しかし、差異の種子は、時として災厄の火粉である場合がある。それは破壊的に働く。デリダは、差異のこの同一性を破壊する側面を〈毒薬〉として考察している(「プラトンのパルマケイアー」など)。

 災厄の火粉は、質料そのものをその爆発的結合の刹那に焼尽くしてしまうような破壊的な形相である。このとき、〈実体〉は通常の意味においては生まれ得ない。
 形相と質料が、その耐え難い異和的接触、ないし〈破壊=触発〉によって対消滅してしまうような爆発がありうる。それはある種の超新星爆発(NOVA)であり、災厄としての災厄の成就である。

 〈破壊=触発〉、或いは破壊触発はドゥルーズ&スピノザの〈触発=様態変様〉(affectio)の極限の姿である。否、むしろ、〈触発=様態変様〉の根底、その核心にあるのは、この風の根源的暴風性であるその破壊性に他ならない。いかなる微風のうちにも風自体の爆発性である破壊触発の凄まじい力は潜んでいる。否、むしろそれを見出さねばならないのだ。

 破壊=触発、いやむしろ、触発=破壊、触発とは破壊なのである。

 破壊触発は、質料を乗り越えるような強大で極限的な異化作用である場合がある。無論、この場合、質料がどのような様態(ラテン的概念modusにおいてではなく、ギリシア的概念pathosの意味において)にあるのかが考えられねばならない。

 通常、質料は、或る程度形成された様態にある。したがって、質料のなかには既に何らかの形相が先在している。破壊触発は、この先着している形相と、後から風に乗って到来した別の形相の間の矛盾・衝突という風に考えられる。形相と形相は融和せず相克する。多くの場合、先着者が自己維持して後からやってきたものを弾き出す。しかし、この逆もありうる。また、別の場合も考えられる。まず個体に分裂を引き起こす場合が考えられる。更にまた、同一質料のなかに、引き離された状態で、相異なる形相が混在雑居する場合もあるだろう。

 そして、純粋状態の、全く形相を含まない質料、いわゆる第一質料の場合をも考えておかねばならない。しかし、そのような場合にも、奇妙な言い方になるが、質料の形相というものが考えられうる。
 アリストテレスがそのようなものを認めていたかどうかは今は問題にしない。ただ、恐らく、形相/質料という概念対は、不可避的に一方が他方を必要としてしまう概念の組であって、それを無理に引き離そうとすると、極限的には双方無限背進に陥るような危うさをもっている。

 そこで、恐らく純粋質料においても、それを規定する形相というものが想定されうるので、やはり、その場合においても、純粋質料に最初の形相として到来した形相と、純粋質料をして純粋質料以外の何者でもないものたらしめていた形相、いわば〈無〉の形相との間で矛盾相克が生じうるのだと考えられてよい。いや、恐らくその場合においてこそ、むしろ最も苛烈で深刻な相克、いわば〈存在〉と〈無〉の火花を散らす凄まじい衝突が起きるのだ、と考えねばならない。

 そして、翻ってまたまたわれわれは、いかなる質料のうちにも決して宿ることのない形相、あるいは決して宿りえぬような形相、純粋形相とよぶべき形相をも想定することができる。
 しかし、この想定は、形相をイデア的な自体性に差し戻すプラトン的観念論とは別の方位を目指している想定である。
 すなわち、この場合でも、純粋質料についての想定(例えばレヴィナスのイポスターズ論を想起せよ)と全く同じように、その質料なき純粋形相をそれにもかかわらずそのように成り立たせている質料的なものを、われわれはなお、それを思念のなかに召喚する際に必然的に要請せざるを得ないからである。

 何故、純粋形相は思念のなかへと到来するのか?
 そして、それは質料ではないとすれば、それとは似て非なるいかなるものから出来ているのか?