大韓帝国マンセー | こりあうぉっちんぐ

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 嫌韓ではありません、笑韓です。観ているだけなら、これほど面白い人たちもありませんから。

2017/8/4 中央日報

大韓帝国は無気力に滅びたのではない

 

 

 

 

 

(前略)


  これまで、私たちが大韓帝国時代を振り返ることさえ忌み嫌っていた理由は何か。全く同感できず、前後がかみあわない事件だけが羅列してあったからだ。韓国の近代的な歴史叙述は、日本の学者の手で始まったという点が悲しい。どうしたらこのように無気力に滅びえたのか、このような感情を誰もが一度は持ったことだろう。黄教授はその点に執拗に掘り下げている。日帝植民史学者が脱落させ、解放以降の韓国学者が気づけなかった2つの事件を復元させた。1894年の甲午倭乱(東学党の乱)と1904年の甲辰倭乱(日露戦争)だ。漢文・英語・ドイツ語・フランス語・ロシア語など外国語に精通している長所を活かした。 

  「朝鮮は1894年の甲午倭乱で滅亡し、大韓帝国は1904年の甲辰倭乱で滅亡しました。この2つの倭乱がこれまでの歴史から跡形もなく消えてしまいました。その間、2回の滅亡だけが目に映るだけで、義兵戦争と光復(解放)戦争を通して激しく抵抗して勝利した2回の復活は目に入ってきませんでした」 

 

 1894年6月、甲午倭乱の時に侵入してきたが、明成(ミョンソン)皇后殺害に怒った百姓(ペクソン)の武装蜂起と、高宗(コジョン)の俄館亡命で一時退却した日本軍は、1904年(甲辰年)2月に再び侵入して韓半島(朝鮮半島)全域を占領した。日帝の全面侵攻に国軍と民軍(義兵)が力を合わせ、全国各地で6年間にわたってすさまじい「国民戦争」を繰り広げて抵抗した。その時敗北したからと言って、大韓帝国国軍をただの烏合の衆だと下に見るべきではない、と著者は言う。1901年、すでに韓国軍は日帝以外のアジアのどの国も持てなかった3万大軍の「新式軍隊」であり、乙巳勒約(第二次日韓協約、1905年)以降、3万国軍と民軍が合わさって組織された国民軍は14万1815人に達した。清軍とロシア軍に勝った日本軍に戦いを挑み、戦いらしい戦いをした軍隊は、その後米軍を除いては大韓帝国の国民軍しかなかったが、このような事実を私たちは知らずにいる。 

 

(以下略)

 

(1) http://japanese.joins.com/article/035/232035.html?servcode=400&sectcode=440

 

(2) http://japanese.joins.com/article/036/232036.html?servcode=400&sectcode=440

 

 

引用ここまで

 

 

 緑色の文字列は関連記事へのリンクです。

 

 

 何といいますか・・・・・光復節が近づくとこういう方々が出てくるもので。

 

 しょうがないんですよね。朝鮮の歴史などは直視すると惨めになるだけなもんですから、マスコミの使命は輝かしい朝鮮の歴史を捏造することなんです。

 

 2009年10月21日の中央日報は”【その時の今日】青山里戦闘、輝く勝利”・・・という記事で”金佐鎭氏の部下600人と洪範図氏の部下300人が大小の戦闘約10回で撃ち殺した倭兵(日本軍)が1200人”・・・とまで飛ばしていました。

 

 しかし悪辣なチョッパリである筑波大の古田教授などは”近代史上、韓国は日本軍と戦ったことがない。韓国が主張する戦いは1920年の青山里戦闘1回きりで、敵は朝鮮人匪賊だった”・・・と切り捨ててしまいますしねえ

 

 そりゃ当然ですな。2010年6月4日の聯合ニュース韓国版も”金佐鎮将軍がどんな生活を送ったしある死をむかえたかに関しては断片的跡らしか残っていない”・・・と書かざるを得なかったのです

 

 そりゃそうです。将軍の業績などは史実ではないんですから知られているはずも。しかし韓国のマスコミはホルホル記事を書くのが義務ですから

 

 

1901年、すでに韓国軍は日帝以外のアジアのどの国も持てなかった3万大軍の「新式軍隊」であり、乙巳勒約(第二次日韓協約、1905年)以降、3万国軍と民軍が合わさって組織された国民軍は14万1815人に達した。清軍とロシア軍に勝った日本軍に戦いを挑み、戦いらしい戦いをした軍隊は、その後米軍を除いては大韓帝国の国民軍しかなかったが、このような事実を私たちは知らずにいる

 

 

 と飛ばしてしまうんですね。勿論そういうことが史実ではないことを知っている歴史学者もいるんですが、そういう人にはマスコミはお座敷をかけないんですね。

 

 

 

 

 

 

 

 ボクには悪夢の歴史だった・・・・・・