僕が駅前にでたとき、ちょうどパン屋がシャッターをおろしていた。

道すがら、多くの家族連れとすれちがった。

車も朝夕のピーク時とおなじくらい走っていた。

いちおう、昼食を買いにきたのだが、買えなくてもいいと思っていた。

高みにいるかはともかく、状況を見ておこうというのが一番の目的だった。

もし、買うことが目的なら、こんな遅い時間に出たりはしない。


カップラーメン、パン、菓子、水などもだろうか、そのあたりは売り切れていた。

ひと手間かけるつもりのひとが殺到したのだろうか、カレーのルーもよく売れていた。

食品以外ではトイレットペーパーと紙オムツ。

松屋にも、マクドナルドにも行列ができていた。


まぁ、ここまでならまだしも、


停電が予告されているというのに冷凍食品もよく売れていた。

昨日、我孫子で買い物をして、柏駅で降りるひとを、電車でみた。


ちょっとだけ、落ちついてほしい。


いま、冷凍庫に食品はないか。

冷蔵庫に3時間の停電で痛みかねないものはないか。

買ったものをちゃんと食べられるか。


そんなことを考えながら、なにも買わずに家に帰ってきたのだが、

どうしてこんなに行動に差が出るのだろう、という疑問がわいた。


たとえば、停電のグループわけにしても、我孫子市、柏市などは複数グループにまたがっていた。

昨夜の時点では、自分にかかわりのある地域がいつ停電する可能性があるのか、把握するのは難しかった。

今朝になってようやく両市のホームページにアクセスすることができたので、僕も、家族も把握してから行動できたのだが、

終日、地震情報を放送しているはずのテレビからは、ほとんどなんの情報も得られなかった。

おそらく、被災地のひとにとっても、原子力発電所周辺の住民にとっても、テレビってこんなもんなんじゃないのか、と思う。

なにやらずっとわめいている、大変だ、とわめいてはいるのだが、じつのところ取材というほどのことはできていない。

取材をして、獲得してきた情報ではないから、それにたいして受身にまわってしまう。


ネットにはネットの問題がある。

ネットの情報を活用するためには、あるていどの取捨選択能力が必要になる。

Twitterは情報を取得するための、ほんとうに便利なツールだが、

次々ととどけられる情報をさばけなければ、混乱してしまう。

そして、本来、メディアは個人に代わって「情報をさばく」ことをしなければいけない。

魚屋だって、肉屋だって、魚や家畜を丸ごと「提供」しているわけではないのとおなじように。


これからはじまるのは、最低でも6週間つづくと見積もられている持久戦だ。

その1日目、と考えると、もっとのんびりしていないと疲れてしまうんじゃないか、と思う。

原子炉で水素爆発が起こった、というできごととは比較にならないくらい瑣末なことかもしれないが、

そろそろ、テレビメディアにも問題提起してほしい。


つぶやきはひろがっている。