問題は、「200字論述新研究21(問題9・10)」で確認してください。

 

問題10 解説

 

合議制の確立

 

幕府軍が短期間のうちに朝廷側を圧倒した1221年の承久の乱後、北条義時北条政子らがあいついで亡くなった。

こうしたなかで3代執権に就任した北条泰時は、御家人による集団指導体制を確立することで政治を運営しようとしていった。

 

そのためにまず、連署(執権の補佐役)、評定衆(有力御家人で構成)がおかれ、重要な政治課題や裁判は、執権・連署・評定衆の合議で決定されるようになった。

このような執権を中心とした合議制にもとづく政治運営のことを、執権政治と呼んでいる。

 

さらに泰時は、合議のための指針、公平な裁判のための基準となる法典の編纂にとりくみ、1232年に御成敗式目を制定した。

 

御成敗式目の基本的な特徴

 

御成敗式目については、以下の点を確認しておきたい。

 

 編纂の基準

源頼朝以来の先例や「道理」と呼ばれた武士社会での慣習・道徳を成文化。

 

 編纂の目的

合議のための指針や公平な裁判のための基準を示すために編纂された。

 

 公家法・本所法との関係

御成敗式目は、武家最初の体系的法典であり、幕府法の自立を宣言するものだったが、一方で、律令の系譜をひく公家法や、荘園領主のもとでの本所法共存する性格をもっていた。

 

この特徴は、北条泰時が式目制定の趣旨などを説明した北条泰時書状(泰時消息文)のなかの、「この式目は……武家の人へのはからひのためばかりに候。これによりて京都の御沙汰、律令のおきて聊(いささか)もあらたまるべきにあらず候也」、という表現によく示されている。

 

ただし以後、武家の成長にともなって、公家法や本所法のおよぶ土地においても、公平さを重んじる武家法の影響が強まり、その適用範囲は拡大していった

 

 室町幕府法

室町幕府の基本法として機能したのは、鎌倉幕府と同様、御成敗式目だった

鎌倉幕府による御成敗式目の追加法は式目追加と総称され、室町幕府による御成敗式目の追加法は建武以来追加と総称された。

 

この点に関連して、室町幕府が成立していく過程を武家方から描いた歴史書『梅松論』の一節を紹介しておきたい。

 

そこには、「時刻到来にや、元弘三(1333)年の夏、時政の子孫七百余人同時に滅亡すといへども、定め置ける条々は今に残り、天下を治め弓箭(ゆみや)の道をたゞす法となりけるこそ目出度(めでた)けれ」(アミカケ部分の大意は「御成敗式目などの法令は、現在もなお天下を統治し、武士社会を律する法として機能しており、実に結構なことだ」)といった記述が残されている。

 

御成敗式目の性格が象徴的に示されているといえよう。

 

 式目の生命力

御成敗式目は、以後も戦国大名分国法に影響を与え、近世になると寺子屋(自然発生的に形成された庶民のための初等教育機関)の学習教材として利用されるなど、その生命力はきわめて強力だった。

 

続きの解説は、「200字論述新研究25(問題10を考える➋)」をご覧ください。