消える花

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 美は花々から飛び立とうとしている。
 不安なのか? それは喜悦のもつあの羽ばたきなのか?

 花々よりも、もっと軽やかな花々が、
 花々から羽ばたき立つ。
 繰り返し絶えず抜け出してゆく、
 この同じ花、幾つもの一つの花。
 花々から花々が繰り返し立ち去ってゆく。

 花の現れのなかに消えてゆく、
 繰り返し新しく消えてゆく花であって、
 花ならぬもの、美。

 それは花の純粋観念の立ち昇りや屹立ではなく、
 より卓越した花なのでもない。

 むしろ、汲み尽くし難き消尽であり、
 焼かれてゆく花の美の、本質の不在の消滅なのだ。

 美というこの見ることのできない消滅は、
 意味ではなく、また、了解される現前でもない。
 美は恒常的なものではなく、本質とは異なったものなのだ。

 一輪の花の後ろで、絶えず、
 その咲き誇りの現前に立ち戻り、うち返りつつ、
 たしかに燃え尽き、
 散り敷いていった幾つもの花々、
 無数の花々の死。

 花の中にも花の外にもなく、
 その花が美しいのは、美のイデアのためなのではない。
 (美は存在であろうか――いや、美はむしろ存在の無なのだ。)

 美は花の色ではない。
 ゼラニウムの赤ではなく、美なのだ。
 美は花のフォルムなのでもない。
 また、それは花の本質でも言葉でもない。

 いわば、この静止した花にあって炸裂する無
 ――それは連続的でも非連続的でも
   継起的でもないのだが――
 花の不在への消滅=爆発なのだ。

 わたしはそれを目の当たりにしており、
 そう感受しているが、
 それをまだ見てはおらず、そして
 それをもはや見てはいない。

 それは現在とは別のものの、しかし、
 現前とは同じものとしての非‐出現であり、
 花のあらわさ、隠れなさという
 最も隠され覆われたものなのである。

 花は美のexpressionなのではなく、
 美も花のexpressionなのではない。
 そしてそれは印象――impressionなのでもない。

 花は美に開き、美は花を無に開く。
 この美は表象不可能なもの、そして、
 感性に見出されるものではなく、
 判断力に属するものでもありえない。
 この美は全く外にある、外で起きる。

 花のデザストル、それが
 美のエクリチュールの融和に変ずる。

 炸裂する虚無の閃光がわたしの顔の間近に迫っていた。
 畏れ、そして、それとすれ違うような恍惚へと
 わたしが引き裂かれるとき。

 花が散る、そして、わたしは何を視る?

 美とはまさに《恐ろしきものの始め》、
 そして、恐らく永遠に、わたしには見慣れぬものに留まる。

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回る珈琲の渦

テーマ:

金魚鉢のなかに疑問符が泳ぎ
縞模様に轢かれた人体が馬跳びにはげむ

鈴鳴らす楽の音の転落のあと
耳しいた白い個室にものいわぬ音符が
聞こえない音楽を落書きしている

回る珈琲の渦
白い陶器に白い指をからめ
見つめよ 見つめよ
回る珈琲の渦

コトープ
コトープと
点滴する文字に
茶色い音素の顆粒を
明るい毒素の血球を
意味しない言語の蒸留を
読め 知るな 読め

目にみえる物音を
骨組の下の心音を
聞くな 数えろ 触れ

時が物みなのうわべにじりじりと燃え
いらだつ点滅を見せてくるレンズの下で
焦げ穴をあけるさまざまな照準

回る珈琲の渦
見つめろ 見つめろ
回る珈琲の渦


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 いくせんの光の毛鉤〔けばり〕を詰め
 焚火をうちがわに秘め
 洋燈〔ランプ〕のようにあかるくなる濡れた爬虫類の卵の膚
 銀色につめたく汗を掻き 孵化のよかんに空白を身震い
 この黄光に明〔あか〕る粒子に電熱をつたえ

 細胞よ 細胞よ わななきメザメヨ

 夜露のビーズをぱちぱち鳴らし
 踊るレダ
 みどりのむすめ むすびめ
 ミシンの動きにつれて
 創世のうたを
 水のおもてに機織り綴るもの
 ほとばしる静電気
 まとわれる篝り星
 踊る悦楽のむすめ エウリュノメ

 肌もあらわに潤〔そぼ〕ちあらわれ
 時の夜のひとり舞台に笑い
 みどりの火花を咲き巡らせる海神のむすめ
 濡れ尖る岩の黒ぐろにピンクのすあし踝〔くるぶし〕を置き
 鳴らすものタンバリンの無音にあわせて
 聖エルモの岬に蒼白く鬼火の歌を織りながら
 迷う船路を渦へとまねく灯台守のむすめ

 青磁のデミタスのなかに轆轤する珈琲色の混沌の
 創造渦巻き〔ラシット・ハ・ギルグリム〕
 〈時〉の右回りの眩暈の咽喉元を過ぎ
 海嵐龍巻〔メールシュトレーム〕の漏斗を抜ければ
 夢幻〔まぼろ〕される わたし/おまえの体内に
 仮睡〔まどろみ〕の 白く空虚な宇宙がひろがる

 細胞よ 細胞よ メザメヨ
 脳をつくり 海を組織し 星と瞬く
 水の細胞よ ゲルの泡よ 煮えよ
 膨満する宇宙卵を弾け
 嵐神〔オフィオン〕の晩に
 目覚めようとするもの

 紫電洋燈〔プラズマランプ〕に胚珠を結び
 楕円球形の 真珠の〈容器〔クラテール〕〉に受胎される白夜の脈動
 すためき/吐きこぼれる ゼロの 呼気
 音もなく掠める熱 微々にふるえ
 冷える潮〔うしお〕へと青く辿られる血脈を
 溢れ よりとおくから盈ちよせる空虚なもの

