原子力事故調査委員会の聴取の様子がTBSサンデーモーニングで放送されていた。斑目委員長や寺坂前委員長の口から驚くべき言葉がはき出された。おそらくそうだろうと思っていたことが1年たってようやく暴露されたようだ。枝野経産相が原発のない情況(原発ゼロで夏を乗り切る)を容認したことで、この様なことになったのであろう。原発廃止に向けた方向性には賛同するが、事実を本当にリアルタイムで公表し、考察できる体制を創り上げなければ、あらゆる産業が凶器となることを学ばなければ意味がない。

 

 除染事業も同じである。汚染地域での農業も同じである。これらすべての産業が凶器とならないためにも、不十分な調査研究については盲信することなく、事実を積み上げ、安全面に十分配慮した上で研究を進めることが必要だ。本日、東京新聞に東大が稲にセシウムが吸収されるメカニズムを解明した記事が掲載されていたが、あくまで実験室での研究にすぎない。この様なことを発表する場合にはその表現に十分な配慮が必要だ。


 福島では今年の作付けを巡って大詰めの議論になっている。その最中、加害者でもある東大がまたしても放射能を甘く見た研究発表をしていることに、日本の科学技術の凋落と倫理観の欠如を感じる。卒論の考察ならば許されるような希望的な内容だが、実態は今後のフィールドテストをしてみないと結果は不明である。そしてフィールドでは土壌や水そして生態系などあらゆる成分、情況が複雑で隣の圃場でも環境は異なる。その配慮がないまま指針と受け取れるような無意味な考察を発表することは唯の自己満足以上に罪深いものである。


 研究者や専門家は事実をありのままに条件も含めて謙虚な態度で世の中に提言すべきであり、自分の思い込みのためデータを誇張したり、改竄して結論を急いで成果を上げることに固執してはならない。正しい意識が科学者に有れば今回の原発事故もなかったであろうし、これほどバカげた原発依存症に日本がなる前に科学者達がブレーキをかけたことだろう。


 日本の科学の凋落と不信はこれからも続くであろうが、ここは科学者の頑張るところだ。本当の科学が再生されない限り、経済も政治も立ちゆかなくなるだろう。ものが生産されるには科学が必要であり、生産のないところに経済も政治も芸術も成り立たないのだから。