Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第二章 神聖秘名 2-2 月の方舟

 「あなたも《啓典の民》の端くれなら」
 女は更に挑発的に言った。
 「もっとご自分の宗教の偉大なご先祖様に敬意を払うことをお薦めするわ。
 いいこと、ユダヤの賢者たちにとっては、
 神様は十個のセフィロートごとに十の異なる神名をお顕わしになるのよ。
 ヤハウェの御名は確かに有名だけど、
 そこでは二番目のセフィラ、
 《叡智》を意味するホクマーに対応するものでしかないわ。
 第一のセフィラ、ケテルの王冠に相応しい神名は、エヘイエーよ。
 もう一つのテトラグラマトンよ。
 別の説では、イスラエルの民をエジプトから脱出させられた時、
 主は七十二の神秘なお名前を用いられたと言われる。
 それにヘブライ語の聖書の全体が
 偉大な神の長い長いお名前を表しているとも言われているわ」

 「ふん、カバラに逃げるか」
 男は皮肉っぽく言った。
 「そいつは正統なユダヤ教じゃないぞ。この如何わしいグノーシスの神秘主義者め!」
 
 「じゃあ、別の証拠を挙げてご覧にいれましょうか」
 女は冷ややかに言った。
 「主は、モーシェに《在りて在るもの》を意味する
 そのヤハウェという名前を告げるときに、
 ご自分から、アブラハムには別の名前で呼ばれていたとおっしゃっているわよ。
 ところで、アブラハムは元々アブラムという名前だったのが、
 どうして神に言われてアブラハムになったかご存じ? 
 ……そう、ちょうどさっきこの方が(女は百目鬼を示した)、
 この子の名前の《SIN》の綴りに《H》を割り込ませたのと同じように、
 主も《H》を表す《ヘー》の1文字をこんな具合に割り込ませたのだけれど……ほら、こんな具合に」

 女は、足元の枝を取って砂の上に文字を書いた。

 ABRM  Abram
 ABRHM Abraham

 「……アブラハムというこの改名行為には隠された意味があるのよ。
 《アブ》は確かに父を意味する単語だけど、
 《ブラハム》というのは、古代インドのウパニシャッドの哲学に出てくる
 宇宙的原理ブラフマン、またはその神格化であるブラフマーを意味するのよ。
 アブラハムというのは、《父なるブラフマー》を意味する単語に他ならないのよ」

 女は更に砂の上にもう一行を付け加えた。

 ABBRHM Abbrahma

 「いやあ、こいつは参ったね!」
 黒人は笑い出した。「アブラハムはインド人だったっていうのかい」

 女は構わずに続けた。
 「……モーシェにシナイ山で現れた神は、
 ご自分のお名前を《エヘイエー・アシェル・エヘイエー》、
 つまり《我は在りて在るものなり》という意味だと告げられたけど、
 これはサンスクリット語の《タット・サット(Tat Sat)》という
 ブラフマー神の開示の言葉のヘブライ語訳に過ぎないわ。
 意味は殆ど同じよ……。
 ところで、ブラフマー神は、インドの創造神話では、
 最初に宇宙を原初的な水で満たし、
 その中に黄金の卵として顕現したといわれるわ。
 この卵が割れてブラフマーが自ら生まれることにより天と地が創造されたの。
 インドのノアに当たるマヌが作ったともいわれる
 『マヌ法典』に出てくる宇宙卵の神話よ。
 『リグ・ヴェーダ』では、これはヒラニヤガルバ、
 《黄金の胎児》または《母胎の初子〔ういご〕》とも
 いわれる存在になっているけれど……」

 百目鬼は女の奇妙でロマンチックな話に魅了され始めていた。
 黒人も興味を覚えたらしく、今度は黙って女の話に静かに聞き入っている。

 「アブラハムは確かにインドではなく、
 ユーフラテス川の下流域、シュメール人の都ウルの出身よ。
 ウルには月神シンを祀る大きな神殿があった。
 シンはしばしば三日月を頂点につけた卵の形で表されているのよ。
 シン――それこそアブラハムの神、イサクの神の名前だった。
 シナイ山頂でモーシェに《ヤハウェ》と名乗った神、
 即ちあなたの宗教の神・アルラーの神の本来のお名前は《シン》だったのよ。
 だから、この子をもっと丁寧に扱うことね。
 この子はあなたの神・アルラーなのかもしれないわよ」