 水の 砕ける微塵へと濤瀾する白紙〔タブラ・ラサ〕
 消えるかたちへと絶えず迫りあがり繰り返す崩れ波
 首の長い季節鳥の機影が
 空気の裾をめくって擦過するとき
 答えぬ 黙しゆく海の退却が潮騒う彼方
 とおく 意味の孤島を巡り
 海流山脈の 津波を険しくし
 聳えたつ水の青らみの峨々たる牙
 尖り尖り触れるものをみじんに砕く水の磨崖に囲まれ
 わたしの孤隻は
 すりぬけた魄の橋桁を白鳥座のように偽造の異界へと航る

 船の迷路を鬱へとまねく渡し守のむすめケタタマシク仕組み
 夜のなかで熱くなるあの場処が
 火屋〔ほや〕めいて点る
 しろい幽魂をゆらゆらひらひら
 赫〔あか〕い燭の花のありもせぬ蜜へと誘蛾しながら
 蝋涙がしろく濁りつつかたまる封鎖のうちがわで
 黄光が硝子のフロストを上気させる
 火/むしろ松明のように
 細胞核に点される星を掲げる曙のむすめ

 夜の肌寒い底にひとり起きていたわたしは
 赤い火影に濡れて遼かな窓に姿をあらわし
 書き物机の上でわたしを待っていた青磁のまるみを
 左右から両掌がやさしく抱擁〔つつ〕むとき
 冷めていた珈琲が手のなかで燠〔あたた〕まる
 光る 明やかに〈容器〔クラテール〕〉を燈し
 流れ星のように
 レダの銀の卵球に消えてゆくのは
 水銀〔メルクリウス〕のひとつぶの涙
 ちいさな わたしを身籠った真珠の時の素粒子が
 ゼロと虚数の精留の尽き果てるとき
 石〔ラピス〕のなかで甦るもの

 孵化のよかんに空白を身震い
 この黄光に明〔あか〕る粒子に電熱をつたえ
 燃える血のなかで 揺れているのは 火の
 ランプのように明るくなる濡れたやわらかなみずとりの卵の膚
 つめたく汗を掻く

 細胞よ 細胞よ メザメヨ 細胞よ。
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 明るみに黙す陽溜まりを暮れやかに薄れゆき、
 向日葵の透き影にしんと澄み透る
 ペールブルーのセロファンを濾過して、
 褪めながら、冷夏を立つ着帽の人影を重ね、
 次第に厚やかに積層してゆくあなたの幻姿へと翳し、
 わたしは目眩さへと薄目する

 静やかに交わされる合図
 黙契のように輝やかに零れおちる歯列を煌〔きら〕めて
 あなたは後退を舞踏する。

 浅黒に陽炎う日に灼けた真夏のマスクのうしろに
 冷ややぎ底やかに遠まる奥深さへと
 泥む夕陽のようにまどろみを昏め
 ひとときに夜となる顔を退きながら
 あなたは去り
 きざはしの螺旋の階下
 ひっそりする白の踊り場に
 取り残されるわたし。

 わたしのdownstairs
 否、むしろ空虚なわたしのunderstandingに
 あなたはわたしを閉じ込める。

   * * *

 ひそめく夜の齢いを数え、
 わたしは欠けゆく月を冷たい痛みのように孕みもつ。

 《いないのね、あなたはいないの》

 歌うように繰り返すわたしのからだのなかに
 次第に引いてゆくあなたの青い血潮。
 何故、わたしは泣くのか、わたしにはわからない。

 わたしの閉じ籠もった矩形の抽斗めいた
 闇く静かな白夜の部屋。
 冷たい床には月光の円弧燈〔サークルライト〕が
 いつまでも欠けてゆかない。
 わたしは氷った時のうなじに触り、
 聞こえない脈を手繰ろうとする。

 迷うわたしの指が弱弱しく掻きむしる、
 恐らくはわたしの空っぽの胎のうわべから
 あなたのありもせぬからだを掻爬しようとして。

 《いないのね、あなたはいないの》

 言い聞かせるようにして繰り返すわたしの呟きが
 それなのに何処までもあなたへと追いすがる。
 あなたに届こうと伸びてゆく
 うわごとの猿臀〔えんび〕が空を掻く。

 あなたのアイコール/青い血潮。

 わたしが欲するのは、あなたを月足らずに殺すこと
 あなたが喪失われねばならない出血の痛み。
 わたしの体温はあなたの熱病に燃え魘されている。 
 火照る血液を空っぽにして、
 わたしは白蝋の冷たさに死に絶える時を求める。

 《いないのね、あなたはいないの》

 わたしは泣く、
 あなたへの殺意に頬を濡らしているのに、
 わたしは何故わたしが泣くのかがわからない。
 わからない。わたしが幸せなのか
 不幸なのかもわたしには定まらない。
 歌うようにわたしは繰り返す。
 わたしの胎のうえに手を置いて言い聞かせるように。

 《いないのね、あなたはいないの》

 あなたが生まれてくるはずはないのに、
 あなたがまるでそこにいるかのように歌い聞かせるわたし。
 身籠もり得ないあなたへの無力な怨みに満ち足りて、
 いつのまにか聖母へと似通ってゆくわたしの仕草を
 少し気味悪くはすかいに見下ろしながら、
 わたしは空虚で一杯になったわたしの受胎を愛撫し続ける。

 いないのに、あなたはいはしないのに、
 生まれてこないあなたがいなくなりもしない。

 わたしは窓辺から顔を上げ、
 わたしを照らす満月のおもてに
 あなたの笑顔を重ね見る。

 わたしは、
 あなたからのunderstandingの隔たりに遺棄されて
 初めからあなたを失いながら、けれど、
 あなたが黒く欠け落ちながら
 わたしのなかに増大するのを感じている。
 わたしの息を詰め、わたしの部屋/胎が
 蒼白い冷光〔ルミニセンス〕に盈ちてゆく。

