奇蹟論 (1) 

テーマ:
 出来事は出来する。それはわたしに出来る。そして、物語が出来上がる。それは〈美しい現実〉という物語である。したがって、〈奇蹟〉が起きる。
 《奇跡は誰にでも一度おきる。だが、おきたことには誰も気がつかない》(楳図かずお『わたしは真悟』巻頭言
 可能性は実現する。それしかわたしには出来ない。そして全てが出来損なう。この失望に〈悪夢〉が始まる。それは〈現実〉というこの見果てぬ夢、そして決して見破れぬ夢を見るという〈みにくい神秘〉の夢の呪縛である。かくして、〈悪魔〉は必然的に存在する。
  《胎児よ 胎児よ 何故躍る 母親の心がわかって おそろしいのか》(夢野久作『ドグラ・マグラ』冒頭歌)

 不可能性の問題は、〈美しい現実〉と〈みにくい神秘〉の間、この二元の系列にするどく切り裂かれた二律背反(アンチノミー)の底知れぬ闇の深淵の問題を告げている。すなわち出来事と可能性の狭間には跨ぎ越すことのできない不可能性の断崖絶壁があるからだ。

 出来事は出来する―それが現実の現実性についての形而上学的定義である。『形而上学』の著者アリストテレスは、まさにそのようなものとしてこの現実を形而上学的に発見し、それを今日「エネルギー」の語源の語として知られる「エネルゲイア」の名で呼んだ。
 この語は通常、「現実性」・「現実態」・「現勢態」と訳されている。それは別に間違いではない。

しかし、わたしはこの「エネルゲイア」〈出来性〉と呼ぶことにする。

 それは「出来事は出来する」ということが紛れもなく現実の現実性についての最も端的で明晰判明な形而上学的定義だからである。

 アリストテレスが発見したこの美しい現実、エネルゲイアを、今日例えば「リアリティ(reality 実在性・実体感)」などという英語からの外来語と全く同義に用いられる「現実性」という語に翻訳することは確かに語学的には誤りではない。
 しかし、アリストテレスはエネルゲイアというこの生き生きとエネルギッシュに躍動する美しい現実性を単なる実在性(reality)において見出したのではない。逆である。アリストテレスはエネルゲイアにおいて実在性=現実性を見出したのである。
 ハイデガーによって荘重にも「ウーシアをめぐる巨人の戦い」と呼ばれた哲学史上最初の形而上学戦争は、プラトンとアリストテレスの間で戦われた。
 とはいってもそれはアリストテレスの側からの一方的で全く孤独な架空の論争、亡き師プラトンへの片思いにも似た崇高な背教の戦いに他ならなかったのだが。
 ともあれ、この史上最初の形而上学戦争の論題は、プラトンのイデアか、それともアリストテレスのエネルゲイアか、そのいずれが真に実在するか、いずれが真の現実であるかであった。
 つまり、アリストテレスは、その実在性(reality)という意味における現実性においてプラトンのイデア論、その観念論的形而上学と論争していたのであって、エネルゲイアという現実性は、したがって、直ちに実在性という意味の現実性を直証的に意味しうるものではなかった。
 逆に、プラトンの形而上学からみれば、アリストテレスのエネルゲイアこそが非現実性(夢)ということになってしまうからである。
 わたしたちの通常の感性からみると、もちろんアリストテレスの方が現実主義者で、プラトンの方が訳の分からぬことを言う観念論の夢想家にみえる。
 しかし、だからといってわたしたちが通常普通に「現実」と言っている現実性とアリストテレスの形而上学的現実性であるエネルゲイアとを同一の現実性であると夢想してしまうなら、わたしたちは自分でも全く気づかないうちにプラトン的な観念論の夢の呪縛に陥ってしまう。
 わたしが冒頭に夢野久作からの黙示録的引用を掲げながら〈みにくい神秘〉と呼んでいる罠は実はここにある。
わたしたちは『国家』を著したあの実に恐ろしい哲学者プラトンを決して嗤うことはできない。
 むしろ嗤うべきなのは、イデア論という実際には全くといっていいほど脱出不可能な思考の必然的牢獄を『国家』という恐るべきメタファーをもって描き出し、また論証してみせたプラトンという思想の怪物を嘲笑することができると信ずるわたしたちの犬儒的冷笑の方なのである。

[続く]




著者: 楳図 かずお
タイトル: わたしは真悟 (Volume1)



著者: 楳図 かずお
タイトル: わたしは真悟 1 (1)



著者: NoData
タイトル: 楳図かずお大研究



著者: 夢野 久作
タイトル: ドグラ・マグラ (上)



著者: 夢野 久作
タイトル: ドグラ・マグラ (下)

著者: アリストテレス, Aristoteles, 岩崎 勉
タイトル: 形而上学




著者: アリストテレス, 出 隆
タイトル: 形而上学〈上〉



著者: アリストテレス, 出 隆
タイトル: 形而上学 下  岩波文庫 青 604-4
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奇蹟論 (2) 

テーマ:
[承前]

 不可能性の作家・埴谷雄高の『死霊』に先駆して、日本最初の驚嘆すべき形而上小説『ドグラ・マグラ』を著し、実際、カントやドストエフスキー以上に深甚な影響の痕跡を『死霊』の上にまで刻んでいる夢野久作は、誰よりも早く、そして深く、この「現実」という「夢の呪縛」の悪魔的な必然性を洞察していた真に恐るべき意味での現実主義者であった。
 しかし、この彼もまた、己れを「現実主義者」と信じて疑わない全くお目出度い無自覚な神秘主義者(彼の父親)に「愚かな夢想家」として侮蔑的な嘲笑を受けた。この夢野久作の父親のように嘆かわしい父親は無論枚挙に暇がない。デカルトの父親もそういう男であったし、わたしもまた身に積まされることに全く同種の子供思いな良い父親に恵まれて、恐らく一生、全く親不孝な臥薪嘗胆の苦痛から逃れることはできないだろう。
 しかし、このような毒になる親に恵まれて人生を破壊されることは、夢野久作やデカルトがそうであったように、真の現実、真の愛、真の自由に通じる青白いきらめきに満ちた月光の小径を見出すための条件でもあるのだ。

 破壊された人生、不可能にされた人生、その他に何も残らなくなったときにしか、人は奇蹟を見出すことはない。
奇蹟というのは、これが現実であるということだ。
そして、この全き不可能性こそがわが運命なのだと決めて、敢えてそれを選び取るということである。

