また丹波マンガン記念館か | こりあうぉっちんぐ

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2014/8/10 朝日新聞
坑道に刻まれた過酷 丹波マンガン記念館




 府の中部、丹波地方一帯はかつてマンガンの国内有数の産地だった。マンガンは兵器製造には欠かすことができず、戦時中は朝鮮班と言う出身者らが過酷な採掘作業にあたった。そんな鉱山の一つが記念館として残されている

 京都市の中心部から車で約1時間。右京区京北町の杉林に囲まれた山中に、丹波マンガン記念館はある。

 元鉱山労働者で在日1世の故・李(リ)貞鎬(ジョンホ)さんが1989年、自ら経営した鉱山を私財を投じて改修し、開館した。資金難から2009年にいったん閉鎖したが、日韓で支援の輪が広がり、11年7月に再び開館した。

 その1カ月後のことだ。

 「強制連行なんてなかった」「日本が嫌なら、朝鮮に帰れ」。記念館の門前に十数人が陣取り、メガホンでがなり立てた。

 「ヘイトスピーチ」は約1時間半続き、10人ほどいた来館者はみな怖がって帰ったという。

 貞鎬さんの三男で館長の龍植(ヨンシッ)さん(54)は「『強制連行を伝える唯一の記念館』を名乗っているためだろうか、嫌がらせは珍しくない。しかし負の歴史も直視してほしい」と言う。

 坑道は約80本あり、総延長は約20キロに及ぶ。うち約300メートルを整備し、公開している。龍植さんの案内で、高さ約2メートル、幅約1・8メートルの坑道を進む。

 ゴツゴツした岩肌から水滴がしたたり落ちる。元々の坑道は、中腰か腹ばいにならないと進めない狭さだったようだ。地下深くまで掘り下げた縦穴も、黒々と口を開けて残る。



 過酷な作業の様子はマネキンで再現されている。戦前・戦中は、硬い岩盤にノミとハンマーで穴を開け、発破をかけて掘り進んだ。1日で進める距離はわずか3センチ。掘り出したマンガンは人力で外に運び出した。



 マンガンは鉄に混ぜて硬度を高め、戦車や戦艦、大砲などを作るために必需品だった

 しかし戦争の激化に伴い国内では働き手の成人男性が不足し、政府は朝鮮半島に労働力を求めた。最盛期の太平洋戦争前後には、一帯で約3千人の朝鮮人が働いていたとされる。発破の粉じんによるじん肺で、長年苦しんだり亡くなったりした労働者も多いという



 貞鎬さんは記念館を「朝鮮人の鉱夫には墓がない。ここが墓、肺塚や」と話していたという。貞鎬さんが95年にじん肺のため62歳で亡くなった後も、龍植さんが記念館を続けてきた。公的な支援は一切ない。

 7月下旬、三重県名張市の市立比奈知小学校の教員17人が研修で訪れた。奥中佐矢子教諭(30)は同行した記者に「知らないことがまだいっぱいあることを思い知った」と話した。

 「未来を担う子どもたちに戦争の実態を伝えたい」

     ◇

 〈丹波地方のマンガン鉱山と記念館〉右京区京北町や南丹市一帯の鉱床で、1895(明治28)年ごろから採掘が始まった。最盛期には鉱山は約300カ所に上ったとされる。しかし安い輸入マンガンに押され、1980年代初頭までに姿を消した。丹波マンガン記念館(075・854・0046)は国道162号の下中交差点を東へ数分。大人1200円、小中学生800円。水曜休館。



■「加害」の歴史継承を

 京都に着任して1年3カ月あまり。同僚に聞くまで、鉱山や記念館について詳しく知らなかった。記念館を作った故・李貞鎬さんの両親は、日本の植民地支配で田畑を奪われ、仕事を求めて来日したという。「力ずく」ではないものの、やむにやまれずに日本に渡った朝鮮半島出身者も少なくないとされる。貞鎬さんは「これも強制連行の一種だ」と話していたという。こうした「加害」の歴史もしっかり記憶し、継承していきたい。(小河雅臣

http://digital.asahi.com/articles/ASG7Y6SZ9G7YPLZB01S.html?_requesturl=articles%2FASG7Y6SZ9G7YPLZB01S.htmlamp

引用ここまで


 緑色の文字列は関連記事へのリンクです。


 しかし分かってはいましたが、朝日新聞のバカさ加減には限界というものがないんですね。
 いや朝日新聞だけじゃないんですけどね。全国紙の記者などは入社後数年は地方に出されて修業を積むようですが、変なエリート意識を持って地方を眺め、そしてよせばいいのに記事なんぞを書くものですから、各新聞の地方版などには抱腹絶倒の記事が絶えず。

 別に朝日だけではありません。公平を期するために2010年7月の読売のアホ記事を紹介しますと”
明日香村豊浦の向原寺(蘇我原敬浄住職)で23日、古代に朝鮮半島の百済から日本に伎楽(ぎがく)が伝わったことを記念する石碑の除幕式が開かれた”・・・という、事情を知っている者には眩暈のするような記事がありました。