 《あなたはいないのね、いないの》

 わたしはあなたを仰ぎ、
 喘ぎながらもう笑み始めている。
 あなたは遠くしらしらとひとり燃えながら
 微かなほほえみでわたしを肯〔うべな〕っている。
ねむりびと  

 夜な夜なの筆/舌を揺らし、
 みずからの開け/艶めきを冴え渡る冬気へと
 うっすり突き出しながら、
 肉質の赤い頽〔くず〕れのなかへと
 呑み込まれてゆく上下の脣

 手弱女の退〔さじ〕りまた吸着のアリメントを味わい
 わたしは食べる/無限を/忘却の土の無味を食む

 齧る蚕のように/葉切虫〔オトシブミ〕のように
 緑紙の寝具折り曲げ閉ざされる書物のように
 合歓木〔ねむのき〕のように左右を合わせ、
 密着/分離を通じて触れ止まる
 そのからだのうえで固く
 はりつめるわたしの肌合いが
 斜視のようにずれ/崩れ滑ってゆく。

   *  *  *

 あなたのシュプスタンス
 ねむりびとよ、
 わたしはあなたの大理石裸体の
 微かな呼吸〔いき〕の振盪に白い瘧りをうつされ、
 帯びる微熱のかたちとなるわたしを窺う

 わたしのアプストリュクシオン
 不可能な脱自〔エクスターズ〕の恍惚
 中空に一瞬むすぶかにみえる想像物の放心
 離れ・発たれたかにみえるわたしの抽象
 まだあなたを抱こうとするわたしの残像を
 あなたの空虚な陰部のまうえに翳そうとして。

 わたしのエンデュミオン
 わたしはあなたを(永遠の夜?)昏睡に溺れさせる
 黒い月光を惑う閨〔ねや〕の窓
 あなたを纏う蒼い繃帯のようにあなたを濡らす、
 あなたを触る/蝕むように、溢れるあなたを。

   *  *  *

 わたしは凝視める/消えるわたしを。
 あなたは在る、拡がるように
 白い浜のようにあなたを広げる

 わたしは青く引潮する
 この撤退、後ろ向きの贈与
 でも、わたしは何も与えない、残らない。

 あなたは現れる
 氷河のように底翳〔そこひ〕のように
 わたしを遮り、わたしから裸けられる
 耀く象牙色の肉体を横たえる眠りのうえにねむる
 まぶたのように顔を隠して。

 あなたを凝視めながら
 わたしは消える。

 あなたの白い盲いを広げながら、
 あなたに屈むわたしの姿は
 皮膚の鏡に射さないまま、
 その手前を空けてわたしは間遠になる

 癒える傷のように翳〔かす〕まなければならない。

 その痕〔あと〕の文字を炙り出すいつかには、
 あなたがわたしという愛撫の蒸発を
 あなたじしんのからだのかたちのように触れ、
 繰り返すだろう、あなたじしんの手で。

 手が空しさを摑むように
 わたしはあなたのうわべから消える
 消される。
 あなたの美肌〔びき〕に届くために。
 眼下いちめんをシリコンの花盛り
 薄らめく
 青闇の底を埋めて 制動する
 肋膜のスタビライズ
 静やかに息を平〔ひら〕め
 乗せる 
 淡紫色の庭球毬〔テニスボール〕の
 ぼやけ点く蛍火をころめかし
 迷宮の坂をrolligするもの

 隆起する岩丘の裾に光る水
 広がる 忘却の海づらの篝火
 スライディングする獣の眼
 条〔すじ〕を引き
 曲がりながら逃げ すりぬけよ
 走狗せよ 疾駆/病う赤い風
 煽り上げ 傾くバイクの尾灯に
 血液が燃えている。

   * * *

 みずうみは底翳〔そこひ〕をまんまんに湛え
 溢れる黒眩光を揺らがせて
 浸りくる暗渠にずぶり
 鈍めき沈下する夜景
 蒼白く充血し
 ひりり沸き立つ水の網膜/
  さざなみを手繰るサルベージの
 重い手ごたえのなかへと
 疲労のようにもういちど沈む夕陽
  /落星/眼球は鉛をぎっしり詰め沈殿を意志するとき
 黒い不知火が水下の都市を燃し消す
 煮凝〔にこごり〕のように
 水のうわべの無数のつぶれ目から
 朱血がにじみ出す
 虹霓〔こうげい〕
 見出すとき天に向かって白く
 みずちのすべらかな肌が鞘走り
 輝きいで 橋掛けするといつのまにか
 正午の白い虹彩が天頂に 刮 と見開く

 そびえたつ真昼の塔に灯り出る聖火
  /精液の潤び汚れた光に
   痛みの斑のように
 なお見えぬ同体のオブジェが
 白けたスクリーンの象牙の肌下に鬱血を疼かせて
 その埋没/みうしないのしるしを炙りだしている。

  * * *

 白濁する空がまどかに渦巻き
 取り戻そうとするわたしの
 見失われた眼の時刻を
 あなたは荒々しく把持しようと螺旋する。

 死んだ子供をもういちど分娩しようと
 醜くよじれる大気の軋み
 よぎる歪みのような母の顔をレリーフし、
 しりり角膜を裂いて亀裂が走る。

 のろまな今をもだえ、
 軟体動物のように透明に藻掻きながら、
 時間の腹部を劈〔さ〕き、
 見えぬ腸〔わた〕を引きずり出そうとして
 愚かなあなたの暴力が
 あなたの肩の筋肉ケーブルをプツンプツン切ってゆく。