 すると、この奇蹟から魔法が始まる。
 ニーチェにとって、それは永劫回帰という魔法であり、それによって彼は超人に変わった。
 フィリップ・K・ディックにとって、それはVALISという超現実の神の創造であり、彼はこの自分が創造した神によって他ならぬ自分自身を創造するというメタフィクションの円環を結ぶことで、残酷な神が支配するこの恐怖の現実〈黒き鉄の牢獄〉から脱する。かの地球に落ちてきた男ジル・ドゥルーズが発見し、そして心から魅了されたスピノザもまたこの不可能性の不可思議な意味の反転の魔法を示した人であった。
 わたしはこれに失意と悲恋と夭折の悲劇の生涯を送ったと信じられている詩人哲学者ノヴァーリスの名前を付け加えねばならない。
というのはノヴァーリスにおいてこそこの不可能性の奇蹟の爆発は、その最も巨大な超新星の眩い光輝となって炸裂しているからだ。
ここに名前を羅列した人々の人生はいずれも外面的にはかなり深刻な様相で破綻している。ジル・ドゥルーズですらその喘息に苦しんだ人生の最後を衝撃的な投身自殺で閉じている。
 では、彼らの人生は単なる悲劇であったのだろうか。それは敗北、破滅、残酷な運命に無力に翻弄され、破壊されるだけの弱者の悲惨や、絶望の果ての狂気の虚しい幻影に過ぎなかったのだろうか。
 否。わたしは信じない。
 彼らはその凄惨な苦しみにもかかわらず、幸福だったのだ。それどころか、彼らだけが真の意味で幸福だったのだとわたしは信じる。
 わたしは信じる、ジル・ドゥルーズは飛降自殺のその瞬間、間違いなく笑っていた筈だ。
 そして、わたしは信じない。ドゥルーズのその幸福な微笑みが灰色の石畳に墜ちて砕けて死んだとは。
 否。彼は生きている。ノヴァーリスの恋人ゾフィーが永遠に生きているように、不可能性のこの強大な魔法のなかで、生き生きとまだ生きている。
 彼はそのとき彼を迎えに来たスピノザの魔法の風に誘われ、以前から言っていた「魔女の箒」にまたがって、エネルゲイアという奇蹟を起こす出来事の風に乗り、風に変じて、彼が本来それであったもの、すなわち歴史上の全ての人間をその仮面としてもつ唯一の実体、不可能性の超人に戻っていっただけである。間違いなく、彼はそれこそが、真の意味での彼に他ならぬその不可能性の実体であることを認識していた筈だからだ。

 Credo, quia impossibile est.

 他方、わたしは信じない。プラトニスト達のいう「哲学とは死の練習だ」という黒き鉄の牢獄のドグマを。
 そうではない。哲学とは、死に等しいこの灰色の人生に〈死者の復活〉という〈美しい現実〉の物語を描き出すことなのだ。
 哲学だけが、生命を創造する。哲学の真の意味の定義、そしてその使命とは〈生命の創造〉である。
 したがって、哲学の本質は魔法である。西欧中世においてそうであったように、哲学者と魔術師は同義語であり、更に言えば、哲学者だけが魔術師なのである。
 何故なら、神学者たちが何と言おうと、〈神〉は哲学によってしか創造されず、そしてまた、哲学によってしか人は〈神〉に遭遇することはできないからである。
 この意味において、「哲学は神学の婢女である」というのは完全なる誤りである。
 そうではない。カントがそうであることを要求したように、「万学の女王」である「形而上学」という至高の学をその根幹にもつ哲学、それこそがまことに神的な学としての神学の名に相応しいものなのである。
 逆に、神学が作り出せるものは、〈宗教〉という、秘められても隠されてもならない神を〈みにくい神秘〉によって見えなくし、〈信仰〉の美名の名において、〈神〉をその動けぬ十字架の上に呪縛する十字架の偶像崇拝でしかありえない。
 人間は、本当は〈神〉から逃亡するために〈宗教〉を作ったのである。
 そして〈神〉を弾圧し、抑圧し、その真の意味を政治的に抹殺するためにこそ〈宗教〉は機能するのである。
 キリストを信じれば、人は自らキリストを生きて、わが手で人を救うことを放棄する。また、仏陀を信ずれば、人は自ら悟ろうとすることも、慈悲の心を抱くこともなくなってしまう。
 そうではなく、人は自らを信じなければならない。
 そして、キリストや仏陀が何か全く特別な異例な存在であることを信じてはならない。
 何故なら彼らはあなたのなかに生きているからだ。
 愛も叡智も正義の怒りもすべてあなたのなかにある。
 だからこそ、あなたのなかにいる彼らをあなたは解放しなければならない。
 そのときあなたは認識する筈だ。難しい話ではない。〈神〉は全く実在するものである。
 単に、あなたがその峻厳なものを畏怖し、またその可憐なものの優美さを恥じて、それから顔を背けていただけのことなのである。
 〈神〉でないものを〈神〉と呼ぶことをやめるだけで、全く信仰を必要とせず、〈神〉はあなたの前に顕現する。
 したがって〈奇蹟〉は起きる。
 だが、それは哲学的認識によってしか起こりえないものなのである。
 出来事は出来する。それが〈奇蹟〉の起きる〈美しい現実〉、エネルゲイアを召喚するための不可能性の形而上学の魔法の言葉である。

[続き]





著者: 夢野 久作
タイトル: 夢野久作全集 全11巻セット



著者: 夢野 久作
タイトル: ドグラ・マグラ



著者: 鶴見 俊輔
タイトル: 夢野久作と埴谷雄高



著者: 多田 茂治
タイトル: 夢野久作読本



著者: 大滝 啓裕, Philip K Dick, フィリップ・K・ディック
タイトル: ヴァリス



著者: フィリップ K.ディック, 大瀧 啓裕
タイトル: ヴァリス



著者: 工藤 喜作, 小谷 晴勇, 小柴 康子, ジル・ドゥルーズ
タイトル: スピノザと表現の問題



著者: G.ドゥルーズ, 鈴木 雅大
タイトル: スピノザ―実践の哲学



著者: ジル ドゥルーズ, Gilles Deleuze, 鈴木 雅大
タイトル: スピノザ―実践の哲学



著者: ノヴァーリス, 青山 隆夫
タイトル: 青い花



著者: ノヴァーリス, 笹沢 美明
タイトル: 夜の讃歌―他3篇



著者: ノヴァーリス, 前田 敬作
タイトル: 日記,花粉



著者: ノヴァーリス, 薗田 宗人, 今泉 文子
タイトル: ドイツ・ロマン派全集 第2巻 (2)



