 それは完全に球によって放逐されてはいない。
 むしろその球を二つとない宝たらしめているのは、
 原石の個性美なのである。

 水晶の純粋さはその抽象的球形から到来するのではなく、
 その個性美からいきいきときらきらと到来してきている。
 擦り減らされても水晶球はなお消え失せぬ原石であるのだ。
 このとき実は原石の個性美こそが
 球の抽象美に宿りつつそれを実体化していることをわたしは発見する。

 球こそが基体であり質料なのである。
 美しい水晶球は、その球体を打ち負かして、
 原石(個性)こそが発見されるときに、光り輝き、そして真の命を得る。

 この反転は創造の創造である。

 ヒューモアは模倣不可能なもの、複製ではないものだ。
 それはユニークであることである。
 
 わたしは美しく思考する。
 思考することは美しく自己流儀に風流に個性的になされねばならない。
 美しく思考することはしかし自惚れぬことである。
 自惚れは風流のもつ健全な傲慢の精神に反する。

  *  *  *

 風の超越である出来事の横断。
 それは存在なき超越である。
 時間なき過去としての〈過ぎ去り〉である。

 最も透明な出来事である〈passer〉の通過は、
 レヴィナスのいうような〈exister〉(実存する)、
 或いはまた〈esse / être / Sein〉(存在する)よりも
 先行している事件である。
 在るのでも実存するのでもなく、
 過ぎ去る風の超越である〈passer〉は、全てに先立って起こる。

  *  *  *

 破壊触発は〈この/その〉の割裂けとして亀裂して
 〈もの〉をその亀裂自体として誕生させる。
 〈もの〉とは〈その〉から〈この〉への差異の割裂的揺返しから、
 地震からその地割れを通して出来する出来事である。

 風は〈その〉から〈この〉を切り離す切断であるが、
 〈もの〉はその割れ目に生起し或いは寧ろ顕現する。
 〈もの〉自体は〈その〉と〈この〉の間にあって
 分割され分断され切断されている。

 それは〈分〉としての〈分〉の出来事である。

 未分化なものから分化が起こるとき、
 それが二つへと極化する以前に
 〈分〉としての〈分〉が先に生成しなければならない。

 分化したものは〈分〉が化して二つへと化身したものだ。
 二つへと化身するとき、
 〈もの〉は〈もの〉である以前に〈ばけもの〉である。

 〈ばけもの〉が再統合されてやっと〈もの〉になるが、
 〈もの〉は実は逆に〈ばけもの〉が化けた〈もの〉なのである。