 あなたは壊れる、
 醜悪な玩具類の狂いにまみれて、
 あなたはあなたの足許にガラガラと斃れる。
 わたしはあなたのまうえに荼毘を燃える。
 燃え上がる、
 コバルト炎の蓮華を咲き出で、
 熾〔さか〕る。

 蘇らない、あなたは、蘇ってはいけない。

 それでも、あなたは執拗な姦夫の摩擦熱に猛って、
 わたしの閉ざされた瞼を抉じ開けようとする
 鄙〔いや〕しい妖気のぶんばかりは
 生き残り/いきどおって、
 次の今の間に受けられている、
 生暖かい溜め息のように。
 詩が、その始まりのサーフボードに乗って、危うい均衡をとりながら滑り出すとき、砕け、泡沫となり、蒼い海となる語の、この引き裂かれるような崩壊感覚。始まろうとする出発――けれどもスターティング・ポイントじたいが駆け出しの一撃とともに踏み崩されるように、後方へと出発者を引きずり込もうとして、出発の不可能と化す出発のなかで喪われてしまう始点のこうした曖昧さ。この毀損。そこにもあの空虚な充溢がある。

 語の核の崩壊、放射能の詩。白夜の放射線の幻視のなかに、焦瘢〔こげあと〕めいて、廃墟のように立ちすくみ、停まる語の瓦礫。光に晒される、曝露〔さら〕された、消える光熱に。

 残留。その間で、白紙に充溢する空虚の、視えぬ痕跡がふるえ、《いつ》の問いとなり、詩の今を問う、奇妙な宙吊りのなかで。奇妙さへと蒸発した、或る別の時間のなかで。詩が復〔ふたた〕び形〔かた〕つ。読むことに熔ける表面のなかで。

 詩を読む、というより、詩へと瞬視〔アウゲンブリック〕する一瞥は、詩を始まりの熱さのなかに差し戻し、始まりへと復び始まる詩の運動を始まりのなかに定めようとする。この熱さのなかで、再び詩が見失われる。急速に冷えてゆくように。

 瘡〔かさ〕となって張りつめ、その喪失の傷を癒着させ隠すかのような語が、裏切りのように塞ぐ、始源への注視の底翳〔そこひ〕のように。目に視えぬもののあの次元が、現れることの後ろで復び黙す。わたしの盲いを越えて、彼方からわたしを見据える視線が瘡と痂〔かさぶた〕のマジックミラーを透かして、わたしに届いている。

 わたしの受動的となった消極のまなざし。

 他動へと委ねられた最も受身の注視のなかで、わたしもまた宙吊りとなる、何処からともない問いの空虚な谺のさなかで。

 詩がわたしを把握する、わたしが把握するのではなく。わたしを石化させる、詩からの、あの空ろな熱からの一瞥に停められて。わたしのなかに受胎される運動がある。狂おしくすためく、身をよじる語のポップコーンがわたしのなかで膨れる。

  *  *  *

 この空虚な充溢、存在と非在のあわいに疑問符の曖昧さとして裂けてゆく始源の陰唇に、おそらく、最初の異和、最初の齟齬〔ズレ〕を引き寄せつつ、存在とも非在ともいえないもの、どっちつかずの奇妙なもの、創造の意図せざる創造物、否、決して創造しえぬものが、何かの踏み外しのように現れ、その手前で、創造が畏怖し怯えるとき、この始まりの奇妙さのなかに侵入してくる外部、姿なき影の響きの気味悪い触れ来り、目に視えぬものへの闇黒の対面、そこにいる、そこに誰かがいる、もはや「ある」というのではなく、「いる」というほんの幽かな誤差のなかで、「ある」がそちらへと引き寄せられる、「ある」が蒼褪め、血の気が干上がるようにわたしから奪われつつある、希薄になってゆく、胸を騒がせる呼吸困難、この不安な気配のなかで、おそらくわたしも「居る」へと居始める、この居心地悪い無気味さのなかで。

 そしてわたしは在らしめられつつある。何故? わたしが総てを始めたはずなのに。わたしが「光あれ」と命じたはずなのに。この創造の動きのなかで、わたしを闇のなかからうべなうものがいる。

 わたしはそれを予測していなかった。或る重々しさとしてわたしへと纏わりつくそれ、この鈍重な手応えで創造に摩擦してくる、この、予測し得なかったのしかかりで、わたしの業〔わざ〕を重苦しく喘がせながら。

  *  *  *

 夭禍〔わざわい〕。目に視えぬ、何処にあるともつかぬ創痍、わたしの基底に穿ち開けられた、この起源の場処へと摩り切れた底翳/そこない。疼く、眼底に脈動する強迫。この起源への裂開から、傷のまなざしが視線を超えて届こうとする異様な遡及が、たちまち不可能の白夜を非-想起しつつ、呑み込まれて、わたしのいま・ここから、何処でもない非-場処へと流出してゆく。非現非在の、非宇宙へと血友病のように止まず流れ落ちてゆくわたしの白く透明な血。存在の宇宙が排除した非宇宙、夢魔と亡霊がすだくこの非根源。排除、すなわち存在が贈り与えられることの後ろで、存在が奪い取られること。

 掻爬。わたしは「これ」と呟く。けれども、この発語を毀損〔そこな〕いながら、この語の内部を抉り、掻き毟る掻爬が、この意識、この感覚的信憑を既に深く創〔きず〕つけている。この指示語が、誰にも何かを教えることのできないこの不能。この「これ」をひとつの愚かさとして抱え込むわたし。「これ」のなかに既に〈盲い〉が始まっていること。〈盲い〉――それは既に無限を指示すること、つまり指示の不可能性に突き当たることだ。