著者: ノヴァーリス, Werke Novalis, 青木 誠之, 大友 進, 池田 信雄, 藤田 総平
タイトル: ノヴァーリス全集〈1〉



著者: 今泉 文子
タイトル: ノヴァーリスの彼方へ―ロマン主義と現代



著者: 今泉 文子
タイトル: ロマン主義の誕生―ノヴァーリスとイェーナの前衛たち
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奇蹟論 (3) 

テーマ:
[承前]

 楳図かずおの描く形而上学的メールヒェン『わたしは真悟』は、まさにこのエネルゲイアの不可思議な躍動する力によって動いている。それは〈真悟〉という不可能な生命を創造する少年と少女の崇高な魔法の物語である。
 ところで、この作品はその主題と内容からいって、紛れもなく、埴谷雄高の未完の形而上小説『死霊』に大団円の完結をもたらすその続編と認められるべきものだ。
 わたしは『死霊』の書かれざる最終章の構想にて、息を止め、窒息による不可思議で悲壮な心中死を遂げるという崇高な恋人たち、三輪与志と津田安寿子の不可思議な転生を『わたしは真悟』の可憐で優美な幼い恋人たち、近藤さとると山本まりんの上に認める。
 この不思議な作品は随所で埴谷雄高を意識しているとしか思えない『死霊』に酷似したモチーフが現れる。
 圧巻は、何より『死霊』第五章「夢魔の世界」に出てくる「死者の電話箱」の挿話を髣髴とさせる、機械に宿った不可能な生命体〈真悟〉と、目も鼻も耳もないのっぺらぼうの非在の少女〈美紀〉との間で交わされる、まるであの世の電話のような異妖な会話のシーンである。
 〈真悟〉という不可能な生命体、この有り得ない子供は間違いなく埴谷が〈虚体〉と呼んでいたものに他ならないだろう。
 すなわち、埴谷が予言した〈存在の革命〉の奇蹟のその力強い成就の物語こそ『わたしは真悟』なのである。
 したがって、近藤さとると山本まりんが運命の出会いを果たし、やがて〈真悟〉という名の二人の魔術的子供が奇蹟の生誕を果たす工場の名前が、埴谷雄高の本名、般若豊を暗示する「豊工業」であることは単なる偶然の一致ではありえないだろう。
 まさにそれは〈虚体〉誕生の場所の名前として余りにも相応しすぎる出来過ぎた名前なのである。
 もしも楳図かずおがそれを全く意図して描いていないとしたら、この余りにも出来過ぎた偶然の一致は、虚構における〈真悟〉の誕生より以上に驚異的な奇蹟の現実における成就であって、〈存在の革命〉はこの現実をも巻き込んで既に起きてしまっていたことなのだと言わなければならない。

 だが、もちろん、起きたことには誰も気がつかなかったのだ。

 楳図かずおは、埴谷雄高が『死霊』で問題にしている問題、恐らく埴谷が夢野久作から継承した問題が本当は何を意味するのかを埴谷以上に認識していたし、そして埴谷雄高に欠けていたものが何であったのかも正確に見抜いていたのだろう。
 或る意味において、埴谷雄高は自分自身の思想の真の意味が分かっておらず、〈虚体〉とは本当は何であるのかも分かっていなかった。
 そもそもその〈虚体〉は、〈虚体〉などという虚ろな名前で呼ばれるべきではなかった。
 この〈不可能体〉こそが、実にアリストテレスが〈実体〉と呼んでいたものの正体であることを告げるべきだったのだ。
 埴谷雄高の限界、それはそのペシミズムである。
 永久革命者をその永遠の悲哀などというアイロニカルな感傷に浸らせてしまうことは、不可能性のもっているその朗々たる肯定性を否定し、まさにそのことによって奇蹟の〈虚体〉を創造する〈存在の革命〉の紛れもないこの現実への出来の道を塞ぎ、それを〈未出現〉などという全く出来の悪い〈夢魔の世界〉に溺死させることにしかならない。
 何故、三輪与志と津田安寿子という素晴らしい恋人たちが窒息死までしなければならないというのか。それは悪夢である。
 奪われた〈美しい現実〉を奪回するために、この〈現実〉と〈非現実〉をすりかえるドグラ・マグラの精神病院を破壊するために、必要なのは、このようなアイロニーの〈鉄学〉に錆び付いた青年の悲観主義ではない。ヒューモアの〈錬金術〉なのである。
 埴谷雄高よ、つまりあなたは暗過ぎるのだ。

 〈夢の呪縛〉(柄谷行人の埴谷論「夢の呪縛」『畏怖する人間』所収参照)を打ち破るには、333の天辺(東京タワーの頂上)から飛び移るような〈暗闇の中への跳躍〉が必要である。
 しかし、それは埴谷雄高の最も優れた理解者であると同時に最も辛辣な批判者でもあった柄谷行人のいうような意味においてではない。
 何故なら、柄谷のいう「ヒューモアとしての唯物論」は全くの羊頭狗肉のアイロニーであって、ただのブラックユーモアにしかなっていないからである。
 否。必要なのはむしろ「風流としての黙示録」である。
 それは黙示録的爆風によって、わたしたち自身の魂を呪縛する「甘えて生きることは恥である」という「甘え=生き=恥」の構造を、この日本的な、余りに日本的な「日本的性格」の実存様式を破壊することである。
 美学は美学によってしか破壊することは出来ない。
 しかし、柄谷は美学による闘争の選択肢を採ることをしなかった。そこには不可能性しかないが故に。
 だからこそ、わたしはそれをすることにしたのである。わたしは不可能性以外の何かがあるという幸福な幻想を全く持ち得ないから。
 だがそれは、わたしにはもう絶望することも不可能なのだということを意味する。これは単に他のようでは有り得ないこのわたし自身の運命であるからだ。

