備後護国神社 福山市 | タカへの個人的な日記...アメブロ版。

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個人的な日常の出来事をつづっています。暇つぶしに読んでもらえれば。

去年の話です。広島の福山市の御朱印めぐりを。
やってきたのは備後護国神社。

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明治元年、福山藩主・阿部正桓が、石見益田の役と
箱館戦争での戦死者の霊を祀るために
旧深津郡吉津村に招魂社を創立したのに始まるそうです。

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明治26年に福山公園(現在の福山城)の本丸人質櫓跡に遷座し
明治34年に官祭福山招魂社に改称。

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昭和14年(1939年)に内務大臣の指定を受けて
福山護國神社と改称。

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社殿を阿部神社の本殿を改装したうえで合祀することが決定し
昭和31年(1956年)に復興し、それに合わせて福山藩主の
阿部氏が建立した阿部神社は境内社として残っています。

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現在の「護国の英霊」以外の祭神は、このとき合祀されたものである。
翌昭和32年(1957年)に備後護国神社に改称したそうです。

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阿部神社の時代には参道は南側にあったが
焼失した備後護国神社を移す際に参道石段を西側に移すとともに
拝殿神門が建立されている。そのため、西側から参拝するのが
正式であるが、はじめの写真のように南側からも参拝するのは可能です。

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この神社の境内には宮本武蔵が座ったとされる「腰掛石」が
安置されています。武蔵は巌流島の決闘ののち
大坂の役(慶長19年(1614年) - 元和元年(1615年)において
俗説では豊臣方として参戦したとされているが
文献では徳川方である水野勝成の陣において嫡子の
水野勝重付として名前が記されているそうです。

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腰掛石で伝承によれば寛永年間(1624年~1629年)に
武蔵が福山を訪問したとき勝成の従兄弟で水野家二番家老である
中山将監の屋敷で饗宴が催され庭園で腰を掛けた石だとか。
そして水野家断絶後に入封した阿部氏の時代にも家老下宮三郎右衛門の
屋敷に引き続きあったが、福山藩廃藩に際して当時の阿部神社に
奉納されたといわれてるんだとか。
よくある伝承話なんですけどね。

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福山藩7代藩主、阿部 正弘(あべ まさひろ)。
ペリーの再来により、日米和親条約を締結したときの老中。

117枚目。

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住所は広島県福山市丸之内1-9-1。

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