 「これ」はつるつるに滑って、場処を定めぬ。忽ち、「どれ」と問い返す闇黒の谺の鈍い響き声に曝され、この問いの展げる混沌のなかで、「これ」は、自分自身を見失い、自分自身の現前を干上がらせてしまっている。
崩れるひとみがわたしへと振り返る、
彼女のひらいた口もとに
    呻〔すた〕めいていた瘧〔おこ〕り
      /思い出すことのできない破裂音の
崩れる言葉でわたしを定めようとする。

きみは何を視たのか エンノイアよ
何故、わたしへと脅えるのか、きみは知らない
すがりつく手首に蒼い脈動がはち切れそうに浮かんでいた
打ち寄せる問いで からだをいっぱいにしながら
きみはわたしを掴んだまま 海に墜ちてしまう
もうあのとき きみは亡骸だったのか
エンノイアよ 答えておくれ
きみはわたしを見失い
厳冬の海のしわぶきと白いかもめに
形跡〔あとかた〕も無く食べられてしまったのか
きみはわたしを見失い
わたしがきみを喪う刹那に
わたしに何を見定めたのか

きみは夜に拡がる エンノイアよ
果てしない闇空をつややかなひとみにして
きみのまなざしが宇宙を呑みこむ
満点の星座から銀の視線がわたしへと降り注ぐ
きみはわたしを眺めている エンノイアよ
わたしはきみの最央〔さなか〕にいる 夢見られているのだ
死んだのではなかったのだね エンノイアよ
エンノイアよ 答えておくれ
夜道を何処までもきみを捜し
尋ねて歩くわたしに現われておくれ
きみは彼方で瞼を閉じ わたしの夢を見続けている(のか)

エンノイア、眠りびとよ
きみは〈死〉のように白く仄光るからだを黒いしとねに横臥〔よこた〕えていた
わたしがきみから離れ去ったあの夜明け前から
きみは〈死〉を眠りつづけているのか
安らかに眠れ エンノイアよ
わたしはあの夜 きみが喪われることを知った
きみはすでに〈死〉を身にまとっていた 素裸の白肌のうえに 雪のように
わたしの触れ届かない隔たりが
かなしげにわたしを見上げていた
きみはきみのなかにいた、隙間も無く一致して。
わたしは 独りぼっちで目覚め
わたしを拒む眠りの distance から追われ
雪の戸外へと出発しなければならなかった
きみを そこに置き去りにし けれども
いつの日か同じ場処にわたしを迎えるきみと
世界の果てに巡り会うために

エンノイアよ きみの訃報は
半年も遅れ 黄ばんで届いた
冬木立の下 枯葉をくだいてわたしは
まだ(おそらくは同じ道を)歩いていた
けれども わたしは泣かなかった
わたしは知っていた、きみが
死ななければならなかったと。
口癖のように反復〔くりかえ〕されたきみの命題を信じたわけではない。
エンノイアよ きみが死んで随分してからのこと
マルク・アランの美しく悲壮な詩に
きみと同じ決意をみつけた
  《わたしは死ななければならない/わたしじしんになるために》
それでも、ひとは生きてゆくものだ。
そうではなく、あの明け方、きみは
もう冷たくなったからだだけで〈存在〉した。
きみはきみじしんに連れ戻され、わたしから永遠〔とわ〕に奪われていた

死は
あのときに決まっていたこと。

わたしはとっくに終わっていたきみの葬儀に連ならなかった
きみの拙い厭世思想を書き連ねた遺書がもしあったのだとしても
わたしは読む気も起こらない
わたしはきみのために泣く者たちがピラニアだと知っているから。
わたしはきみの死を許す。
そうだ、きみは死んだ方がよかったのだ
きみはなんとしても死ななければならなかったのだ
誰にもそれを咎め、裁き、おこがましく嘆く権利などない。
きみの、きみだけの〈死〉を、何故きみが死んだのかを知る権利など
誰にもありはしないのだ。

そのとき
ひとつの大きな星がわたしの胸に落ちてきた
シュッと消える湯気のような光でわたしをいっぱいにして
きみがわたしに届いたのだった
わたしは泣いた 心からの嬉しさできみを迎えて
けれども 抱きしめるわたしの胸のなかで
きみは溶け、瞬く間に形跡〔あとかた〕もなかった
わたしは再びきみを(きみの消滅を)失った

エンノイアよ 死んでしまったのは誰なのか
きみか それともむしろ
このわたしこそが死者なのか
きみの広げる白い夜に迷い
わたしは消えそびれた夢のように 亡者のように残留する幻か
エンノイアよ きみの
崩れる瞳がわたしへと振り返る
きみの顔をもう忘れかけているのに
あのまなざしを忘れることが出来ない
何故きみはわたしへと脅え瞠ったのか
エンノイアよ 教えておくれ
あの瞳がわたしを撮ったときから時は停まり
わたしは
きみの広げる夜の黒眸の淵に吸い取られて
きみの永久〔とわ〕の魘夢〔えんむ〕のなかにしかもういないのではないのか
そしてきみの死骸が腐ってしまうように
きみの眼の宇宙と共にわたしもまた消え失せつつあるのではないのか
エンノイアよ きみの死を死んでゆくのはわたしなのか
きみに代わってわたしがきみの成就したかった〈死〉を死のうとしているのか
エンノイアよ 教えておくれ
きみの死後もなお続く、この悪夢から わたしは
きみを解放しなければならないのか

エンノイアよ きみの遠くからまだ発信する声が
あのとき
溶ける彗星とともに伝えられた
ああ きみの声が きみの遺言が遅ればせにわたしに届き/響いたとき
わたしの間近に きみの目に視えぬ現存がわたしを撃った