 ええ、百済伎楽などというものは、全く伝統が伝わっておらず、どういうものかさっぱり分からないために、03年に発足した伝承保存会とやらが、日本の歌舞伎や能からヒントを得て捏造した創作舞踊に過ぎないんですね。

 若造の書いた記事はちゃんとチェックしろよ。

 マンガン記念館についていて書いた
小河雅臣なんて記者の名前を聞くのは初めてですが、正義感溢れる左巻きの青年なんでしょうね。
 証拠はないけど日本は悪いことをしたに決まっている!ええ、君の先輩の植村隆も高校時代から韓国に偏愛を抱いていた左巻きのアホでしたが、入社後は韓国に留学し、韓国人の嫁を貰い・・・・・その母親が詐欺師であるというのが何とも・・・・・その詐欺師に進んで騙されたんでしょうなあ。

 ええ、従軍慰安婦の強制連行なんて嘘記事を書いて、結局は記事を訂正される羽目に・・・・・本人は実質的に会社を追われ、神戸の女子大の教授になるはずが、そこからも拒否され、北海道の大学の非常勤講師として不遇の身を・・・・・

 別にどうでもいいんですけどね。植村君の後継者のアホには不自由しないんですから。

 ”
三重県名張市の市立比奈知小学校の教員17人が研修で訪れた・・・知らないことがまだいっぱいあることを思い知った”・・・日教組の研修でしょうな。
 ええ、世の中には君の知らないことが一杯あるんですよ。

 そもそも”
(丹波マンガン記念館は)在日1世の故・李(リ)貞鎬(ジョンホ)さんが1989年、自ら経営した鉱山を私財を投じて改修し、開館した”・・・というあたりで気付け。いえ、馬鹿ですから無理なんですが。

 ”
丹波地方のマンガン鉱山・・・1895(明治28)年ごろから採掘が始まった。最盛期には鉱山は約300カ所に上ったとされる”・・・”マンガンは鉄に混ぜて硬度を高め、戦車や戦艦、大砲などを作るために必需品だった”・・・そういう貴重な軍需物資を産する鉱山を朝鮮人が経営していたということで・・・・駄目か。馬鹿だもんな。

 ”
李貞鎬さんの両親は、日本の植民地支配で田畑を奪われ、仕事を求めて来日したという”・・・小河雅臣記者は聞いたことをそのまま書いているだけで一切ウラは取らないんですね。
 日帝が朝鮮人の土地を奪った!なんて神話は司馬遼太郎も「街道をゆく」で安易に引用していますが、私も論破したことがありますし、ソウル大教授の李栄薫も否定していました。

 作家で司馬の友人だった金達寿は少年時代に日本に渡ってきましたが、朝鮮では親父の道楽で田畑を失ったために生活出来なかったんですね。
 別に日帝に土地を奪われたわけではありません。道楽親父が遊興のために売り払ったんです。

 そして学費や生活費を稼ぐためにバタ屋、つまり廃品回収業を人を雇って経営していました。
 日本ではいくらでも朝鮮人が起業出来たんですね。それで
李貞鎬は鉱山を経営したわけですが。

 だからね”
戦争の激化に伴い国内では働き手の成人男性が不足し、政府は朝鮮半島に労働力を求めた”・・・総督府が渡航を制限しようかというくらい、朝鮮人は日本を目指したんです。
 戦後ですら、何の希望もない韓国を見捨てて日本に密航し、大富豪となったパチンコマルハンの会長とか、金達寿の友人の
李進熙和光大学名誉教授とか。

 それにね”
過酷な作業の様子はマネキンで再現されている”・・・その過酷な作業を強いたのは経営者である君のパパだしねえ。
 ええ、朝鮮人経営者が朝鮮人労働者を搾取してたんですな。なんだ、朝鮮人の女郎屋が朝鮮人慰安婦を働かせていた、いわゆる従軍慰安婦と同じ構図じゃないか。アサヒも日教組も簡単に騙されるんじゃないよ。

 ”
嫌がらせは珍しくない”・・・ええ、今の館長は未だに鉱山の鉱業権を有しておりましてね。案内図を観れば分かりますが京都府立北桑田高等学校のすぐ近くで発破をかけたりサイレンを鳴らしたりして嫌がらせをやっているんです。

 それに関して朝日の反日仲間の京都新聞も”
業者は「違法行為はなく、やめる必要はない」とするが、耳鳴りを訴える生徒もいることから府教育委員会は「学習の権利を侵害されている」として、改善されなければ音量の低減などを求める仮処分を京都地裁に申請する方針を固めた”・・・と書いていました。(web魚拓)

 そして業者、つまり丹波マンガン記念館の館主は”
10億円の価値があるマンガンが眠っている可能性がある。問題解決には、学校が引っ越すか、うちが補償金をもらって休業するかのどちらかだ”・・・堂々と強請を働いていました。

 いくら強請が在日の生業とはいえ・・・・・”
三重県名張市の市立比奈知小学校の教員17人”・・・も少しは勉強しろよ。お前らの研修先は高校の授業を妨害している強請屋だぞ。

 ええ、アサヒの記者には期待していませんが。








 08年3月のチコとミケ・・・・昼寝じゃないニダ、警備ニダ。