問題は、「200字論述新研究63(問題23・24)」で確認してください。

解説は、「200字論述新研究68(問題24を考える➊)」をご覧ください。

 

問題24 解説

 

生糸の大量輸出

 

1859年から、横浜長崎などで貿易が始まった。

それは、居留地内で外国商人と日本商人が取引するというかたちをとるものだった(居留地貿易)。

 

日本から大量に生糸が輸出されたため、養蚕業(繭生産)・製糸業(生糸生産)は活況を呈したが、絹織物業は生糸不足により打撃をうけた

また、生糸が横浜に直送されるようになったため、株仲間の独占する江戸中心の特権的な流通機構は大きく機能を低下させた

 

こうした状況に対して、1860年、幕府は生糸などの商品を江戸の問屋経由で横浜に送ることを命じる五品江戸廻送令を発令したが、在郷商人や列国の反対で十分な効果はあげられなかった

 

横浜

日米修好通商条約では神奈川が開港場に指定されたが、幕府は、人口約3千人の神奈川を避け、わずかな居住者しかいなかった寒村横浜村を開港場とした。

 

近世における生糸の国産化

1639年のポルトガル船の来航禁止(寛永十六年禁令)によって、いわゆる「鎖国」体制が完成した。

 

しかし「鎖国」後の長崎貿易においても白糸(しろいと)(生糸)は最大の輸入品だった。

とくに17世紀なかごろ以後、経済の発展にともなって人々の生活が向上したために、高機(たかばた)(従来よりも高度な技術を用いた木製手動織機)を用いた西陣織など、高級絹織物の需要がさらに増大し、その原料である白糸の輸入(オランダ船が仲介)や清(明は1644年に滅亡)からの私貿易船の来航も、年々増加した

 

その結果、金銀が大量に流出したので、幕府は、輸入を抑制するため、17世紀末から長崎貿易に対する制限を強化していった。

 

18世紀初頭前後になると、その不足を補うために国内における生糸(和糸(わいと))の生産が増加し、近畿・中部・関東地方を中心に養蚕・製糸がさかんになっていく。

これらの地方から京都に送られる生糸は急増し、1689年わずかに9軒だった京都の和糸問屋は、1734年には34軒を数えるまでになった。

 

また18世紀の後半になると、上野(こうずけ)桐生を中心とする北関東(他に伊勢崎足利)の絹織物生産も発展し、西陣織などとはげしく競合するようになった(19世紀前半にはマニュファクチュア段階に到達)。

 

こうした生糸の需要増大に対応して養蚕を副業とする農家が増加し、そこではしだいに座繰製糸の方法が普及していった。

 

続きの解説は、「200字論述新研究70(問題24を考える➌)」をご覧ください。