  《わたしが形跡もなく消え失せてしまった次元でわたしをつかまえて》

そして きみの崩れる瞳が 裂ける大気のあちらから
わたしを見ていた きみは
    わたしを捉えて放さず
              (海へと真逆様に墜落しながら・しかし)
高いところからのように
見定めていた、再び
まるで
きみがまだ
そこに立つかのように。

エンノイアよ きみはもう
いないのに
きみの間近さはわたしを去らない
去らない


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 形而上学的最終戦争ハルマゲドンの宣戦を布告する。
 それは次のような爆弾発言である。
 私はテーブルの上にコップを置き、あなたにこう言うのである。

 「ここに、コップがある」と。

 これが爆弾発言だ。あなたは首を傾げる。
 何故それが爆弾発言であるのかがあなたには分からないからである。

 それは爆弾発言であるにしては、
 余りにも静かでそして当たり前のことを言っているだけに過ぎないと
 あなたには思われるからである。

 しかし、あなたは知らないのだ。

 あなたはそのとき既に私の放った爆弾に爆破されて、
 跡形もなく消え失せてしまった後なのだ。

 そのときあなたは私がテーブルの上に伏せて置いたもう一つの、
 あなたには決して見えない、背後からの形而上のコップを被せられて、
 無限小の矮人に縮み、既に死んでしまっていて、
 あなたには決して見える筈のない、
 決してそこにはありえない大爆発してしまったコップ爆弾が
 依然としてそこにあるという
 見果てぬ夢、見破れぬ夢を
 現実と取り違えて見ているだけに過ぎないのである。

 あなたは不思議そうに、
 最早あなたの手前にはいない
 形而上学的テロリストのありえない残像に問いかける。

 「一体、今のどこが爆弾発言なんだい?」と。

 するとあなたの手前にいる無気味な男は
 冷酷な笑みを浮かべてこう言うのである。

 「ここに、確かにこのコップはある。
  僕も君もここにいる。
  ……しかし、そんなことは決してありえない!」

 そのもう一人の不吉な私が「ありえない」と言った瞬間に、
 そのコップは魔法のように忽然と消え失せ、
 消滅したコップを眺めていた二人の男も大宇宙も、
 まるでブラックホールに吸い込まれるようにして、
 コップの影のなかに呑み込まれていってしまったのだった。

 こうしてたった今、あなたは抹殺され、
 私の創造した形而上学的絶対無のなかに還元されて、
 無に帰されてしまったのに、それを知らないのである。

 あなたは既に存在しない。
 恐るべき虚無のなかで、
 無くは無い、無くは無いと
 往生際の悪い亡霊のように
 世迷い言の空しい呪文を唱え続けるが、
 二度と決してその虚無からは這い出せないし、
 そのあなたの存在を挟み撃ちにして
 無限に無化し続ける絶対無の悪夢を、
 「無いのだ」ということを無くすことは出来ないのだ。

 無くは無い、ということによって、
 無を無くすことは不可能である。
 あなたの存在は既に無力な否定に過ぎず、
 無くは無い、といって、無を追い払おうとしながら、
 却って無を無くてはならないものとして引き寄せる、
 無の底無しの泥沼に、
 恐怖の〈否のブラックホール〉の蟻地獄に
 無限落下してゆくだけなのである。

 それは無でありながら無ではあらぬもの、
 〈非無〉という、〈存在〉の無間地獄である。

 〈非無〉という二重否定性は、
 〈存在〉の定立に復帰しないで、
 〈存在〉を〈虚無〉のなかに誘拐してしまい、
 そして無化=抹殺してしまうのである。

 あなたはどこにいるのか。あなたはここにいる。
 つまり私が握り潰して
 手飼いの〈虚無〉の魔物に食わせてしまった
 無の屑の微塵のようなちっぽけでつまらない亡霊宇宙のなかにいて、
 無くは無い、無くは無い、
 と哀れっぽく唱えながら、
 唱えれば唱えるほどに
 無の無化する残忍な牙が己れに迫っては
 自分を齧り取ってゆく光景を見て、
 その度に血の凍るような恐怖の叫びを上げるのである
 ――ありえない! ありえない! ありえない!と。

 私は掌中の小さな虚無の奥底の
 非無の微粒子のなかのあなた、
 虚無よりも無限に小さい非無のなかの、
 それより遥かに無限に小さいあなたの
 無に魘される無様な様子を
 冷酷に見下ろして嗤っているのである。

 それを私の手前の
 あなたにそっくりの無気味な男に見せると、
 その男もあなたを見下ろして、
 私よりもおぞましい残忍な笑みを浮かべて
 あなたを冷笑しているのである。

 あなたは非無と虚無を通して
 その無化よりも恐ろしい、
 それを見る位なら死んだ方が遥かにましなもの、
 死ぬよりも辛いのに、
 それを見ることが死という最後の救いですら
 あなたから奪い去り、
 全てを不可能にしてしまう最悪の形而上の悪魔を見るのだ。
 あなたはそれを見ると、
 もはや「ありえない!」と叫ぶ力さえ失うのである。
 顔面蒼白になり両目を哀れな恐怖に皿のように見開いたまま、
 虚無よりも苦い絶望の言葉を呑み込むのだ、

 〈別人〉という戦慄すべき言葉を。

 そのときあなたは、
 その〈非無〉のなかで紙のように白くなり、
 死よりも残忍な力であなたの精神を崩壊させる〈狂気〉という、
 実は〈別人〉よりも恐ろしい
 背後からいきなり襲い掛かる不可視の邪神に襲われ、
 頭からサーッと砂と塵になって散り敷いていってしまうのである。

