中二病でも恋がしたい!(最終回の感想) | 感想記(アメブロ版)

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爆ぜろリアル!
弾けろシナプス!
バニッシュメント…ディス、ワールド!


前半のお馬鹿モードから、終盤シリアスモードが入りましたが、最後はちゃんとけりがつきました。
いい作品でしたね。
できればラストはもうちょっとお馬鹿モードが入ってもよかったかと。




前々回、富樫君から「眼帯をはずせ」(→リアルを受け入れろ)と言われ、それ以降中二病を卒業し、周りに言われるがままに普通に生活し、中二病アイテムを捨て、母親に言われるままに死んだ父親の墓参りに来た六花。

「冷たい」
それは父親の墓と呼ばれるもの。
しかし、母親に言われるまま、笑ってあげて水をかけてあげる。
そこでの母親の一言
「急に上からかけたら、パパ冷たいっていうわよ」
「パパが……」
しかしそれはどう見ても六花にはただの墓石にしか見えない。


父親の死の後中二病になったため、その行動が理解されず、あるいは現実逃避とみなされていたのだけれど、富樫君に「眼帯をはずせ」と言われて、リアルに復帰。
しかし、どうにもしっくりこない。
何をすればいいのかわからない。
中二病アイテムを捨てるにしても「何をすてればいのかわからない」。
まるで親鳥から引き離された雛のようにあまりにぎこちない。
それでも母親、祖父母の言うことを聞いていれば喜んでもらえるが、その実彼らのリアルが分からない。
目の前にある墓石を父親として扱うことがリアルなのか……。

「中二病とは違うのかもしれないけど、なんかこう、自分は人とは違う、自分だけは気付いているから特別だー、とか、そういうのにすごい捕らわれているっていうか。
ほら、富樫くんも私も中二病を卒業して高校時代は普通の高校生やるぞーって思ってた訳じゃない?
でも、それだってきっと普通の高校生、みたいなイメージを自分で勝手に作って、それに捕らわれているのよ」

別の場面での森夏のセリフ。
こういうセリフが出てくること自体悟りすぎ、という感じがでてくるのだけれど。
このあたり、墓参りの場面と重なってきます。
つまり、墓参りとはこういうイメージだと母親が思い込んでいる。
そして、そのことに六花が違和感を感じている。
だって、六花は父親が死んだことに決着をつけていないのに、母親は墓石を差し出して「これが父親だよ」と言っているようなものですもの。
実際この場面で少し怒りを覚えたものですよ、人の中二病を言外に非難しているクセに何の妄想を話しているのかと。
それくらいだったらいっそわが道を突っ切っている方がよっぽど清々しいというものですよ。
現実を背景に自分の主義主張を押し付けるよりはね。
ちなみにそういう意味でこの母親は(第三者を介することで反論を封じたり、隠微な形で被害者を演じるなど)見事に最悪な行動パターンを示している。

「さよなら……さよなら、パパ!
 さよならぁぁぁ」

父親がいないことを知っている。
でも決着はついていない。
結局、その決着をつける方法が分からなかったのがこの悲劇の発端だったと思うのですよ。
富樫君を介して中二病という形でアイデンティティを取り戻したのだから、その時点で決着のつけ方を模索すればよかったのだけれど、今度はそこで「不可視境界線を探す」方法というところで足止めを食って中途半端な状態になっていたわけ。
「探す」というのは作り出す行為ではないから。
「与えてくれる場所」をみつけようとしていただけだから。
お馬鹿なのはいいけどもうちょっと能動的に動いてほしかったところですね。
とりあえず、富樫君の助けで父親とのお別れという決着がついたので、オチとしてはついているわけです。


ということで、
この話は中二病時代にインプリンティングしてしまった少女に富樫君が付きまとわれることになるお話だということでした。
あとはまあ、リアルを主張してネガティブをまき散らすよりは、自分のファンタジーを持ってアホみたいに生きる方がよっぽど楽しく有意義だろうと。

……そういう意味ではエンディングはもっと馬鹿っぽくてもよかったかも。
それに基本的に富樫君は六花のあこがれで親鳥であるから恋とは別モノかもとかね。