〈夢の呪縛〉を打ち破るための〈暗闇の中への跳躍〉を敢えて行うためには、人はさとるとまりんのような小さな子供に戻らねばならない。
 そして、決して十四歳以上の精神年齢をもってはならない。
 偉大なルイス・キャロルが警告するように、十四歳以上の人間には〈みにくい神秘〉を打ち破り、裸の王様をそのありのままに赤裸にする〈美しい現実〉の召喚魔法がもう使えなくなってしまうからだ。

 純粋理性は童心である。そして童心は破壊を好む。

 この破壊は美学的な破壊である。アイロニーの精神である否定性の美学を破壊すること。すなわち、不可能性の精神とは、否定性ではなく、破壊性であり、「日本的性格」を覆すのは魔術的唯物論者ウォルター・ベンヤミンが見出した全くアナーキーな「破壊的性格」だけなのである。
 目前に脱出不可能な壁が立ち塞がるなら、出口無き脱出の方位を探してそれを脱構築しようとするより、ハンマーをもって叩き壊せ。ダイナマイトをもって爆破せよ。
 物自体とは爆弾である。それはただ美のためだけの爆弾である。
 その爆発によってこそ、出来事は出来する。
 その爆発がなければ、〈神〉は創造されず、そして天地は創造されず、この、ただ「ある」だけの灰色の存在の墓地のうえに如何なる現実も実在することは無いのである。

初出:http://www2.everydiary.com/46762/diary.php?Y=2004&M=11
転載:http://blog.livedoor.jp/novalis666/archives/10401158.html(不可能性の美学Ⅱ)




著者: 楳図 かずお
タイトル: わたしは真悟 (Volume1)



著者: 楳図 かずお
タイトル: わたしは真悟 1 (1)



著者: NoData
タイトル: 楳図かずお大研究



著者: 鶴見 俊輔
タイトル: 夢野久作と埴谷雄高



著者: 埴谷 雄高
タイトル: 死霊〈1〉



著者: 埴谷 雄高
タイトル: 死霊〈2〉



著者: 埴谷 雄高
タイトル: 死霊〈3〉



著者: 埴谷 雄高
タイトル: 埴谷雄高全集〈3〉



著者: 埴谷 雄高
タイトル: 死霊 1 (1)



著者: 埴谷 雄高
タイトル: 死霊 2 (2)



著者: 埴谷 雄高
タイトル: 死霊〈3〉



著者: 埴谷 雄高
タイトル: 埴谷雄高全集〈別巻〉資料集・復刻 死霊



著者: 鹿島 徹
タイトル: 埴谷雄高と存在論―自同律の不快・虚体・存在の革命




著者: 柄谷 行人
タイトル: 畏怖する人間



著者: ルイス・キャロル, 高橋 宏, Lewis Carroll
タイトル: 不思議の国のアリス・オリジナル(全2巻)
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『キリスト教東方の神秘思想』V.ロースキイ 宮本久雄 訳(頸草書房1986)

◆カルケドン信条

 《エフェソス公会議の定式(特にキリストが「人間本性においてわれわれと同一本質」という表現)をアンティオキア学派の線に立つ誤りと考え、キュリロスの超越神観のみを極限までおしすすめたのが、コンスタンティノプールの修道士エウテュケス(三七八頃-四五四)であった。彼は海のようなキリストの神性に水滴のようなキリストの人間性が呑まれ消滅したと主張した。この教説は後にエジプト、シリア、アルメニアなどの共同体に影響を及ぼすことになるが、四五一年のカルケドンの公会議で斥けられる。この公会議の定式によればキリストは「二つの本性(神性と人間性)をもち、その相互の間には、混合なく、変化なく、分離もない。二つの本性の結合によってそれらの相違がなくなるわけではなく、かえって各々の本性の特質が保たれ、唯一のプロソーポンと唯一のヒュポスタシスのうちに統合されるのである」。
 ここでプロソーポン(ラテン語ペルソナ)もヒュポスタシスもほぼ同義的で、現実に独立して実在する一つの知的意志的主体を表現している。そしてこの定式は自存的主体[ヒュポスタシス]キリストにおける神性と人間性との関係を肯定的概念的に把握できるかのような錯覚を用心深く避けて、否定的に表現することによってキリストの神秘を一層際立たせてもいる。すなわち「混合なく」とはキリストにおいて人間性が神性に吸収されないことを、「変化なく」はキリストの人間性が罪障にみちた不完全なものでないことを、「分割なく」は二つの本性がペルソナ的統一を欠いていないことを、「分離なく」は復活のキリストが人間性(の地平)を棄て去ってわれわれと無縁にあるのではないことを表現している。》(宮本久雄『ギリシャ教父の思索』前掲書25頁)

《教父の伝統に従ってわたし達は一致して次のように宣言する。わたし達の主イエスス・キリストは唯一の子であり、神性においても人間性においても完全である。真の神であり同時に理性的生魂と身体とから成る真の人である。この方は神性によって父と同一本質であり、人間性によってわたし達と同一本質であり、罪を除いてすべての点でわたし達に似ている。神性において世々の前に父から生まれ、その人間性において終わりの時代、わたし達の救いのために神の母、乙女マリアから生まれた。この唯一のキリスト、子である主、独り子は、二つの本性のうちで混合もなく、変化もなく、分割もなく、分離もなく存在する。この結合によって二つの本性の相異が取り去られることもなく、むしろ各本性の特質は保たれてあり、唯一つのペルソナまたはヒュポスタシスのうちに結合されている。このヒュポスタシスは唯一の同じ独り子、神の言[ロゴス]、主イエスス・キリストであって、二つのペルソナに分離されたり、分割されることはない。》

◆アリストテレスカテゴリー論第5章でのウーシアの定義
 《「実体[ウーシア]、それは最も厳しい意味で、第一に、なによりもましてそう呼ばれる場合の実体は、あるなにかがあらかじめ措定されていて、それについて述べられるものでもなく、またあるなにかが措定されていて、それのうちに有るのでもないものであって、例えば当のある人とか、当のある馬とかのごときである。そして第二実体と言われるのは、第一に実体と言われるものがそれのうちに属するところの種とそれらの種と類とである。例えば当のある人は、種としての人間のうちに属し、そして動物がその種の類である。だからそれらのもの、例えば人間や動物は実体としては第二と言われるのである」言いかえれば、第一実体とは個別的自存存在・自存的個別者を意味し、第二実体とは実在論的にいうと「本質」を意味する。》83頁