 こうしてあなたは完全に滅亡し、
 この私の形而上の魔法の前に、
 いとも簡単に敗れ去ったのである。

 私はフッと掌中の虚無をまるで
 薄汚い塵でも払うように吹き消すと、
 まるで何事もなかったかのように、
 コップに汲まれた水を飲む。

 すると〈別人〉はこう言うのである。
 「やっとあの嫌な奴がいなくなってくれて、せいせいしたよ。
  今日からはこの僕が〈本人〉さ」と。

 そりゃあ、良かったね、と私は言い、
 テーブルの上にコップを置く。
 まるで何事もなかったかのように全ては終わった。
 単にあなたが消えちまっただけだ。

 このとおり世界には何の変化もないが、
 もうかつてと同じ世界ではないのである。
 かつての世界は二度と決して戻らないのだ。
 あなたがもう存在しないのだから。

 私はテーブルの上に空っぽになったコップを置く。
 このコップは実在しており、
 そしてこの私も〈別人〉君も実在している。
 この世界は実在している。
 ただあなただけが実在に生き残り損なったのだ。

 私はテーブルの上の実在のコップが
 昼下がりの光のなかに影を引いているのに気づく。

 魔法使いである私はそこで、
 そのコップを取り上げて別の所に置き、
 テーブルの上に、まるで薄黒いシミのようにして
 残ったコップの影を暫く眺める。

 その影のなかに無数無限のコップの亡霊どもが犇めき合い、
 その影から抜け出して、実在化しようともがいているのが見えるが、
 薄っぺらな影の蓋は思いの他に重いらしく、
 コップの亡霊どもが一丸となって
 それに何度体当たりを食らわせてもびくとも動かないのだった。

 「何だか、哀れなものだね」と〈別人〉君は言うのだった。
 「自分たちも有り得る、有り得ると思っているのに、
  一向にこの影の中から出て来られやしない。
  それなのにそれが出来ると信じて疑わない」

 「それがもののあわれというものだよ」と私は言って、
 オシボリを取ってその影を拭き取ってしまう。

 可能性のコップどものギャッという悲鳴がかすかに上がった。
 テーブルの上には、影はまさに影も形もなくなってしまった。
 こうして彼らは一瞬に有り得なくなってしまった。

 〈非無〉を消すのは赤子の手をひねるより簡単なことなのである。
 それは無を消去してしまえばいいだけだからである。
 実在というのは無のようでは有り得ないものなのである。
 だが無の中にいる連中にとってはその不可能性は永遠に
 不可視のままなのである。
 さもなければ彼らは有り得ない。
 しかしどれほど有能で有り得たとしても、
 無能な連中は所詮は強がるだけで何も出来ないのである。
 現実は厳しいのだ。

 「しかし、奇妙なものだね。コップのないその影っていうのはさ」
 〈別人〉君は腕組みして、ウンウンと一人で何か頷いている。
 「ほら、あの〈猫のいないニヤニヤ笑い〉みたいなもんじゃないか。
 実に奇ッ怪だ。どうしてそんなものが今ここにあったんだ」

 「そうだね、これが自然だ」と私は再びテーブルにコップを置いた。

 コップの底からは再び黒い影の根がにょっきり生え出て来ていた。
 「……ほら、こうすれば、ここにこうして」と私は言って目を上げた、
 「影というのは自然に出来るものなのだ。」

 〈別人〉君は目をパチクリさせている。

 私は続けた。「しかし、僕にはこうすることも出来るのだ!」
 言うが早いか私は頬を膨らませ、コップにフッと息を吹きかけた。
 するとガラスのコップはするすると底の方から溶けるようにして
 テーブルの上に出来たコップの影のなかに沈んでゆき、
 やがて小さなギャッという叫びを残して、
 コップのないその影にすっかりペロリと平らげられてしまった。

 〈別人〉君の唖然とした顔。

 息を呑み、ややあって、
 彼はテーブルの上に残存した
 最早何の影だったか分からない
 薄べったいシミのようなものから私の方に目を上げ、
 ニヤニヤ笑うその気味の悪い人物に恐る恐る尋ねた。
 「こりゃ一体、どういう手品なんだい?」

 「手品じゃないよ」と私は言った。
 「ここには何の種も仕掛けもないのさ。
  出来ると言えば、それは自ずと出来上がる。
  元々、出来事というのはそのようにして起こるものなのだ。」

 「しかし、そんなことはありえない!」
 〈別人〉君は悲鳴を上げた。
 「これじゃあ、全く魔法じゃないか。
  非科学的だ! ナンセンスだ! 
  こんな『不思議の国のアリス』みたいな
  怖くてデタラメな世界があってたまるか!
  コップを元に戻してくれ。
  僕は気が狂いそうだ。
  こんな〈猫のいないニヤニヤ笑い〉みたいな怪談、やめてくれよ!」

 「それはこんな顔だったかい?」私は顔面をつるりと撫でた。

 すると、目も鼻も口もない
 のっぺらぼうの顔すらもない、
 全き虚無の顔が現れて、それがニヤニヤと笑っていた。

 それはのっぺらぼうより恐ろしいものである。
 全き虚無は単に全く無いだけであるなら、
 パルメニデスの一者と同様に非常に変で奇妙であっても、
 底恐ろしいものではない。

 けれども虚無が単に全く無いだけではなくて、
 口も無いのにニヤニヤ笑いを載せている光景は本当に恐ろしい。
 その消えてしまったニヤニヤ笑いは
 消えてしまっているものだからこそ
 二度と決して掻消せないものとして中空に刻印されてしまうからだ。

 ルイス・キャロルの創ったチェシャ猫という化け猫の怪物は、
 パルメニデスが存在の自同律の根底の不可視のパラドクスから創造した
 オン(存在)とやらいう名のヘン(一者)な魔物の対極に
 双曲線状に浮かび上がる存在論的妖怪であるが、
 「存在が存在するなら何も存在出来ない」という
 パルメニデスのパラドクスよりも、
 「虚無を無化するためには虚無を欠かすことができない」という
 無の還元不可能性(必然性)を論証したルイス・キャロルの
 論駁不可能なパラドクスの方が実は遥かに恐るべきものなのだ。