 「ハッハー、こいつはたまげたな」男は笑い出した。

 「契約の山といわれるシナイの名は月神シンに由来することをご存じないの? 
 観光ガイドにだって書いてあることよ。
 モーシェとアロンはイスラエルの民を
 エジプトから月の神の土地に導き出した。
 彼らが飢えたとき、夜の間に不思議な露が降って、それがパンとなった。
 この不思議な食べ物は《マナ》と呼ばれたわ。
 《マナ》は《マヌ》と同じく、
 月の魔力を意味する語で、多くの派生語を生んだわ。
 インドの神の持つという不思議な力《幻力〔マーヤー〕》、
 死者の霊魂を意味する《マナス》、
 古代ギリシャの神聖な狂宴の熱狂《マニア》、
 南太平洋では《マナ》という語は、
 魔術を媒介する不思議な実体を意味する。
 そして、それはまた英語の《man》やインドの《マヌ》のように
 《人間》を意味する語の源でもあるのよ。
 《人間》は、古代の人々にとっては、
 《月》の《魔力》によって創造されたものだった……。
 月神シンが人間を創造したのよ。
 そして、その《マナ》が降ったとされる土地は、
 聖書では《シンの荒野》であるとされているわ。
 ところでこの《シンの荒野》というのは、
 ヘブライ語の原典の該等箇所を調べてみると、
 発音記号であるドーギッシュや母音記号〔ニクダ〕を取り除き、
 一旦アレフベートを元の裸の姿に戻してよくよく眺めてみれば、
 そこは《シンと呼ばれる神》という語が隠されているように
 読めなくはないのよ。
 モーシェは、自分を導いた先祖の神が
 本当は誰であったのかを間違いなく知っていたのだわ。
 ……ところで、話はブラフマンに戻るけれど、
 インドではこのマナにあたる不思議な食べ物は、ソーマと言われている。
 アムリタや、ゾロアスター教のハオマ、
 ギリシャ神話に出てくる神酒ネクタルに対応する不思議な飲物で、
 これを飲むものには魔力と勇敢な心と更に不死さえ授けられると信じられた。
 エデンの生命の樹の果実のようなものよ。
 ところがこのソーマは、
 インドでは単に神秘的な飲物として珍重されたばかりではなく、
 それ自身がソーマ神として信仰の対象となったのよ。
 東北の守護神、インドの酒神〔バッカス〕であるこのソーマ神の別名は《チャンドラ》、
 この語は月を意味し、
 一説あの偉大なインドラ神の名前もそこに由来するとも言うわ。
 そう、ソーマは月の神なのよ」

 「……月読〔つくよみ〕の変若水〔おちみず〕だ」
 それまで黙って二人のやり取りを脇で聞いていた百目鬼が呟いた。

 「えっ?」

 「いや、その……ぼくの国にもその月神シンみたいな男の月の神様がいてね、
 若返りの水を持っていると伝えられているんだよ。

 《天橋〔あまはし〕も長くもがも
  高山〔たかやま〕も高くもがも
  月読の持てる変若水〔をちみず〕い取り来て
  君に奉〔まつ〕りて変若〔おち〕得てしかも》

 『万葉集』という古い和歌集に出てくるんだ。

 《天に登る橋は長くあってほしい、高い山は高くあって欲しい。
  そうしたら月の神ツクヨミが持っているという
  若返りの力のある水を取って来て、天皇に献上し、
  若返っていただくのに》、

 ――そんな意味だった」

 「その神は高い山の上にいるのね」
 女は言った。
 「ノアの洪水の時代には、
 きっと世界じゅうの人々が月の神を信仰していたんだわ。
 カヌーの形をした三日月は、方舟の象徴でもあった。
 その舟は高い山の上に辿り着くといわれる。
 月神シンを象徴する図形は、
 山を象徴する三角形の頂点に三日月の舟が止まっている形をしているのよ。
 そしてその山頂に向かって一本の道がまっすぐ地上から伸び上がっている。
 シンは洪水から人々を救ったの。
 その方舟は山の上に留まり、人々は山道を造って方舟を拝みに出掛けたのよ。
 モーシェの目指したシナイ山もそんな方舟の記憶を留める神聖な山だった。
 そしてご存じ? 
 三日月を意味する《arc》も、モーシェの契約の聖櫃を意味する《Ark》も、
 元々インドの言葉で《大きな船》を意味する語《Argha》の派生語なのよ。
 他にも、よくタロットカードなどで大アルカナ、小アルカナと言われるときの
 《arcane》という《秘密》を意味する語も、
 すべてノアの方舟つまりシンの三日月の舟から由来するのよ。
 方舟は、そのまま契約の聖櫃〔アーク〕となった。
 《契約》、それはノアと神の間に取り交わされた救済の約束の徴。
 もう二度と大洪水で世界を滅ぼすことはしないという神の誓いよ。
 それは天にかかるアーチ、虹の橋を意味しているの。
 七色の虹は聖なる創造の七日間をも暗示している。
 ……あなたの国のそのソーマを持つ月の神の歌に出てくる
 《天の橋》というのは、
 きっとその虹のことを言っているのね」