◆ヒュポスタシスの意味。もともと一般流通言語で現実に自存し基存するもの=基存存在を意味する。動詞《ヒュピステーミー》(-の基に基礎として存在する)に由来。

◆ダマスコのヨハネ『弁証論』におけるウーシア/ヒュポスタシスの定義
 ◇ウーシア「ウーシアはそれ自体で存在し、その構成成立のために他の何ものをも必要としないものです。あるいはまたウーシアはそれ自体で基存自存[ヒュピステーミー]し、他のもののなかに存在をもたないすべてのもののことです。だからウーシアとは結局、他のもののために存在せず、その構成成立のために他の何ものをも必要とせず、それ自体において在り、しかも偶然的存在がその中で存在するところのものなのです」(三九章)
 ◇ヒュポスタシス「ヒュポスタシスという言葉は二つの意味をもっています。あるときにはそれは単に在るものを意味します。この意味によればウーシアはヒュポスタシスと同じものです。この理由である教父立ちは『自然本性あるいはヒュポスタシス』と言いました。あるときにはヒュポスタシスは、それ自身で、その自存性において存在するものを意味します。この意味によれば、ヒュポスタシスは、数的にほかのすべてのものと異なる個物(例えばペトロ、パウロ、当のある馬)を指します」(四二章) ◇(以下ロースキイ)以上のように、ウーシアとヒュポスタシスという二つの言葉は、多かれ少なかれ同義的である。すなわちウーシアは個別的実体を意味するが、同時に複数の個物に共通の本質を意味する。ヒュポスタシスは一般的存在を指すが、同時に個物的実体に適用されるからである。キュロスのテオドレトス[アンティオキアの神秘思想学派 三九四-四六六]は次のように証明している。「一般的弁証論によればウーシアとヒュポスタシスとの間に区別はありません。なぜなら、ウーシアは在るところのものを、ヒュポスタシスは基存自存するものを意味しているからです。しかし教父達の所説によるとウーシアとヒュポスタシスとの間には、共通なものと個別的なものとの間にあるのと同じ区別があります。実際、教父達は、その天才によってこの二つの言葉を用い、神のうちに共通なもの=ウーシア(本質という意味での実体)と個別的なもの=ヒュポスタシス(またはラテン語でペルソナ)との区別をした。しかしこの最後のペルソナ(ギリシャ語でプロソーポン)という言葉は西方ではよく受容されたが、最初東方では受容されなかった。なぜならプロソーポンという言葉は近代的ペルソナ(例えば人間的パーソナリティ)という意味をもつどころか、当初はむしろ個人の外面的姿(顔、形、面)または劇場の俳優の役割を意味していたからである。バシレイオス[三三七-三七九 カッパドキアの三教父の一人 エウノミオスの非相似説(アノモイオス)と戦った]は、ペルソナが西方で三位一体論に適用された事実のうちに西方的思考の固有性を見いだしている。この思考の固有性は既に一度、父と子と霊を唯一の実体の三様態としたサベリオス主義において表現されていた。ところが今度は西方の人々が実体(substantia)と翻訳したヒュポスタシスの用語のうちに、三神論さらにアレイオス主義にみちびく表現の危険性を認めたのである」(前掲書84頁)

◆ラテン系三位一体論は、一つの本質(エッセンティア)から出発して三つのペルソナに到達する。これに対してギリシャ系三位一体論は、具体的な三つのヒュポスタシスから出発して、その3つの中に共通の本性を見いだすという傾向がある。
◇トマス・アクィナス「ペルソナは関係を意味する」(西方)
◇ナジアンゾスのグレゴリウス「三つの聖なるものは一つの住居である神性に集い集まっている」
◆ナジアンゾスのグレゴリオス『説教講話』
 「不出生(アゲンネートス)、出生(ゲンネートス)、発出はそれぞれ父と子と霊を性格づけます。この性格づけによって神性という尊い唯一の本性のうちに三つのヒュポスタシスが区別され保たれます。何故なら唯一の父しか存在しないので、子は父ではありませんが、しかし子は父であるところのものなのです。また唯一の子しか存在しないので、霊は神から発出するといわれても子ではありませんが、しかし霊は子であるところのものなのです。三は神性において一であり、一はペルソナにおいて三なのです。このようにわたしたちは、サベリオスの主張する唯一神論と今流行のアレイオス主義の三神論を避ける事ができるのです」
 出生はラテン語でgeneratio、発出はprocesio。この起源の仕方の異なる様式こそが子と霊の2ペルソナを区別する。

◆エウノミオスの非相似説(アノモイオス)
 エウノミオスはアレイオスの後を受けて登場する異端者。カッパドキアの3教父は彼と戦い、この3人の力でようやく三位一体論は定式化される。
 《エウノミオスは「言挙げの名人」とうたわれたようにアリストテレスの俗流解説者(弁証・論理にすぐれた人)とされていた。彼によれ父が不出生を、子が出生を根拠にしてペルソナ的に区別される限り、両者は全く非相似であるといわざるをえない。だから出生の子とは創造された被造物にすぎないとされる。また対象に関する名前(名辞)のうち、慣用的な名は人がつける任意の記号にすぎず、他方、神の名は神によってのみ創られたのだから彼の本質を表示すると考えられた。とりわけ「不出生」という名は積極的に神の本質・自己充足性を表す神に固有の名であるとされた。このようにして人間理性は神を把握できるので、キリストの受肉(根拠と人間を結ぶ子の真理性)は余計なものとされてくる》(宮本久雄氏。前掲書16頁)
 反エウノミオス論を展開したのはバシレイデスである(大バシレイデスという人物が別にいるので注意すること)。《彼によれば名は不在と現存を表す。神に用いられる不可視、不死、不出生などの否定的な名は不在を意味し、善・義・真などの肯定的な名はこれらの名が示す性格が神的本性において卓越して現存することを意味する。ところが「不出生」とはどんな原理にも由来しないという否定性を示すに過ぎない。従ってここから次の二点が帰結する。第一に「不出生」という名によって本来的に神把握はできない。だから第二に「不出生」は「出生」という子の名と本質的に対立しないので、子が「出生」によって父に従属したりあるいは父の被造物であるという主張に何の根拠もない。》
 こうしてバシレイデスは父と子の同一本質(ホモウーシオス)を強調し、アレイオスの等質=類似(ホモイオーシス)論とエウノミオスの非相似(アノモイオス)論を切って捨てる。しかし、このとき、聖霊というペルソナを被造物とする連中(聖霊に対して戦う人々という意味で、プネウマトマコイと呼ばれる)が出現する。
 バシレイオスはこれに対して、父と子は聖霊と共に称え敬われる(ホモティモス)と言った。ここに三位一体論の端緒がある。
 第二回目の公会議は371年コンスタンティノプールで開催される。テオドシウス大帝は、既に出ていた、キリスト・イエスは「父の本性より神の独り子として生まれ、創造されずに生まれ、父と同一本質(ホモウーシオス)である」というニケーア信経
(その他アタナシオスは「神が人間になったのは、人間が神になるためである」という人間神化(テオシース)の思想を表明している。キリスト教における《真理》は、神によって絶対的な根拠を与えられると共に、人によって知られるもの開かれたものでなければならない。これ故にイエスにおいてテオシースが保証されることこそが真理の重大な条件なのだ。そこでは神=人の等式の証明としてイエスは《真理》そのものの条件になっている)を確認し定式化する。カッパドキアの3教父の思索によって三位一体論はほぼこのとき確定した。更にこのとき、聖霊について、新しく出て来た異端プネウマトマコイを斥け、聖霊は創造されたのではなく、《父から出て、父と子と共に礼拝され、尊ばれる》という言葉が付け加えられる。
 単性論の先駆である異端アポリナリスはこの直後あたりに出てくる。《神であるロゴスの1つの本性だけが肉となった》。これは位格ではなく性についての不気味な問いである。

