レヴィナスはハイデガーの新プラトン主義を批判するときにマイモニデス仕込みのアリストテレス的ユダヤ教スコラ哲学をその思考の隠された武器として用いている。
 だが、実はマイモニデスを用いることに彼の致命的弱点もまた露呈してしまう。

 中世思想の研究者たちが夙に指摘するようにマイモニデスは十分にアリストテレス的ではない。
 彼の知っていたアリストテレス哲学はそれ以前にイスラム教スコラ哲学においてかなり新プラトン主義的変容を蒙ってしまったものである。
 中世スコラ哲学は、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教のいずれにおいても新プラトン主義的思惟形態の強烈な呪縛下にあって、それを通して歪められた形でしかアリストテレスを捉え得ていない。
 それから脱してアリストテレスを再発見しようとする努力がスコラ哲学者たちにとってどれほどただならぬものであったかは知られている。
 しかし、だからといって私たちが中世のスコラ哲学者と違って新プラトン主義的思惟形態の呪縛から逃れ出ているとは決していえない。
 例えばヘーゲルという強烈な呪縛力をもつ思想家の根がやはり新プラトン主義のプロクロスに深く根差しているということは知られている。

 ハイデガーはこのヘーゲルに対決しようとした思想家だったが、プロティノス的である。
 レヴィナスはマイモニデス的であると同時に、ポルフィリオス的であったとしかいえない皮肉な新プラトン主義的限界をもっていた。

 実際に現代思想は未だに強烈な新プラトン主義的思惟形態の呪縛にどっぷりと浸かっており、なかなかそこからはい出せないというのが実情なのである。