今年3月10日、東京大空襲から70年を迎える。
わずか2時間で罪のない一般市民10万の命が奪われた。
落語家・林家一門のおかみさん海老名香葉子さんは、
東京大空襲で、家族6人を失った。
海老名さんは、
70年前の出来事を、人々の記憶に残す活動をしている。
昭和20年3月10日。
疎開先の沼津の山から見た燃え盛る東京の光景が、
いまでも瞼に焼き付いている。
東京での異変を感じ案じていたところ、
6日後に、生き残った喜三郎兄さんが、惨状を伝えに来た。
自分を残して、家族みんなが火の海に巻き込まれたと。
一晩、兄さんと抱き合って泣き明かした。
実家は、「竿忠」という代々続く竿師(釣竿作りの職人)の家。
初代の曽祖父は、パリ万博で最高賞を取り、
明治天皇からもお褒めの言葉をいただいた職人。
その名人芸を受け継いだ祖父や父の仕事ぶりを見て育った。
両親と3人の兄が、優しく接してくれた。
香葉子さんは、弟をかわいがった。
男兄弟の中の一人娘だった。
だが、家族6人、親せきを含めると一度に18人が亡くなった。
終戦後は、親戚の家を頼って転々とした。
沼津→石川・穴水→東京・中野→埼玉・浦和→千葉・長者町→
東京・中野坂上→喜三郎兄さんと同居(船橋)(曳舟)。
言うに言われぬ苦労が続いた。
そして、昭和25年、
ようやく竿忠の常連客の一人、落語家の
三遊亭金馬師匠の家に
落ち着くことが出来た。
金馬宅に、七代目林家正蔵の妻が出入りしていた。
それが縁で、正蔵の実子の初代三平と結婚した。
長女・みどり、次女・泰葉、
長男・九代目林家正蔵、次男・二代目林家三平と、
4人の子の母となった。
夫の初代三平が亡くなって、もう35年。
一門の支えとなり、今日に到った。
大勢の中で暮らしたかった思いが実った。
2005年、香葉子さんは、
東京・上野公園に慰霊碑「哀しみの東京大空襲」と、
平和祈念母子像「時忘れじの塔」を建立した。
毎年3月9日に慰霊のつどいを開いている。
今年も、午前10時から供養式典と、
11時半から記念式典を開く。
今年81歳のおかみさん。
この体験を伝えるため、100までは生きたいという。
おかみさんの語る東京大空襲
3月1日10:00~、文化放送『日曜はがんばらない』で。