◆西方教会(カトリック)は、エト・フィリオクェつまり《子からも》という一句によって、父だけではなく子からも聖霊は発出されるという定式によって東方教会の反発を買った。ad utroque(両者)から発するというこの主張の基は、ラテン神学が一なる本質から三つのペルソナへと思考を進める結果、父なる源泉を忘却してしまう傾向に起因する。これはサベリオスやアレイオスを復活させてしまう可能性をもつ。

◆次のようなギリシャ教父の金言がある。《父は唯一であるから神は唯一である》。

◆カトリックの定式によると、霊は子よりも低位に従属させられてしまう。出生と発出という違う仕方によって唯一の父を源泉とするなら、霊と子は共に同格の双子である。

著者: V. ロースキィ, 宮本 久雄
タイトル: キリスト教東方の神秘思想
マリアの原像--聖母マリアにしてマグダラのマリア。彼女たちは別人ではない。それは同じマリアである。僕はそのことを洞察している。そして、実際、今や知識においても知っている。処女崇拝や処女懐胎の信仰は、キリスト教の三位一体論のいかがわしいドグマよりもより一層深いものであり、また、古く、更に根源的なものであるということを。

 キリスト教の三位一体の神は、第一に女神マリアを排除して卑しめている点に於いて、第二に悪魔という恐るべき深い闇への畏怖と眩いその英智の輝きを見損なっている点に於いて、崇拝するに足らない神であり、死んでも仕方のない神である。馬鹿は死ななきゃ直らないというが、一度死ななければ真の神になることはない。イエスはこのことをよく分かっていたのだと思う。僕は今、クリスチャンとは全く違う意味に於いて、殆ど無神論的にだが、けれどもずっと神秘的に、偉大で高遠なヤーウェの神を信じるようになった。ずっと悪魔的であり、同時に女神的ですらある父なる神の不思議な救いが僕に起こった。主は本当に生き生きしている。神が存在するかしないか僕は知らないけれども、少なくとも、生きていることは分かる。異教徒として僕は主を敬虔に信じている、そのことを断った上で、《父・子・聖霊という仮面を被り紫の衣に身を包んだ、あのいかがわしい三本首のキングギドラ》ともいうべきゲテモノを神学者の捏造した馬鹿げた偶像として破壊するべきだと言っておきたい。刻んだ物理的な像があろうとなかろうと、それが観念による透明なものであろうと偶像は偶像であり、出自はいかがわしいものではなかろうかと疑っておくべきだ。

 曾てパスカルは、《アブラハム、イサク、ヤコブの神、哲学者の神にあらず》との名言を残したが、妙なことを言うものだ。アブラハムの神は、ひょっとしたら出身地ウルの月神シンだったかもしれない。シンの名前はシナイ山の語源でもある。また、かといってモーセの神がシンだったかどうかも怪しい。モーセの神はどうなるのだと言いたい。フロイトは、ヤーウェだったかも怪しい、イクンアトンのアトン神だったかもしれないと言っている。アブラハム、イサク、ヤコブの神などという古い時代には、一神教などなかった。今日あるようなキリスト教の神を誰が作ったというのだ。それは教父哲学者たちだった筈だ。

 確かに《父・子・聖霊という仮面を被り紫の衣に身を包んだ三本首のキングギドラ》はできが悪い。大体訳が分からない。けれども、それは人知を越えた神秘だからではない。作った神学者たちがぞんざいだったのだ。仮面と紫の衣は虚仮威しだ。キングギドラ君に《仮面》を被せたのは《異端者》になってしまった教父哲学者であり、《紫の衣》を着せてしまったのはのっけからの《異教徒》で、多分アスクレピオスの信者だった筈である。

 こういった馬鹿げたものを剥ぎ取ってしまえば、キングギドラ君のお里は知れている。金星ではない。由緒正しき古代ギリシャ哲学起源の神様で、そもそも天地創造なんて下賎なことはなさらなかった。彼は非常に単純な抽象観念で三本も首を生やしていなかった。名前は《一》とか《存在》とか言った。パルメニデスが考えた全く非人称的な、従って、全然人格的でもない代物だった。

 大体、《仮面》(ペルソナ)以前に、《人格》の概念などある訳がない。この神様に天地創造をさせたのが新プラトン主義の哲学者プロティノスだった。天地創造をさせたために三本も首が生える羽目に陥ったのである。だが、この三本首はまだ全然、人格神ではなかった。仮面を被らず、その仮面の下にあるものは剥き出しになっていた。その名前はまさに《下にあるもの》を意味する三つの《ヒュポスタシス》といって、それぞれの名前は《一》《理性》《魂》と言った。