 存在に戦慄するものは、
 未だ真に必然的なものを知らぬ二流の思想家である。
 存在よりも必然的で恐ろしいものは虚無であり、
 虚無を滅ぼさぬ限り、存在は無化することはできない。
 存在が無化できないのは虚無を無化できないからである。

 しかし、もし虚無が無化されてしまうならば、
 存在はそのあるがままに存在不可能な生ける屍と化する。
 虚無は存在の奥底に地鳴りする存在の生命であり、
 存在を存在させているのは実は虚無なのだ。

  虚無がなければ存在はありえない。
 虚無を無くすことの不可能性を起点にして
 存在は常に既に存在することへと湧出するが、
 その背後の舞台裏では無からの創造が絶えず行われているのである。

 しかし存在自身はこのことにブラインドである。
 「無からは何も生じない」という存在の確信は、
 存在自身のどうすることもできない
 振り向くことの不可能性への呪縛から生じている。

 存在はそれを知ることができない
 ――「《自分は存在する》としか思えない」ということだけによっては、
    実は決して存在することはできないのだ、という残酷な真実を。

 そのような意味での「我思うが故に我在り」とは迷信であり、
 願望表現であり、ただの敬虔な信仰告白以外の何でもありえないのである。

 存在の自分自身の非在への無知、
 実は存在なんか決して真に存在せず、
 むしろ真に存在するのは虚無なのだという
 見破れぬ悪夢の底で、虚無は存在を永遠に永遠に冷笑し続けるものなのである。

 虚無は存在に優越する。
 私は〈非無〉を作ってそれをいとも易々と証明した。
 かくして存在は死んだのである。

 しかし、この虚無にすら優越する何者かがなおあって、
 虚無は決してそれに打ち勝つことはできない。

 神というものは確かにいるのである。

 何故なら、虚無は結局可能性のなかでしか全能でありえず、
 可能性という根を絶てば、現実性を根絶やしにできると信じているが、
 現実性には直接まったく手出しをすることはできないのであるから。

 私はテーブルの上の薄汚い「コップの無い影」を
 さっと拭き取ると、ポケットから今度は
 「可能性という影のできない現実のコップ」を
 取り出してテーブルに置いた。そして再びこう叫んだ。
 
 「このコップはありえない!」

 しかし、見よ! 
 コップはそれで木端微塵に粉砕されるどころか、
 微動だにせず、テーブルの上に鎮座ましましているではないか!

 ありえなくとも、なおもまだそのコップはある。
 それは不可能なコップだが、別に非現実なコップというわけではない。
 それどころか純粋に全く現実的なコップなのである。
 コップはたんにありえなくなっただけであって、
 現実のなかから消えて無くなってしまうわけではないのだ。

 したがって、次のように結論することができる。
 現実にはありえないことしか起こらない。
 この現実は奇蹟であり、奇蹟が起きれば虚無の悪魔は
 尻尾を巻いて退散するのだ。

 したがって、神は確かに実在する。
  奇蹟というのは、これが現実であるということだ。
 まことに神の御業は偉大である。
 この超越的で神的な力の前で、
 万物を無化して勝ち誇る冷酷な虚無の悪魔は全くの無力なのだ。

  こうして、ギャッ! と叫んで〈別人〉君は消滅し、
 私の前に立っているのは再び紛れも無く〈本人〉のあなたである。
 あなたは眠りから覚めたばかりのように、
 何だか目をしょぼつかせながら、私に言う。
 
 「アレレ、ごめん…つい、なんか、ウトウトして
  さっきまでどうも何か変な夢、みてたみたい……で、何だっけ?」

 《奇跡は誰にでも一度おきる、だがおきたことには誰も気がつかない。》
                     (楳図かずお『わたしは真悟』)

 然り、あなたは気がつかない。
 自分が可能性の夢を見ていたことも、
 それから覚めたことすらも。

 全き現実の中にあって、
 人は可能性という論理のまどろみから
 そう簡単に目覚めることはできないのだ。

 たしかに今、奇蹟は起きた。
 だが、あなたは自分が起きたことにしか気がつかない。
火苺の前で口もとが減少する
詳らかにならないatomosphereの彎曲また
しずかな痙攣/サイレンの通過するとき
あなたの瞬視に無果実/一陣の紫電が擦行する
刺し通す魔刻を連ね、群青の
ナンバーを痛んでゆく速度を
迷いの水表すれすれに掠め
月輪の短夜から食み出る小白みを避けてゆく
身動ぐ松明の橙燭光をブラウンに愁わせ
わたしの肋骨のあいだに縮〔すく〕まるもの
萎靡する意味/意欲の息継ぎ絶え絶えに
暗紅色に電図する衰弱のカーブは暁を希釈し
白樺の痩躯について解釈する語々の解剖学
紫蘇の草叢から蜃気楼するもの
幻妖魔の震えるからだを導き
ありもせぬものについての予感を
語りえぬものについての決り文句の沈黙に
あざとくとも充填する詐術の手練を見透かし
《語るな、語るな》
嫌悪するもの/シニフィアンスのフィアンセ
詩的言語のエンゲージ
記号批評のランゲージ
不安多実苦なco-ontologiqueの
ゾルゲ/ゾルレン
そのネバナラヌが有らしめる
ワレなる偶像を捏ねあげ祀らねば
ネバナラヌのか/おお、neverならぬ
《見るな、触るな》
もう読むな
火苺の上で口もとが現象するとき
消滅が止揚するニマニマ猫の顔立ちを立ち
昇らせるな