 この《ヒュポスタシス》に無理やり《父》《子》《聖霊》の三つのキリスト教的な《仮面》を被せて、《人格》神に仕立てあげたのは、ギリシャ哲学が大嫌いなテルトゥリアヌスという教父哲学者で、《不合理故に吾信ず》という名言を後代から恭しく彼のものとして奉られた熱血漢である。彼はプラトンをグノーシス主義などのあらゆる異端の元祖として憎悪していた。現在の神学で《父》《子》《聖霊》の3つの位階というとき一般に《ペルソナ》という用語を使うが、元々は《ヒュポスタシス》という用語を使っていた。ところがこのギリシャ語の《ヒュポスタシス》は教父たちの言語・ラテン語に移されるとややこしい概念上の混同を引き起こした。どういう混同かというと、《ヒュポスタシス》という語は、神の《三位》を表す語でありながら、《一体》の方を表す別の語と余りにも意味が近すぎるため、区別があやふやになって、《三位》の三本首がつかみ所なくもつれてしまうからだった。テルトゥリアヌスはそこでこの混乱を収めるために、ラテン語の《ペルソナ》を《ヒュポスタシス》の上に被せたが、それはまさに《仮面》の比喩を巧みに用いることによってだった。ところが、その後、テルトゥリアヌスは過激なモンタナス派という《異端》に走ってしまった。

 《紫の衣》の方は、全然クリスチャンではなかった。まさに《紫の衣》を意味する名前のポルフィリオスは、プロティノスの弟子で、プロティノスの神を一層キリスト教の創造神に近づけた。プロティノスは神から由来するのは《形相》までだとする伝統的なギリシャのデミウルゴス観に乗っており、《質料》(物質)
の創造については明言を避けた。というのは神は彼にとって《善》であり《存在》であるのに対し、物質は善の否定である《悪》であり《無》だったからである。ところが、ポルフィリオスはこの《質料》も、第四のヒュポスタシスとして神から流出すると主張した。

 またこのプラトン学者ポルフィリオスは、アリストテレスの《カテゴリー》論の《予審判事》でもあった。アリストテレスの定義した《類・固有性・偶有性》に彼は更に《種》と《種差》という二つのカテゴリーを付け加え、『エイサゴーゲー』という入門書を書いたのである。これは中世スコラ哲学の教科書になったが、このなかにでてくる彼の《類》概念の解釈が、中世最大の論争である《普遍論争》の《種》になってしまった。
 普遍(類と種)は、実体として存在するのか、それとも人間の頭の中に存在するに過ぎないのかという問いをポルフィリオスは発したのである。
 普遍は個物に先行するという《実念論》は、カトリックにとって都合がよいばかりか、《三位一体論》を支える上でも大切な立場である。三つのペルソナ(特殊・個物)が、一なる実体なる一神(普遍)に基づかないとすれば、《三位一体論》は崩壊してしまう。
 ポルフィリオスのまいた《種》のせいで、テルトゥリアヌスの《仮面》(ペルソナ)の比喩は裏目に出ることになった。《普遍は個物の後に存在する》という《唯名論》の出現である。ロスケリヌスという唯名者は、神の三つのペルソナは、3つの分離した実体であり、根本において三神であるという《三神論》を主張し、《三位一体論》を否定、異端宣告された。
 ポルフィリオスは神に大地(質料)を与え、地上の王国を支配させたが、三つの仮面がその上に実体化して分裂してしまうことなど予測もしなかったし、またその責任もなかった。要するにテルトゥリアヌスとの食い合わせがカトリック教会にとって非常に悪いものだったのだ。

 三つの仮面は独立し、三権は分立する。唯名論はイギリス経験論を生み出し、そこからロック、モンテスキューが、更にフランス革命が、そして近代国家が生まれ
てきたのは歴史の教える通りである。
 そしてカントが『純粋理性批判』を書いて、理性の法廷を開き、実念論の末裔である独断論と、唯名論の末裔である懐疑論を、やはりカテゴリーをぶん回して裁き、形而上学に不可能性の烙印を押してしまう。こうして神は不可知になった。 ヘーゲルを待つまでもない。ニーチェに宣言させるまでもない。神はこの時点で死んだのだと洞察した男がロシアにいた。ドストエフスキーがそのひとだ。
 既にマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』は出ていた。ドストエフスキーはロンドンに旅行しているが、その当時マルクスはパリからも追放されてロンドンにいた。二人が会ったかどうかは知らないが、ドストエフスキーは『共産党宣言』とその著者の名前位は知っていただろう。
 ところで、マルクスというのは、かのポルフィリオスの本名でもある。また、マルクス(勝利者・王者)という名前をギリシャ語に翻訳するとバシレイデスという古代キリスト教世界の異端の大物のグノーシス主義者の名前にもなる。バシレイデスの名はゲーテも知っていたことが知られている。後にユングはこの古代の異端思想家に仮託して『死者との七つの語らい』なる秘密文書を書いて知人に回覧し、神秘的なアブラクサスの教義を説いた。これを読んだヘルマン・ヘッセは『デミアン』を偽名出版し、第一次世界大戦後のドイツの青年に熱狂的に迎えられた。『デミアン』はのちにアメリカの反体制的なヒッピーたちのバイブルとなったが、このデミアンはハリウッド映画の『オーメン』に於いて、悪魔の子ダミアンとして描かれ、アンチクリスト六六六に結び付けられた。無論ヘッセは魔術師クロウリーと同じく、《アンチクリスト》を標榜して霊界文書を古代のゾロアスターから口述されたと口走った聖なる狂人ニーチェの系譜に属する人物ではあった。このゾロアスターの説いたのは光と闇の二元論の教義であり、言うまでもなく、グノーシス主義の思想潮流にこの発想はかなり流れこんでいる。ゾロアスター教の考え出した善悪の彼岸の神は時間の神ゼルヴァンであり、ヘレニズム世界ではアイオーン、クロノスと呼ばれた。バシレイデスのアブラクサスもゼルヴァンと同じ性格をもった神だった。
 話をドストエフスキーに戻そう。ドストエフスキーは『罪と罰』でアンチクリスト六六六を主人公にした。江川卓氏の『謎とき『罪と罰』』(新潮社)で解明されている通り、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフの頭文字PPPは、そういう意味を持つ。ところで、元々、ロジオンの名前はワーシリイにする予定だったものを変更したものだった。ワーシリイの名前は、セム風には《マルクス》、ギリシャ風には《バシレイデス》という名前になる。
 ドストエフスキーは、普通に言われている以上に相当、哲学・神学・宗教・社会思想の歴史に詳しい、とんでもない人物だったのではないかと思われる。『罪と罰』という物語は、普通に考えられているのとは相当違う意味と射程を持っているのではないかと疑われるのだ。
 彼は恐らく、最初はカール・マルクスのことを念頭において『罪と罰』を書き始めた。だからわざわざラスコーリニコフにドイツの帽子を被せて登場させているのだ。また、ドストエフスキーは、ローマ・カトリックを、唯物論と無神論と社会主義の根源だと考えていたが、当然、僕が既に述べたような普遍論争の話は百も承知だったに違いない。だから、わざわざ、その種をまいたポルフィリオスを予審判事のポルフィーリーとして登場させているのである。ラスコーリニコフとポルフィーリーの最初の対話で問題になるのは、人間の《種》の《カテゴリー》を巡る話であり、また普遍論争の種になってしまったポルフィリオスの問いが、パロディ化されてもいる。つまり《非凡人》という人間の《種》の概念が、外部に実在するものなのか、人間の頭のなかに存在するものなのか。

(中断)

【後記】恐らく1995年頃に書いたと思しきもの。
オレは、幻覚アレルギーというと、
どうしても黒夢、Laputaとセットになって思い出されてくる。

告白しちゃうと、今を去ること1994年頃、
既に相当のオヤジ年齢であったオレは当時世間で垂れ流されてたひでー音楽のために死にそうになってたんだ。
オレはもともとウルトラマイナープログレファンだったんで、当時の音楽の(まあ今もだが)正気を疑うほどの心無いそのみにくさのために、また、そんなものを気味悪い薄ら笑い浮かべて聴いている奴らのために、精神的にかなり追い込まれてた。
もう、ロックは死んだ。音楽は死んだ。人の心が滅びてしまった。
そう思って、凄く悲観してた。
何ももう聴く気がしなくて、レコード店にもレンタルCD屋にも行かなくなってた。
そして自宅に引きこもりのヒッキー君になってしまってた。
そんなとき、ひょんなことから、うちの女房が見つけてきたのが、ヴィジュアル系とかっていう良く分からんジャンルの音楽だった。

最初は、ふーん、としか思ってなかったよ。興味なし。
でも、女房に、騙されたと思って聴いてみろと余りにもしつこく言われるんで、ああメンドクサイなあと思いながら聴いてみることにした。
それが初めだ。
............。
涙が流れた。孤独なオレの心に深く染みとおる歌詞、そして、絶望的なほどひどいこの世界の中で、まだ人の心をもって叫んでいる真の音楽があった、それもこの日本にあったという驚き、忘れられない。

黒夢の「中絶」を聴いた。
清春がオレに、そうだ、お前は間違っていない!と叫んでいるように思った。
幻覚アレルギーの「ロマンティスト」を聴いた。
SCEANAがオレに、負けるな、生きろ! と叫んでるように思った。
最後にLaputaの「眩暈」に入ってる運命の曲を聴いたのは、
中野駅前にあった小さなレコード店のなかだったよ。
突然、聞こえて来た歌声、歌詞は言った、

 許されざるもの、と。

忘れられない。
知らない歌をじっと聴いていると、歌のうしろにもうひとつの歌が轟いて、オレにこう訴えているように感じたんだ。

 許されざるものに、跪いているな。
 立ち上がれ、顔を上げよ。
 気高く生きよ、そして、戦え、と。

そして、オレは瀕死の精神状態から立ち直った。
実際、かなり危ない状態だったんだよ。

黒夢・幻覚アレルギー・Laputa、突然オレの元に降臨して、
心と命を救ってくれた、三位一体の黙示録の天使たち。
彼らがいなければ、きっと今こうして生きていることすらなかっただろう。
やがて、地下鉄サリン事件が起きたよ。
でも、すでにその前に、この国は隅々まで息の詰まりそうな音楽のサリンに満ちていた。今もそれは変わらない。そして、前より猛毒かもしれない。
だけど、心に生きて轟く命の歌がある限り、オレは死なない、窒息しない。
そして気高い罵りの言葉を叫んで、生きて生き抜いていってやる。

だから今、一番好きな歌は、ジャパニーズ・トラッシュです。

アーティスト: 幻覚アレルギー, KAZZY
タイトル: 幻覚アレルギー/ジャパニーズ・トラッシュ



アーティスト: 黒夢
タイトル: BOX



アーティスト: 黒夢
タイトル: KUROYUME COMPLETE RARE TRACKS 1991~1993~インディーズ全曲集~



アーティスト: 幻覚アレルギー, SCEANA
タイトル: 「D」のススメ




アーティスト: Laputa, aki
タイトル: 眩~めまい~暈
いきなり読者さんがついてしまいました。
でも、すまんです。ここはそのうち何かやろうかなと思って開設はしたが、
とりあえずは書く事決めとりません。
仮題「アンチポッス」でいこーかな、と思ってますけど、変えるかも知れん。
他にも複数、ブログサイト立ち上げてます。
うち、3つばかりは本腰入れてて、他の幾つかはどれも実験・学習用です。
で、ここもその実験・学習用の仮サイトなんですよ。ハハ。

本腰入れてるのは、

◆不可能性の美学Ⅱ http://blog.livedoor.jp/novalis666/
◆不可能性の問題 http://novalis666.blogtribe.org/
◆神沢昌宏全集 http://d.hatena.ne.jp/novalis666/

の3つです。しかし、悪いですが、僕相当変わり者で難解な思想をもつ哲学者でもありますので、上記3サイト、けっこう読むのきついかも。

それから、今は色々ありまして、ブログ活動はすべて一時休止中です。
更新はここしばらく、上記メインサイトにおいても滅多になされないと思います。

つーか、ありがちな話ですが、現在はソーシャルネットワークに没頭中で
ミクシイとキヌガサに入り、特にミクシイを活動拠点にしてますんで、
しばらくの間、それにかかりきり。ブログどころじゃないんですよ。

ブログにはミクシイで固まったネタができたら投稿するっぺというスタンスに今はなってます。

まあ、飽きっぽいムラ気な性格でもあるので、いつまたふらりと舞い戻ってくるかもわかりません。

色々手を広げすぎているキライはあるが、時間さえあればぜんぶやりたい欲だけはあります。でも、一度に全部するわけにもいかないですしね。。

まあ、今のところは余り期待せんといて下さいな。